警察署(最終話)
遠野が退院するなら、とりあえず三人で迎えに行こうというのは随分前からゲンさんとエリさんと打ち合わせてあった。四人は正式に和解をする必要がある。ゲンさんも店を休む予定を立てていた。しかし前日、優子のもとに弁護士から連絡が入った。
「明日ですが、警察が来る気がします」
電話越しに落ち着いた弁護士の声が聞こえた。
「何でまた」
優子は驚いた。これまでも事情聴取をしていたはずだし、長瀬は遠野に立件できるような容疑はないと言っていたはずではないか。
「どちらかというと面子の問題でしょう」
「面子」
「警察はだいぶ遠野さんに振り回されていますから。とりあえず一回ツラ貸せや、とそういうわけです」
「では逮捕されるとかそういうのではないんですね」
「そのときになってみないと何ともですが。私は念のため開院前から向かいます。様子を見て連絡しますので」
考えてみればもう数週間長瀬と高坂の顔を見ていなかった。それはつまり、何かしら優子に話せない事情があるということである。いくら長瀬が人情に厚いと言っても無理なものは無理なのである。警察はそんなに親切ではないし、義理もない。分かっていても、歯がゆいことには変わりなかった。
当日、優子は珍しく七時台に目が覚めた。目が覚めたが気持ちが焦って特に何をする気にもならず、状態としてはベッドの上で布団にくるまったままだった。
八時になって弁護士から短いメッセージが入った。
——警察来てます。令状ありません
優子は安堵から思わず深いため息をついた。そして急いでふたりに内容を転送した。任意同行なら少なくとも当日中には一度帰宅できるだろう。弁護士がいて良かったと心の底から優子は思った。
弁護士からの連絡をそれぞれの自室でそわそわと待っていた三人は病院に出向くのを諦めた。どうせ警察がすぐに遠野と弁護士をかっさらっていってしまうだろう。その代わり警察署に向かうことにした。
車で移動する途中で牛丼屋に寄り、気の乗らない朝食を食べた。そのまま市役所の近くにある警察署に乗り付けた。
「ここの駐車場使っていいのかな」
エリさんが車を止めるとゲンさんはぼそりと呟いた。優子は首をかしげた。
「警察署に用があることには変わりませんし」
「むしろ余計な手間掛けさせやがったんだから我々が駐車料金もらってもいいくらいでは」
エリさんは適当なことを言っている。いつも通りのやりとりに見えるが、全員腹の底を人差し指と親指でつままれて伸ばされるような心持ちを抱えているのだった。
そのまま警察署の前で待った。警察署は新しく移転したばかりでぴかぴかしていた。立派な階段の上にガラス張りの玄関があり、そこから一度制服警官に見とがめられた。事情を話すとあまり騒がないでくれと釘を刺された上で放免された。
三人はそれぞれ言葉少なに待っていた。気温はもう十分下がり、優子は長袖を二枚重ねて着ていた。すっかり秋だった。雲は小さくちぎれて空に高く浮かんでいた。どこかから鳶の声が小さく聞こえた。
優子はこれまでのことを思い返していた。結局きつねとは何だったのか、とか、遠野の子ども時代に何があったのか、とか、放火したのは誰だったのか、とか、分からないことは山ほどあった。しかし、果たしてそもそもどれほどのことが「分かっている」のかと優子は思った。分からないことを分からないと素直に認めて、そのまま受け入れることが、ときには必要なのではないだろうか。
一度エリさんが車に一時間ほど寝にいったり、ゲンさんが近くでタコスを買ってきて道路の隅で食べたりした。そうして時計が午後一時を回ったころ、弁護士から再度メッセージが入った。
——帰宅できます
エリさんが大きく息を吸い込んで、しかし先ほどの制服警官との約束を思い出したのか小さく絞り出すようによっしゃ、と呟いた。ゲンさんは大きなため息をついた。
——今警察署の玄関前で待ってます
優子はやや震える指で返信した。
——そうしたら私はお目にかかったら失礼しますので
弁護士の気遣いがありがたかった。
三人が並んで玄関を見上げていると、まず弁護士の姿が現れた。三人に軽く会釈すると彼は振り返った。そのあとに長瀬に付き添われた遠野の姿が見えた。量販店で適当に買ったらしいシャツの上にカーディガンを羽織っていた。上の三人は何やら短く会話した。遠野が頭を下げた。長瀬は優子たちの姿をガラス越しに認めたらしい。軽く右手を挙げて、そして踵を返して戻っていった。
弁護士がドアを開けて遠野に出るように促した。遠野は一歩出て、眩しげに目を細めた。そしてそのまま階段の上で立ち止まった。優子たちは自然と見上げる形になった。ほんの数段の差がまるで崖の上にある森と、下にある砂浜くらい離れているように思われた。
三人の姿に気づいた遠野は珍しく表情を作りあぐねているようだった。まず眉を上げて、その後で目が大きくなった。次いでいつもの笑みを浮かべようとして唇が震えた。どうやら失敗したことに気づいたらしい。再び少し目が細くなった。
優子は黙っていた。黙ってそれをじっと見ていた。
遠野が小さく咳払いをして居住まいを正した。ふたりの目が合った。
「きつね浜のきつねは何色だったんでしょう」
優子は自分の口角が上がるのを感じた。口角が上がれば上がるほど遠野の目が細まっていくようだった。
「私が思うに」
優子はとうとう口を開いた。
「きつねは三つ揃いのスーツを着ていたんじゃないでしょうか」
ぱりっとのりのかかったワイシャツの上にサスペンダーを付けて。曖昧な微笑みを顔に貼り付けて、ひとりで立っていたんじゃないですか。
「せっかくお殿様に射落とされに来たのに」
「それではまた初めからやり直しです。もうやめにしましょう、そういうのは」
遠野が俯いたと優子は思った。しかしすぐに顔を上げたのでそれが首肯であったことに気づいた。階段を降りてくる端正な顔にもう一度声をかけた。
「言ったじゃないですか、ひとりで落ちるなって」
そうですね。空気中に放たれた小さな呟きを、優子の耳はきちんと拾った。
「よーし飯だ」
場違いなほどに明るいゲンさんの声が響いて優子は肩の力が抜けるのを感じた。自然と笑顔になったまま振り向いて提案してみた。
「マグロ食べに行きましょう、マグロ、あとドーナツも食べたい」
いつかは三人で行った。これから四人で行くのも悪くないだろう。
「え、今からあっちのほう行くわけ? まじで?」
あたしゃもう腹ぺこだよー、とエリさんの大げさに情けない声が続く。優子は声を立てて笑った。笑いながら、いつもよりずっと笑い声が大きく聞こえるなと思った。
(了)
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