台風 - 1

「何かあったら連絡して」

そう言った長瀬は名刺に携帯電話の番号を書いて去っていった。優子は念のためその番号をスマートフォンのアドレス帳に控えた。


そのあとは拍子抜けするほど何も起こらなかった。未だ行方の分からない遠野からはもちろん、警察からも、それどころかゲンさんやエリさんからも連絡ひとつ来ないままだった。


ただひとり、木浦から事務的なメールが届いた。そろそろコンサルティング契約を終わらせても良いのではないか? という内容だった。優子も事務的に同意の返信を書き、木浦との業務上の関係は八月をもって終了することになった。翌日届いた返信の返信には「今までありがとう」と書き添えられていた。さすがに堪えた。


優子はじりじりする気持ちを持てあましていた。ゲンさんの様子が気になり、しかし事情をある程度知ってしまった以上店に顔を出すのも監視しているように思われるのではとためらわれた。


とうとう優子はエリさんに自分から連絡した。警察がエリさんのところにも行ったかどうか念のため確認したい、というのが表向きの理由だったが本音のところではゲンさんの様子を知りたかった。



——あたしも全然話はしてないけど、沼田さんに監視お願いしてるから


エリさんも異変には気づいているようだった。


——沼田さん、とくには何もおっしゃってないですか

——心配ねえ、とは言ってたけどねえ。それ以上はお互い大人だからなあ


優子は歯がゆい気持ちを抑え込むのに苦労した。その通りなのである。お互い自立した大人で、人からむやみに干渉されない自由を有している。しかしそれはしばしば、困難にひとりで立ち向かわなければならないことと両輪になってしまう。


優子がやるせなさと戦っていると、エリさんが意外なことを言いはじめた。


——あたしさ、きつねマンに頼まれた仕事飛ばされたんだよね

——何かデザインですか? 


全然知らなかった。いつ頼まれていたのだろうかと思いながら優子は尋ねた。


——うん、けっこうでかい広告ね。いちおうまだ会社あるなら守秘義務残ってるから詳しく言えないけど、ちょうど納品したとこだった

——エリさんはいつ知りましたか、もろもろ

——きつねマンからメール来なくなってげんたろう問い詰めた。あいつあたしが仕事してるの知ってて言わないでいたのな


ぶっきらぼうな文面だった。「けっこうでかい」ということは金額もそれなりだろうし、工数もたくさんかかっているはずだ。納品したところで社長が逮捕されて唯一の正社員が行方不明なのだ。すなわち売掛金は丸ごと消滅したのだろう。かなり痛手なはずだった。


その証拠に、普段メッセージでも饒舌なエリさんからはすぐに返信が来なくなった。優子は唇を強く結んだ。遠野が引っかき回していったのはビジネスだけではない。人間関係もめちゃくちゃになりかけていた。


八月の終わりは天気がぐずついてときおり雨が降った。大きい台風がふたつ三つ遠い海上にできているというニュースが流れていた。昨年西日本を大きな台風が襲った。屋根が剥けて飛ばされ、雨戸のないマンションの窓が割られる映像を優子はインターネットでたくさん見た。明日は我が身である。落ち着かない気持ちを抱えながらも、台風対策のためのマニュアルをまとめなければならなかった。



集合住宅というのは、文字通り住宅が集合している。ひとつの部屋で何かが起こると周囲が影響を受ける。たとえば台風レベルの強風が吹いたときにある住戸で玄関ドアを開けたとしよう。風がそのまま吹き抜けられるような穴があれば、例えば反対側の窓が開いていたりすれば特に問題ない。しかし窓が全て閉まっていたとしたら? 吹き込んだ空気は膨張してアパートの壁や天井を圧迫する。そうすると弱いところからダメージを受ける。最悪の場合、天井が抜けて屋根が飛ぶ。


そういったことを知らないのは何も入居者だけではない。優子は台風がアパートに与えうる影響について一から勉強しなおした。そして学んだことをまとめて入居者に伝えたわけである。例えば飛来物よけにはシャッターが有効である。アパートには出窓以外シャッターが付いているので閉めてほしい。なお物干し竿は飛んでいく可能性があるので室内に収納してほしい。サーフボードや植木等もしかり、といった内容だった。


優子が母屋で調子の悪いプリンタと格闘していたその日は朝から雨であった。そうひどく降ることもあるまいと気を抜いていたら、それなりの雨量になってしまった。何とか動き出したプリンタが紙を吐き出しているのを待ちながらぼんやりと外を見ていると、傘を差した人影が道に見えた。長瀬であった。


すわ行方不明人が見つかったかと気色ばんだ優子であったが、遠野は未だに消息が掴めないそうだった。長瀬の用件は別のことだった。藤田の送検に目処がついたのだという。


「意外とすんなりではないですか」

優子の質問に長瀬は頷いた。


「とくに争う姿勢は見せずにだいたいの容疑について認める姿勢でいます。ただし」

「ただし?」

「放火についてはおかしなことを言っています」


優子は眉をしかめて続きを待った。


「俺は確かにそう望んだ、しかし俺がやったのではないと」

「それは計画したけど実行していないということですか」

「まあそういうことでしょう」


では結局ボヤの真相は何だったのか。誰かが藤田の代わりにそれを行ったとでもいうのか。


「遠野さんのせいにしているわけでもないんですね」

「ええ」


よく分からない。優子の眉間のしわは深くなった。


「あと、一度だけ」

長瀬は長瀬で戸惑っているように見えた。

「はい」

「きつねが、と言いかけてすぐにやめました。あれは何だったのかと後から聞いても『何でもない』と」


優子は目を丸くした。

「きつねって」

長瀬は優子の言いたかったことを引き取って頷いた。


「遠野敬太のことかと聞きましたが『違う』と」

「どういうことなんでしょう」

「さっぱり分からんのです。まあ一応否認のまま送検しますが、申し訳ないがそれでご理解ください」


優子ははっとして頷いた。自分もボヤの被害者であったことを、半ば忘れかけていたのだった。


「遠野さんには、何かの容疑がかかりそうですか」


ゲンさんの心労が少しでも減れば良い。そう思って優子は尋ねた。


「立件できるようなことはとくにありませんでしたね。これまで取引した不動産オーナーたちも、藤田は虫が好かんがあの若者はよくやっていると」

「そうでしたか」


それはそれでみな騙されているような気はするのだが、法律で裁けないものは裁けないのである。


「まあ、あとこれは独り言なんだけど」


長瀬は視線を外しながら言った。独り言の多い刑事である。優子は思わず苦笑しそうになったので真面目な顔を保つために俯いた。


「遠野敬太が藤田に雇われる前ね。『狐憑き』というあだ名を聞いて藤田が興味を示したようだったと、これは大塚っていう不動産屋が教えてくれましたよ」


優子は俯いたまま眉をしかめた。まさか「狐憑き」だから雇ったとでもいうのだろうか。


「あとね」

長瀬はそっぽを向きながら言った。


「遠野敬太の親族が見つかりましたよ。お互いに納得した上で絶縁しているのでもうここ数年のことは全く分からないと」


優子の眉間のしわは深くなった。


「ただ、ひとつだけ教えてくれたのは、遠野敬太は子どものころ、犬と一緒に一週間ほど失踪していたことがあると」


「え」

思わず声と顔を上げた優子に構わず長瀬は続けた。


「そのころ遠野敬太の散歩コースにはなぜか野生の狐が大量発生していたそうです。しかし遠野敬太が戻ってきた日から、狐の姿が忽然と消えた。遠野は行方不明だった一週間のことを『何も覚えていない』と語らなかったと。古い地方紙を確認したところ、これは当時ローカルニュースにもなっていました」


いったいどういうことなのか。疑問を視線に込めて優子は長瀬のつむじの辺りを睨みつけたが長瀬はそっぽを向いて独り言を続けた。


「どうも昔から、不可解なできごとに巻き込まれやすい体質のようだな」

「体質」

優子は長瀬に聞かせるでもなく小さく呟いた。


「警察長年やってるとね、どうしてもいるんですよ。そういう理屈の付けようのない、『当たりがいい』としか言えないようなやつがね」


それはどちらかというと当たりが悪い、という意味だろう。


「まあ、単に失踪癖があるだけかもしれないが。こっから先は本人に聞いてみなきゃ分かりゃせん」

長瀬の口調が変わった。


「引き続き遠野敬太の捜索は続けます。藤田に関しては検察の動きが決まったらお伝えします。お父様のほうにはまた別にご連絡しますので」

「ありがとうございます」


優子は頭を下げた。ひとつだけ、どうしても質問したいことがあった。


「もし良ければ聞き逃していただきたいんですが」

「はい」

優子の持って回った言い方に長瀬は可笑しそうに眉を上げて返事をした。


「遠野さんが子どものころ、失踪時に散歩させていた犬はトイプードルで、いなくなったまま帰ってこなかった」

「……」


長瀬は黙っていた。優子は長瀬の顔を見た。その顔にはありありと肯定の意が浮かんでいた。

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