失踪 - 2
しばし沈黙が下りた。長瀬が咳払いをひとつした。
「遠野敬太は、恐らく鈴木さんが見かけた翌日から失踪しています」
とんでもないことが聞こえた。優子は目を丸くして長瀬を見た。
「失踪って、どういうことですか」
「七日の深夜に、新港で人が争っているような音がすると通報がありました」
勉強会の会場からまっすぐ行くと港がある。そこが新港である。
「警察が駆けつけたところ、逃走する人影がありました。そしてもうひとり、争っていた相手と見られる男性が倒れていました」
優子はつばを飲み込もうとして失敗した。喉がからからに乾いていた。指を動かすと手のひらがぬるっとした。
「男性は救急搬送されました。持ち物と人相から遠野敬太で間違いないと思われます」
そこで長瀬は麦茶を飲んでひと息ついた。
「大きな怪我は肋骨と鼻の骨折だったかな。入院になりましたが、朝看護師が巡回したところベッドはもぬけの殻でした」
「逃げ出したということですか」
「誰かに連れ出されていなければ」
優子の背中には再び嫌な汗がたらたらと流れていた。
「その、現場から逃走した人影というのは」
「周囲の防犯カメラの映像から、藤田進一ではないかと」
「そしたら、遠野さんは今日」
優子は枯れた喉から何とか声を絞り出した。長瀬の断片的な情報を組み立てると、遠野を病院から連れ去ったのは藤田であるように聞こえる。藤田の身柄が確保されたなら、遠野は見つかったのだろうか。しかし長瀬の答えは優子の期待を裏切るものだった。
「現場には高坂も行っています。先ほど高坂から入った報告によると藤田は単独で行動していました」
「じゃあ、どこに行ったっていうんですか」
力なく優子は呟いた。さっきまでここにいたゲンさんの丸まった背中が思い出された。
「……それを調べるのが警察の仕事だな」
長瀬がぽつりと返事をした。
優子は震える手でグラスを持ち上げて麦茶を流し込んだ。喉の粘膜どうしがくっついていて、上手く飲み込めないように思えた。苦戦しながら麦茶を一口飲むと、優子は長瀬のほうに向き直った。
「私が見たときも、遠野さん怪我をしているように見えました」
「そうですか」
長瀬が優子を見た。優子は遠野の顔についていたあざについて説明をした。
「鈴木さんには何か心当たりがありますか」
「そうですね」
優子は口ごもった。長岡さんのことを考えていた。しかし浮気だ何だと確証がないままに話してしまうのは、長沢さんと遠野の名誉に関わることに思われた。
「これは、一方の当事者がどうやらそう思い込んでいるらしい、という話なのですが」
そう断って優子は長岡さんに詰め寄られた日のことを話した。
「でもお話を伺った印象だとそれ以外にも仕事のトラブルをたくさん抱えてらしたのではと」
「そうみたいだね」
長瀬は右手で顎を抱えて少し考え込んでいるように見えた。
「こちらでもいろいろと調べてはいるんだけど、どうも遠野敬太はいつもより悪いほうへ悪いほうへと進んでいく癖があるらしい」
「悪いほうへ」
長瀬は優子と同じ感想を抱いたらしい。
「より生きるのがしんどくなるほう、だな」
「自分を追い込んでいるということですか」
優子の質問に長瀬は頷いた。
「破滅願望でもあるんじゃねえかとしか思えなくなってきたよ」
優子は眉をしかめた。つまり新卒で入った会社を辞めて脱税で潰れた会社に転職したのも、その後Five Star Estateに入社したのも、遠野は分かっていてやったというのだろうか。運が悪かったのではなく。
長瀬には不可解に映るらしいその行動は、しかし優子には分からないでもないのであった。退職したころの投げやりな気持ちを優子は思いだしていた。本当に何もかもがどうでも良かった。もしかしたら遠野も長いこと同じ気持ちで生きているのではないだろうかと優子は思った。
「ちなみに、遠野さんご実家に帰ってたりとかそういうのはないんですか」
退職したころのことを考えていたら、連想ゲームで実家について思い出したのだった。しかし長瀬は首を振った。
「ご実家ねえ」
そのまま少しの間沈黙が続いた。
「警察はね、まあそう簡単にぺらぺらと捜査上の情報を話すわけにはいかないんですよ」
優子は黙って俯いた。それはその通りだった。しかし続く言葉に驚いて目を上げた。
「なのでこれから私は独り言を呟きますよ」
優子は瞬きをした。この人は意外と人情にもろいタイプなのだと考えを改めなければならないかもしれない。優子が驚いている間に、長瀬は麦茶を飲みながらぽつぽつと「独り言」を言いはじめた。
遠野の実家は、分からないのであった。警察が戸籍を確認したところ、戸籍内には遠野ひとりしかいなかった。従前の戸籍からは離婚して分籍したらしかった。婚姻相手のほうが戸籍筆頭者で、遠野が改姓して入籍していたのを離婚してもとの姓に戻したらしい。
婚姻前の情報を辿ろうと調べたところ、婚姻相手はもはや日本に国籍のない人物であることが分かった。海外で結婚をして相手の国籍に帰化していたのであった。相手国の行政機関に頼らないかぎり連絡の取りようがない。しかし遠野と婚姻していた期間は分かった。三ヶ月程度だったという。
「三ヶ月」
思わず「独り言」に対して相づちを打ってしまった優子に長瀬は眉を上げた。
「しかも二十歳になった途端でね」
「それってまるでロンダリングじゃないですか」
日本の戸籍は二度転籍するともとの情報が謄本上で辿れなくなる。まるでそれを狙って、自分の出自に関する痕跡を消すために行った婚姻のように優子には思われた。
「まあ独り言なので言っても構わないと思うんだけど」
長瀬がそっぽを向いて言ったので優子は口を噤んだ。
「誰にも迷惑をかけないようにひっそりといつかいなくなろうとしていたのかもしれないねえ」
誰にも迷惑を掛けないようにひっそりと。長瀬のその言葉に、優子は心が波立つのを感じた。確かに優子ならこのまま遠野がいなくなってもしばらくの間気づかなかったかもしれなかった。しかしそうしたらゲンさんはどうなるのか。優子はゲンさんがあれほどまでに意気消沈した様子を見せるのを今までに見たことがなかった。
「まあ、我々としては遠野敬太は藤田を恐れて逃げているのだろうと考えています」
長瀬の口調が改まった。つまり、ここから先は警察の公式見解なのである。そのメッセージを優子は正しく受け取った。
「藤田が逮捕されたという情報がきちんと伝われば彼は出てくるでしょう」
「……スマホもつながらないんですよね」
「電源が切られているようですね」
心の片隅でひとつの感情が持ち上がり、そして別の場所がへこむ。そうかと思えば持ち上がった感情が砕けて散り、また別の場所に違う感情が持ち上がる。優子は静かに黙って座りながら自らの感情の荒波に驚いていた。
まず何よりもゲンさんが心配だ。元気になってほしいと思う。その一方で優子は遠野に腹を立てている。自分が腹を立てているということに気づくずっと前から、腹を立て続けていた。
しかし今の優子には別の感情もあった。認めざるを得なかった。
「私がこういうことを言うと偽善がましいかもしれないんですが」
意を決してようよう口を開いた優子の言葉に長瀬が視線を合わせた。
「正直に言うと、心配です。遠野さんのこと」
長瀬が意外そうに眉を上げた。
「恐らく警察さんは警察さんで色々お考えがあるんだと思うんですが」
優子は一度下唇を噛んだ。
「私にとって遠野さんは知らない他人では少なくともないですし、間違いなく友人の友人ではあります」
認めたくはないが事実だった。優子は一度ぎゅっと手を握りしめて、また開いた。
「もう遅いのかもしれないですけど、それでもこれ以上何かに巻き込まれる前に見つけてあげたいです。ただ、私たち素人では難しいと思うので」
そう言って優子は長瀬に頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「死体は喋んないからね」
ぼそりと長瀬は言った。優子にはそれが照れ隠しの言葉に聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます