台風 - 3

エリさんの予測通り、海岸沿いはすでに恐ろしいほどの強風が暴れ回っていた。波しぶきは軽々と護岸壁を越えて国道を洗っていた。エリさんは普段通る道よりも早めに右折して海岸から離れた裏道に回り、細い道をうねうねと運転していった。



優子は助手席に座って雲の流れを見ていた。ゲンさんは一緒に来ないのではないかと危ぶまれたが、黙って後ろからついてきてくれた。助手席を固辞して後部座席に座っている。助手席からはミラーを使っても姿が見えないので、どんな表情で何を考えているのかは分からなかった。


「おっと」

ごうっという強い音がして一瞬だけエリさんがハンドルを取られた。叩きつけるように雨粒のかたまりが降ってきた。


「こんな天気の日にあいつは何をやってんだ」

文句を言いながらもエリさんは首尾良く海沿いを離れた国道に合流した。


きつねを狩ったお殿様は、その後戦いに敗れる。三浦大介も荒次郎もそうだった。それでは、きつねを斃さなかったお殿様は今までにいたのだろうか。各地に散っていった殺生石の、その生き残りたちと共存することを決めたお殿様は。


ふたりの前で威勢よく啖呵を切ったは良いものの、優子は自分の選択が最適解なのかどうか決めかねていた。しかしもう動きはじめてしまったものは戻せない。これまでのお殿様も、自分が最善だと思った道を選んできたはずだ。だから優子も自分の道を行くしかないのだった。


悪天候の中道路はさすがにがらがらだった。エリさんは無事に車を海の家やらレストランやらの看板がごちゃごちゃ集積した遊歩道入り口に到着させた。風に用心したのろのろ運転でも三十分ほどしかかからなかった。優子は助手席からまろび出ると遊歩道を駆けた。


崖に生えた木々が風をかなり防いではくれているものの、遊歩道にはところどころで小さなつむじ風が巻き起こっていた。地面から吹き上げられた落ち葉や小枝が顔に当たり、唇に貼り付いた。ときたま吹き付ける雨粒が顔に痛かった。それらを乱暴に腕で拭って優子は走った。


しばらく行くと見慣れた人影があった。それを認めて優子は立ち止まった。立ち止まると一気に咳が肺からこみ上げてきた。


以前にララと訪れた展望台だった。丸太に見立てた柵が歩道と崖の間に立っている。遠野は海のほうを向いて、その柵の上に座っていた。


「油壺 しんととろりとして深し しんととろりと底から光り」


嵐の中をすっとこちらに響いてくる、歌うような声だった。しんととろり、と繰り返される言葉の響きは美しいのに、優子はまるで底なしの暗い穴を覗いてしまったような気がして鳥肌が立った。入江に沈む孤独な死を思いながら、優子は右手で左腕をさすった。空いた左手でパスコードを入力してスマートフォンのロックを解除する。


「白秋の短歌です」


再び声を発した遠野は振り向かなかった。先日見たようなポロシャツに黒い細身のパンツを合わせていた。いつもとすこしラインが違うように思われるのは適当な量販店で買ったものだからだろう。遠野が消息を絶ってから実に一ヶ月が経過していた。


そしてもうひとついつもと違うところがあった。一回海に浸かって上がってきたように、遠野は全身びしょ濡れだった。


顔の角度を頼りに優子は遠野が見ているものを見ようとした。遠野は墓標のようにヨットが並んだ湾内を見ているのだった。こんなにも風が吹き荒れているのに、湾内の水面はまるで静かだった。例えるなら、油を流したように。


「きつねはどこからきつね浜に落ちたのか」


遠野の発する言葉はまるで脈絡がない。しかし優子は自分が試されていることが分かった。視界の端でアドレス帳から長瀬の番号を呼び出す。


「エリさんは空を飛んでいたんじゃないかと」

息切れを整えながら答えた。頭ががんがんした。こんなに唐突に運動する羽目になるとは昨日まで思ってもいなかった。


——遠野さんを見つけました。新井城址の油壺湾が見える遊歩道です。刺激すると危ないのでメッセージですみません


「鈴木さんはどう思われますか」

「私は」

優子は深く息を吸ってSMSの送信ボタンをタップした。


「きつねは和解のために来城したんじゃないかと思います」


遠野が突然振り返った。その顔にマスクはもうなかったが、うっすらとあざの跡が残っていた。赤黒い色は中心部から薄れていったようで、今はいびつな輪郭を描いて顔の左半分を彩っている。この間見たときには気づかなかったが、左頬には殴られたときに付いたらしい傷跡もかさぶたになって残っていた。


「遠野さん」

優子は言った。


「私はお殿様ではありません」


それを聞いた遠野は顔にいつも通りの笑みを浮かべた。優子はそれを見て猛烈に腹が立った。腹が立つという感情は一度思い出してみると随分瞬間的に訪れ、頭の中を一斉に占拠していくのであった。優子は左胸にロゴが入ったポロシャツをわしづかみにしてがたがた振り回してやりたいと思った。思ったが、その代わり強く両手を握りしめて言葉を続けた。


「遠野さんもきつねではありません」

そう言って遠野を睨みつけた。


「ただし自分のことをどうしてもきつねだと思いたいお馬鹿さんがひとりいるようなので、私はその人に向かってこう言おうと思っています。『水に流す』と」


遠野の顔から表情が消えた。


「あと、私はきつねにも言いたいことがひとつあります」

優子は無表情になった遠野の顔をじっと見つめながら言った。


「どうしても落ちたいなら、ひとりで落ちるな」


遠野の顔が歪んだ。この人の怒った顔は初めて見るなと優子は冷静に考えながら見ていた。振り向いた遠野は柵を両手で掴んで力を入れた。一瞬後には、優子のほうを向いてひらりと柵の上に立ち上がっていた。


「ちょっと」


背後で聞こえたエリさんの言葉で優子はふたりが追いついてきていることに気づいた。横目でゲンさんのほうを窺い見た。顔は蒼白であった。やっぱり一緒に来てもらうには早すぎたのではないか、優子はちらと後悔したがもう遅いのである。始まってしまったものはやりきるしかない。


「それなら一緒に落ちましょう」

遠野の声はいつもよりワントーン高かった。取り繕うほどの余裕もなくなってきたらしい。


「それは構いませんが」

優子は眉をしかめながら言った。


「弓矢で吹き飛ばされでもしないかぎり、ここからきつね浜に落ちるのは難しいんじゃないですか」

これではまるで言葉遊びである。なかなか本題に辿り着けない。


「歴代のお殿様と一緒に油壺に沈みましょう」

「それでどうなるんですか」

「全てが終わります」

「そしてまたどこかの浜辺にうつぼ舟が漂着するんでしょう」


踏み出せ、踏み出してくれ。優子は強く念じた。呪いの連鎖から抜け出すにはそれが必要だ。許しを受け取る、ひとりの、たったひとりのちっぽけな勇気だけが必要なのだ。


遠くでごうっと風が鳴る音がした。遠野は柵の上に危なげなく立っているが、強風が吹いたらひとたまりもないだろう。もう少しだけ収まっていてくれと優子は風に願った。


「じゃあどうすれば?」

遠野が唐突に叫んだ。叫んでパンツのポケットから何か白い塊を取り出した。紙をくしゃくしゃに丸めたものに見える。


「何ですかそれは」

「鈴木さんの白い玉です」


優子は眉をしかめた。


「昼夜光る白い玉。権力の象徴。現代的に言うなれば、御社が所有する地所の登記事項全部証明書です」


登記、登記したもん勝ちっすよ。優子の脳裏で木浦がそう言って笑った。


「鈴木さん、これを捨てられますか。自分の権力と、財力と、社会的地位を全て捨てて、落ちることができますか」


優子はため息をついた。


「無理でしょうね」

遠野の顔に再び笑みが浮かびかけた。


「そんなの誰にだって無理です。だからこそ」

優子はしごく真面目な顔で遠野に告げた。


「ひとりで落ちるなって言ったんです」


笑みかけた唇がわなないたのを優子は見た。そこから先はスローモーションのようだった。遠野は腰をひねって上半身を海のほうに向けた。右手が大きく振りかぶって丸めた紙屑を投げようとした。その瞬間、突風が吹いて優子はたたらを踏んだ。遠野の左足が柵から外れて身体が揺らめいた。落ちる、そう思った瞬間、優子は声を聞いた。


「クソッ」


そう叫んで飛び出したのはゲンさんだった。世界の再生速度が一倍に戻った。ゲンさんは柵に左足を掛けると海側に落ちかけていた遠野の襟首を引っ掴んでぐいと引いた。鍛えた筋肉に重力のかかるままに背中から倒れ込んだ。どうと音を立ててアスファルトにぶつかった腕の中には遠野がいた。


起こったことを頭が処理するのに数秒かかった。その後、優子は深く息を吐き出した。吐き出した瞬間に力が抜けた。膝ががたがた言っている。勢いよくへたり込みそうになったのを、後ろからエリさんが支えてくれたのでゆっくりとうずくまった。


「うし」

エリさんが小さく呟いてスマートフォンをタップした。ぽよん、と鳴った音は動画の録画終了を告げた。


「撮ってたんですか」

優子は眉間にしわを寄せて言った。


「もちろん。証拠なしに殺人犯にされちゃたまらん」

もうすでに十分脱力したと思っていたのに、エリさんが澄まして答えるのでさらに力が抜けた。もうこのあとはタコのようにふにゃふにゃになるしかない。


遠くから人が駆けてくる音が聞こえた。良かった、間に合った、優子はそう思って再び大きくため息をついた。

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