中編 - ハンカチを濡らすのは



『映画のチケット届いた?』



一瞬で血の気が引き、嫌な汗が噴き出る。


ちょっと待て、彼女からチケットが届いたのかを確認される意味がわからない。情報を整理しよう。



封筒は2通。小さな箱は1つ。


箱の中身はシンプルなハンカチと絆創膏。

封筒の片方はクレジットカードの支払明細。

最後の封筒が映画鑑賞のチケットだ。



この映画鑑賞のチケットの送り元はしっかりと確認せずに、勝手に自動宅配サービスのものだと思っていたが・・・。


勤め先の会社がある7階からエレベーターに乗る。よほど焦っているのか、乗り込んだは良いが行き先階のボタンを押してないことに気づく。そうだ、カバンの中の封筒の宛先を見てみよう。おそらくは、彼女が私の住所を届け先にして購入したのだろう。購入した記憶がないから、自動宅配サービスのものと勘違いしたに違いない。





彼女の名前は「透」という。男っぽい名前のせいか、育ちが良いせいか、プライドが高く、負けず嫌いだ。きっと仕事に打ち込むのも自分に厳しいからだろう。本人は自分の名前がとても嫌いなようで、名前の話になると決まって不機嫌になる。


彼女の友人はそれを分かっていながら彼女を「とおちゃん」なんて呼んでいるようだ。一見、父ちゃんと聞こえるその呼び名は、彼女は込められた親しみを理解しているようで、渋々受け入れているようだ。


一方、私は「トオル」という響きが女性の名前として気に入っている。高潔な彼女に相応しい透明感のある名前だ。ただその性格は厳しく育てられた影響か、彼女自身にも厳しいだけでなく周りにも厳しく、2つ年上の私でさえ、問い詰められれば閉口してしまうほどだ。性格の通り、きっちりとした服装を好む彼女は、24という年齢ながら、私と同年齢かそれ以上に見える。


そうやって厳しく育てられた彼女の両親には、まだお互いの関係を知らせていない。彼女が私のことを結婚に値しないと考えているのか、頼りないと思っているのか・・・、まだ何かが足りていないのは確かだと思うが、それを直接聞くと精神的に追い込まれそうなので、あえて問いたださないようにしている。


そんな事情から、実家に住む彼女は、稀に彼女と私が共有するものをネット購入する際に私の家を届け先にするのだ。


エレベーターから降りた私は、会社のビルの中にある1階エントランスのベンチに座り、映画鑑賞の無料チケットが入っていた封筒を確認する。確かに、彼女の名前ではないが、知らない個人からだった。映画館の株主優待の鑑賞チケットだったので、大方オークションサイトで購入したのだろう。





チケットは同僚にプレゼントしてしまったし、喜んでいた女性の同僚から取り戻すのはあまりに気が引ける。ここは正直に伝えて、彼女が見たい映画を予約しよう。


『すまない。チケットは人にあげてしまったよ。見に行きたい映画があれば何か予約して見に行こう。』


帰宅までの道中に彼女から返事が来た。仕事がオフの時間なら返事が早い彼女には珍しく、相当悩んだのか、家に着く寸前のことだった。


『最悪…。ちょっと話があるの。今すぐいつものカフェに来て。』


これは怒っている。確実に。胃が痛くなるような嫌な感覚に汗をかきつつ、少しでも怒りに拍車をかけないために、私はさらに汗をかくであろうことを承知でスーツと革靴のまま走り出した。


いつものカフェとは、彼女がたまに私の家に遊びに来た時に行くカフェで、簡単な食事なども出来るので、重宝している。それほど高いでもなく、安っぽくて騒がしい印象でもないが、白を基調とした綺麗にまとめられた内装と、全体的に広めに取られたスペース、それから各テーブルとの境界が簡単な壁で区切られており、店内BGMにはジャズが流れる。全体的に過ごしやすいように配慮されており、カップルが多少恥ずかしい会話をしても、周りを気にしなくて良い。


私が住むこの地域はタクシーが通るのを待っていたら20分近く経ってしまうし、そもそもカフェまで15分程度の距離だから、走れば10分程度で着けるだろう。10分以内なら彼女の今すぐ来てという要望にも答えられるかもしれない。


彼女の家からも、職場からも、地下鉄で移動してから急いでも20分程度歩く必要があるカフェにわざわざ来るくらいなのだから、家から近い私がのんびり歩いて向かったのでは、余計に怒らせるに違いない。


気が重い状態で走るのは、なぜか体も重く、カフェの前に着いた頃には、相当汗だくになってしまった。汗まみれのまま入店するわけにもいかず困っていると、ふと思いつく。


そうだ。自動宅配システムがハンカチを送ってきていたな。映画館のチケットに合わせて送ってきたであろうハンカチだが、もう映画館のチケットなど手元にないし、彼女に差し出すこともあるまい。私は鞄の中を探ると、ハンカチで額の汗を拭いた。


今すぐ何か届けてもらえるなら彼女のご機嫌をとるためのアイテムを注文したいくらいだ。確かにハンカチは役に立ったが、さすがに私が自分の汗を拭くために使うとは予測していないだろう。





彼女よりも先に着いたことを祈りつつ、カフェに入り、店員の言われるままの席に着こうとすると、何かただならぬ視線を感じたので、振り向くと斜め後ろの席から彼女が睨んでいた。


「こっち。」


彼女が冷たくも怒気を含んだ声色で言うので、私は店員に謝って彼女が待つ席に向かう。


彼女は仕事帰りそのままの格好で、タイトスカートに10センチはあろうかというハイヒール、真っ白なブラウスとジャケットを着て、いかにも仕事ができる女性といった印象だ。手は指先の色が変わるほど強く握られていて、今にも震え出しそうな勢いだ。


「お疲れ様。早かったね。」


私が席に着くも、彼女は無言で、返事の代わりに腕を組んでそっぽを向くだけだった。実は彼女がこんなに感情を表に出すのは珍しい。確かに興味なさそうだったり冷たい言い方をすることもあるのだが、ここまで怒ったことは記憶にない。


「ごめん。悪かったよ。透の荷物だって気付かなかったんだ。」


何か考えているような難しい表情を浮かべる彼女の顔をじっと見ていると、彼女は意を決したように、小さく息を飲むと、口を開いた。


「ねえ、私のこと、どう思ってるの?」

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