お殿様
警察に保護された遠野はそのまま入院となった。優子は面会謝絶となるかと心配したが行き来のできる病棟に入れられた。
優子たち三人は全員ずぶ濡れのままいったん帰宅した。本当は直接警察署に行ければ良かったのだが、台風がその夜にも上陸するところだった。エリさんとゲンさんは家にララとちゃーを残していた。優子も何かあったときのためにアパートにいたかった。そのため警察が出向いて事情を聞くという対応になった。
優子の事情聴取は長瀬と高坂が受け持った。強風でときおりアパートが大きく揺れる中聴取を受けるのは妙な気分だった。優子の部屋はシャッターを閉め切り、出窓には段ボールを貼っていた。暗い中でときたま短い停電が起こった。
聴取の終わりごろ、優子はふたりに尋ねた。
「遠野さんに私から弁護士を紹介することはできますか」
優子の慰謝料をふんだくってきた弁護士がいる。法人と父との間の不動産売買契約やら、ペット可賃貸の飼育規約やら、やたらと変わった契約文書ばかり作成してもらっている。これに一ヶ月行方をくらませていた男の代理人まで追加で頼むことにやや申し訳ない気持ちがあった。しかし何らかの事件に巻き込まれた可能性がある、しかも家族と縁を切っている人間には法律家の後ろ盾くらいあったほうが良い。
「個人的に紹介していただくぶんには何も問題ありません」
高坂が愛想良く答えた。
「分かりました。遠野さんに面会して相談します」
それがきつねを海から引き戻してしまった人間の、せめてもの努めであろうと優子は考えた。
刑事たちが帰って行ったあと、台風は丑三つ時に優子たちの真上を通過していった。結局雨風の音がうるさくて眠れなかった優子はそのまま翌日昼過ぎまで惰眠をむさぼった。
遠野の了承と弁護士との日程調整が済んで優子が面会に訪れたのは、油壺のひと悶着から一週間ほど経った日のことだった。優子と弁護士が受付を済ませて病棟に入ると、遠野の個室から良く知った人物が現れた。ゲンさんだった。
「……顔色良くなりましたね」
何となく気まずくて声の掛け方を迷った挙げ句、当たり障りのないような中途半端なことを言ってしまった。ふたりの前で随分威勢よく啖呵を切った挙げ句に台風の中を連れ回したのだ。よくもまああんなことをしたものだと優子は振り返って考えた。あのときは夢中だった。
ゲンさんは眉毛を下げて笑った。
「だいぶ疲れが取れたよ」
「良かったです。もう帰るんですか」
「そう、このあと弁護士さんがって聞いてたから」
そう言ってゲンさんは弁護士に会釈した。
病室のドアをノックしようとした優子に帰りかけたゲンさんが声をかけた。
「優子ちゃん」
「はい」
優子は振り返った。
「どうもありがとう」
そう言ってゲンさんは頭を下げた。優子は微笑んだ。ゲンさんが頭を上げるのを待って言った。
「私こそ、いつも本当にありがとうございます」
母屋は台風で少しだけ雨漏りをした。さすがに今まで優子に任せきりにしていたのを反省したのか、父が母を連れて週末に一泊滞在していった。
「しかしどうするべきかね」
「もし良ければ、当面私にただで貸してくれない」
父の言葉に、ようやく考える気になったかと優子は思いながら言った。ちょうど前日に長沢さんから連絡が来ていた。ほとぼりが冷めて戻ってきたことの報告と、長岡さんの非礼を詫びていた。結局何がどうなっていたのかと思ったが尋ねなかった。優子はそれを知るべき立場にはない。
「今も似たようなもんだと思うけど」
父の言葉に優子はにやりと笑った。
「もう少ししっかり使いたいの」
長沢さんから「良ければまたノエルのシッターをしてくれないか」と頼まれていたのだった。休みが不定期なサービス業のふたりには大型犬の世話がかなりの負担になっていることを、ようやくふたりともが認められるようになったのだった。
これを機にシッター業に本腰を入れるのも悪くないかもしれないと優子は思った。事業として回りそうなのであればきちんと事業計画と資金繰りについて検討しなくてはならない。しかし、まずは優子の力量で業としてこなせるかどうか、試しに小さい範囲で取り組んでみたかった。
「とりあえず予約制で、私が面倒見られる範囲の預かりで採算が取れるのかやってみる」
そのためには場所が必要だ。中途半端に片付けてある母屋の和室だけでなく、せめて一階はまるまるシッター業のために空けたかった。優子に必要なのは父の同意と、室内を片付けるための労働力である。優子は無事片付けに協力するという両親の約束を取り付けた。
遠野の入院は一ヶ月ほど続いた。最初は鎮静剤の世話になったようだったが、すぐに朝起きて夜寝ての生活に戻っていったと優子は聞いた。体力の消耗のほうが問題だったようだ。骨折の治りも悪かったらしい。
警察は何度か遠野に事情を聞きに来ていたようだった。弁護士の立ち会いのもと聴取は行われた。一度だけ優子のもとに長瀬が現れて少し話をした。遠野は一ヶ月の間、ドヤや違法営業の民泊などを転々としていたようだ、と長瀬は言った。足取りは辿れるものの、どういう目的で移動していたのかが分からない。聞くと「逃げていた」としか言わない。移動経路から思考が読み取れない、と独り言を言っていた。
九月も終わりに近づいたころ、優子は坂下さんに呼び出された。すわ遠野の話かと身構えて出かけた優子であったが、その辺りの情報はすでに周辺から聞き及んでいる様子だった。話題はもう少しだけ深刻なものだった。
話を聞くと、Five Star Estateが倒産することになったという。そのため坂下の本家が持っているサブリースマンションの募集が停止してしまっていたのだった。現居住者からの家賃はまずFSEが回収して本家に支払っていたので、現在は管財人の管理下にある。人は住んでいるのに、オーナーの手元にはびた一文たりとも入ってこないのだった。
「このままどこかで募集を再開するにしても、採算が合わないんですよあの物件は」
坂下さんがやや忌々しそうに言った。
「本家の方は、あれでどのくらい借入をしたんですか」
「どのくらいだと思う?」
坂下さんがにっこりした。優子は眉をしかめて片手を開いた。これでも安い気がする。
「惜しい。もう一本」
六千万というわけだった。
「月三十万くらい返してるわけですね」
「そうだろうねえ」
坂下の本家がどのくらいの資産持ちなのか優子は知らないが、我が身に置き換えると恐ろしいことである。家賃が入ってこなくなったら数ヶ月でショートさせる自信がある。
「とりあえずさ、残ってる借金の額で買わない?」
売れ残りのケーキのような扱いを受けているがものは不動産である。何となく途中から察していたものの、優子は提案を聞いて首を振った。
「結論から言うと、買いません。そもそもうちにそんな信用があるか分からないです」
「サカガミさんちなら大丈夫だろうさ」
「サカガミ、ではありません」
優子は静かに訂正した。お殿様とか、一国一城の主だとか、継いだとか散々言われて以来ずっと考えていたことだった。三谷から頼まれて、しかし坂下さんは優子を紹介しなかった。それは恐らく「サカガミさんちの孫娘」を外界から守るため、だったのだろう。しかしそもそも前提が違うのだ。
「私は家督を継いだわけじゃないんです。もちろん祖父が大事にしたものを尊重したいとは考えていますが」
それもできうるかぎりで、という条件がつく話だ。
「生きていくために資産運用をしているに過ぎません。それに、ちょっとやってみたいことができたので」
先日からノエルのシッターを再開した。体力が有り余っている若犬は大喜びで海岸を二時間散歩した。
「マンション、もしかしたらベース契約できるんじゃないですか。三谷さんに相談するだけでなんとかなるかも」
優子はふと思い出して言ってみた。坂下さんは驚いたように瞬きをした。
「優子ちゃん勉強してるね」
「微々たるものですが」
坂下さんの答えに優子は微笑みを返した。
次の問題は町内会だった。優子が今まで以上に母屋を使いはじめたら、「実質的に住んでいるんだから……」と取り込まれそうなのが目に見えていた。先に対処しておくべきである。
「じゃあ、会社の事務所みたいな扱いになるんですね」
優子の説明を聞いた班長の光丘さんは顎に右手を当てた。
「はい。住んでいるわけではないことと、法人なのでいつか私でも父でもない完全な部外者が代表になる可能性もなきにしもあらずです。その場合にも対応できるように、考えていただけると助かるなと」
優子は町内会に入るのが嫌なわけではない。入ったが最後、「そこに昔からずっといる人」として扱われるのが困るのだ。そこまでの思い入れも、責任も、優子はこの土地に持っていないし、この先もどこまで持てるか分からない。
「分かりました。ちょっと今度の集まりで会長さんに聞いてみます」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
話がまとまるのにはだいぶかかるだろう。まずはこちらの立場を認識させることからで、一歩一歩進めていくしかないのだろう。
優子は遠野に「お殿様ではない」と言い切った。しかし家賃収入で生活している以上、優子はどうしようもなくお殿様なのだった。良い領主であれば問題はないのだろう。領地は安全で、民は豊かに暮らしていける。しかし優子は良いお殿様であり続ける自信も確信も持てなかった。人は変わるし、追い詰められたら弟橘媛を荒海に突き落とす。秘蔵の天叢雲剣を絶対に渡すまいとして、もっと大切なものを失ってしまうのだ。優子はそうはなりたくなかった。ならないためには、ならないための対策が必要だ。
そうこうしている間に十月になり、再び大きな台風が訪れた。今度のは前回よりも手強く、海沿いの道路が一部崩落した。崩落した箇所はあけぼのとしののめより東側だったので、駅への通行に問題ないのは助かった。しかし崩落は崩落である。無事だった道路も全面的に砂をかぶった。火事で擁壁が崩れた土地もさらに土砂が流出してひと騒動起こった。
数日経って、すっかり天高く空気が爽やかな秋の日々が訪れた頃、遠野の退院の日がやってきた。
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