台風 - 2
なんとか入居者全員に台風に関する注意事項を周知することができたその日、大型の台風が発生したというニュースが伝えられた。関東を直撃する可能性が高いということだった。
週の後半から雨がちになった。台風は勢力を増して日本に向かいまっすぐ進んでいた。土曜日の夜は強風を伴う雨が降ったりやんだりする落ち着かない天気になった。
この一週間ほど、優子は長瀬から聞いたことについて考えていた。もはや遠い昔のことであるように思われる五月、遠野は子どものころに飼っていたトイプードルの話をしていた。あれは嘘ではなかった。しかし遠野は大切なことを黙っていた。自分も犬と一緒に失踪していたということを。
犬と狐、きつねと遠野。大量発生していた狐が消えて、遠野が戻った。全体が個に収斂された。遠野少年は、小学生のころ墨汁を「かけられた」。長じた青年は戸籍の転籍を繰り返して、ひとりになった。そして、より悪いほうへ悪いほうへと環境を変えつつ今に至り、「疫病神」「狐憑き」と呼ばれている。
いったい何が起こっていたのかは分からない。遠野が自ら選んだ道なら、優子には何も言いようがない。しかしこれまでの遠野の歩みを見るに、最近になってイレギュラーが発生したのではないかと思われた。自分たちへの関わり方が不可解だったのだ。どうしてひとりになりたいなら優子たちに構うのか。ゲンさんとあれほどまでに親しくしたのか。
尋ねてみたかった。本当にこれで良いのかと尋ねてみたかった。良くないのではないか。良くないからこそ、優子を「お殿様」などとふざけた名前で呼んだのではないか。
お殿様はきつねを狩る。遠野は狩られたかったのか。玉藻前のように悪事を罰されたかったのか。法で裁けないような、どんな悪事をしたというのか。
悪事はした。優子は気づいた。遠野は、法で裁けないような悪事を働いた。ぎりぎりの線で商売を邪魔し、信頼を裏切り、黙って去って行った。刑事罰とか、賠償金とか、分かりやすい方法で償えないようなやり方で損なわれた関係性だからこそ、優子もゲンさんもエリさんも今こんな状態になっているのではないだろうか。
時折強風が吹き、がたがたとアパートが揺れる音がしはじめた日曜日昼過ぎのことだった。最近誰からも連絡が来ずにしんとしていたスマートフォンが突然震えた。優子はロック画面を見て眉間にしわを寄せた。見覚えのないアカウントからのメッセージリクエストが来ている。
リクエストを見ると、一枚の写真があった。テキストは添えられていない。しかし、写真の場所に見覚えがあった。もう一度送り主のアカウント名を見て、アイコンを見た。もしかしたら、もしかするかもしれない。優子はスクリーンショットを撮った。
——エリさん、この人遠野さんでしょうか
本当はゲンさんに送りたかった。しかし遠野の件で連絡するのがためらわれた。
——あら
驚いたらしいエリさんからはすぐに返信が返ってきた。
——きつねマンだってげんたろうが言ってる
今日は日曜日、本来であればゲンさんはかき入れどきのはずだ。台風で店が臨時休業になったのだろう。
——今ゲンさんと一緒ですか?
——おう。うちにいるよ
その文面を見た優子はとりあえず「そちらに行きます」と返信し、ウインドブレーカーを引っ被って外に出た。
まだ台風は遠く海上にいるはずだが、優子はエリさんの部屋に辿り着くまでに二回も転びそうになった。ときたま吹き付けてくる風が強い。こんなときに遠野は何をやっているのだと優子は思った。
チャイムを押すと「入って」とエリさんの声がした。風にドアを吹き飛ばされないように注意して少し開けると、優子は隙間から室内に滑り込んだ。
ふたりは奇妙な間隔を保って対峙していた。エリさんはダイニングキッチンから洋室に入る入り口のところに背をもたせかけて立っていた。ゲンさんはというと三和土のすぐそばで仁王立ちしている。しばらく見ない間にまたやつれた気がすると優子は思った。顔に疲労の色が濃い。
雰囲気が妙だった。それは優子にも分かったが、気にしている場合ではなかった。
「遠野さん、油壺にいます」
どちらにともなく言った。遠野から送られてきたのは、城址を背にして撮った油壺湾の写真だった。近くにはきつね浜がある。
「良かったな、とうとう連絡してももらえなくなったか」
エリさんが口を開いた。これはゲンさんに言ったのである。ゲンさんのこめかみが大きく動いた。顔が険しい。
「喧嘩はあとにしてください」
ゲンさんが口を開く前に優子は急いで言った。思っていた以上の大声が出て、ふたりは驚いたように優子を見た。少々気まずかったが続けるしかない。
「覚えてないですか、油壺、私がララと一緒に散歩して貧血で倒れたとこです」
「つまり?」
ゲンさんが小さな声で尋ねた。
「荒次郎のお城があったとこであり、きつね浜のきつねが死んだとこです」
「わりいが話が見えない」
エリさんの言うことももっともなのである。
「遠野さんは私のことを『お殿様』と呼びました。そのときは何言ってるんだと思いましたけど、そのあとで遠野さんのあだ名が分かったんです」
優子はゲンさんを見た。ゲンさんは事情が飲み込めてきたようで頷いた。お殿様には力と富がある。何せ一国一城の主なのだから。きつねには、わずかばかりの霊力と、そして野心がある。
「遠野さんはこの辺の不動産界隈で『狐憑き』と呼ばれています」
「きつねマンといいとこ勝負だな」
エリさんは腕を組んだ。
「だから、つまりそういうことなんですってば」
優子は地団駄を踏みたい思いだった。遠野の来歴について詳しく説明している時間は今はない。何とか油壺まで辿り着くほうが先である。
「遠野さんはどういうわけだか自分でも自分のことをきつねに見立ててるんです。そしてお殿様に成敗されるために私を油壺で待ってる」
「空でも飛ぶ気か」
「そうかもしれません。だから、行かないと」
「そしたらおゆうだけ行けばいい」
そう言われるとは思っていた。しかし優子の考えは違った。
「エリさん」
優子は声をかけた。
「呪いを解く方法はなんだと思いますか」
エリさんは軽く片眉を上げただけで、腕を組んだままこちらをじっと見ていた。
「それは許すことなんじゃないかと思うんです」
優子は言った。普段よりも大きな声を出しているので少し息が切れた。大きく息を吸い込みながらゲンさんのほうをじっと見た。
「私は自覚なくずっと遠野さんに腹を立てていました。謝罪されて、謝罪を受け入れたつもりでしたけど、ぜんぜんそんなことなかった。ずっと怒っていました」
ゲンさんは俯いていてうまく表情が読み取れなかった。
「でも最近周りの業者さんや刑事さんの話を聞いていて思ったんです。本人が抗えないような状況の中で、それでも良心を保つ必要があるとすればどうすればいいんだろうと」
行く先々で痛めつけられたときに、大きな不正の片棒を担がされたときに、社会的地位も財産も経験もないひとりの人間はどうやったら立ち向かえるというのか。
「昔話のきつねはもしかしたら、自分の理想を達成するために権力がほしかったのかもしれません。でも、お殿様にとってはそれは邪魔だったのかも。そして勝ったのはお殿様だった。悪いきつねと良いお殿様のお話、勝者に都合の良いストーリーに収斂していけば、それぞれに何が起こっていたのかなんて分かりゃしないんです」
優子は再度息を整えた。
「そうやって恨みがあって、恨みが呪いを引き起こして、呪いが復讐を生む連鎖があるのだとしたら」
まだ確証はない。しかし今優子にできることもひとつしかない。
「その連鎖を断ち切れるのは許すことです。呪われたって許すんです。でもたとえこっちが勝手に許したとしても相手は許されたことが分からない。許したよって伝えなきゃ伝わらない。だから、私は今から許したよって言いに行かなきゃいけないんです。それはエリさんもゲンさんもそうなんじゃないですか」
沈黙が室内に落ちた。最後の問いかけははったりだった。勘だけで言った。今頼れるものはそれしかなかった。
と、ちゃかちゃか、と爪がフローリングを蹴る音がして洋室の奥からララが顔を出した。優子を見てぱちぱちと瞬きをすると、入り口にいるエリさんをじっと見つめた。まるで、何やってるんだ飼い主、早く行ってこい、と言っているように優子には思われた。
「……風強かったら辿り着けないかもしれないからね」
とうとうエリさんが言った。優子は口の端に笑みが浮かぶのを自覚した。
「きっと大丈夫です」
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