第一話 アリアドネ(14)
「くっ――!」
伏せた状態の和弘が、箱から跳び出してくる。
手に持っていたカーキ色のモッズコートをドアの間に落とし、代わりにモップの柄を掴むと、少女の脇すれすれを通すようにして、日野の腹部にモップの柄の先を突き出してきた。
「ぐぅ!」
息も止まるような突きに、日野は後方へ吹っ飛ばされた。
その衝撃は、体を貫かれてもおかしくないほどで、床に背中を打ち付けた日野は、それでも反撃に出た。
床に背中を打ち付けた勢いを利用し、後ろ回りからの起き上がりで膝立ちになり、両手保持でオートマチックを構えた。
だが、それさえも予期していたかのように、和弘はすでに間合いを詰めていた。
柄の先端でオートマチックごと両手を叩かれ、日野の手から弾き飛ばしたのだ。
手の甲の骨に響くような痛みが走るも、感覚を遮断し、意識の外に痛覚を追いやる。
棒術の如く、和弘はそこからすかさず日野の喉元に向けて突きを繰り出してきた。
だが、日野もその動きに順応していた。
紙一重で横に踏み込んでかわすと、そこから今度は前へ踏み込み、間合いを詰めた。
脇で挟むようにしてモップの柄を絡めとり、そこから和弘の腹部に向かって突き出すような蹴りを繰り出す。
和弘はすぐにモップから手を離すと同時に後方へ跳んだ。
日野は、繰り出した蹴りに手ごたえがないことに、内心で舌打ちをした。
和弘の反射的ともいえる判断が、後方に跳ぶことによって蹴りの衝撃を最小限に留めたのだ。
モップという武器に固執して握り続けていれば、蹴りの衝撃すべてを与えられた。
そうすれば、肋骨の何本かにはヒビを入れることができた。
さすがだな、と日野は感心した。
死を体感させるほどの訓練が、日野を、そして和弘を、考えるよりも先に体が動くように変化させた。
極限状態を前に、考えを放棄することは愚かだが、考えて動くいうロスを生じさせる行動から、考えずとも体が勝手に動くようになるまで昇華させることによって、コンマ一秒にも満たない間で生死を決める判断を下させるのだ。
その判断が早ければ早いほど、相手の先を行き、制することができる。
日野は脇に挟んだモップを離し、すぐに和弘との距離を詰めた。
お互い、銃の間合いよりも近い状態となっており、そうなれば武器になるのは己の肉体のみ。
日野の右ストレートが繰り出される。
和弘はそれを左手で弾くようにして流し、すかさず右肘を前に踏み込むと同時に打ち込んできた。
日野は左腕を上げ、肘を曲げて左側頭部に向かってくる和弘の右肘をガードした。
だが、衝撃までは殺せず、右によろめく。
すかさず和弘の左拳が日野の右脇腹をえぐった。
「――ッ!」
肋骨を持っていかれた感触が、体のうちから伝わってきた。
和弘は止まらず、そこからさらに左拳を日野の顎へ繰り出し、アッパーカットをかました。
首を支点に脳が揺さぶられ、平衡感覚が失われる。
それでも日野は踏み留まり、両手を前にファイティングポーズを取り、次の攻撃に備えた。
だが、それは無意識に近い動きで、渾身の一撃とばかりに繰り出される和弘の右ストレートを左頬に喰らうまで、日野はその動きに気づくことができなかった。
顔面への衝撃に加え、廊下の壁に全身を叩きつけられ、日野はそのまま床に倒れ込んだ。
「……」
やはり、和弘は強い。
何せ和弘は、亮介とパートナーだったのだから。
自分のような落ちこぼれとは……違う。
「……せ」
日野は半ば無意識に、その言葉を口にしていた。
それが聞こえていたのかどうかは分からない。
だけど和弘は、日野の手から弾かれたP230を拾うと、その銃口を向けた。
横たわったまま、抵抗すら示さず、日野は和弘を見上げた。
向けられたオートマチックのフロントサイトとリアサイトが重なった向こうで、和弘の瞳と目が合う。
誰よりも不愛想で、無感情で、まるで機械のようで、能面を被ったような奴だった。
その瞳は何も捉えず、何も映してはいなかった。
誰もが、この男こそがと思っていた。
だが、結果は違った。
当時は意味が分からなかった。
だけど、こうして今、相対して分かった。
その瞳に込められた意志。
それを突きつけられて、日野は理解した。
(ああ、こいつは『人』で在り続けたいと思っていたんだな……)
和弘が手に持つオートマチックのトリガーが絞られる。
(俺も……お前のような――)
射撃による破裂音が耳に届くよりも先に、心臓を貫いた弾丸が日野の命を終わらせたのだった。
※
「殺せ」
そう、日野が呟いた。
だから、撃った。
そう望まれたから。
トリガーを引いたP230から弾丸は射出され、それが正確に日野の心臓を貫いた。
心臓の機能を停止させた弾丸が、日野に苦痛を感じさせる間もなく命を奪い去る。
衝撃で体が跳ねるも、そこから日野が動くことはなかった。
弛緩した筋肉が、瞼を半端な状態で閉ざし、瞳は焦点を失ったように虚ろを見ている。
彼は、救われたのだろうか。
「あ、あなたは……」
その震えるような声に、和弘は振り返った。
そこには、和弘にとっての行動原理――春花が床に座り込んでいた。
「思い出したのか?」
振り返る和弘に、春花が困惑したような表情で頭を振る。
「わ、分からない。でも、あの車の事故で、あなたを見たような……」
その先を言おうとした春花が、何かに気づいたかのようにハッとし、そして視線を和弘からその後方へと向けた。
それを見た和弘は、踵を返して反転すると同時に片膝を床につき、後方へ銃口を向けた。
その銃口の先には、病室から顔と銃だけを覗かせる亮介がいた。
二人が構えたオートマチックの照準が重なる。
そして、二人の視線もまた、交わった。
「日野を殺したのか」
「……」
「俺を殺すこともできなかった度胸のない奴がな……変わったな」
「何も……」
「あ?」
「何も変わっていない」
「だったら……なぜ俺とやり合わなかった」
「……」
「お得意のだんまりか。まぁいい」
この状況を――いや、再会を楽しんでいるかのように口角を釣り上げる亮介に対し、和弘は表情を崩すことはなかった。
時が止まったかのような、瞬く間の沈黙と静寂、そして――
「――ッ!」
「――ッ!」
お互いに向け合っていたオートマチックのトリガーが引かれた。
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