失踪 - 1
ぽんぽんと矢継ぎ早に台風が発生しては日本の近くに押し寄せていた。盆休みごろからはその影響で非常に暑く、優子は一日中エアコンを効かせた部屋に閉じこもる日が多かった。
ただし入居者は優子ほどインドア派でなく、旅行やら帰省やらにいそしんでいた。おかげでペットたちは留守番をする機会が増え、ここ数ヶ月開店休業状態だったシッター業に賑わいが戻ってきた。
しかしそれも連休の終わりになるとさすがに落ち着く。自室で預かるペットもマスターキーで世話をしに行くペットも前日の日曜日できれいさっぱりいなくなったその日、優子は母屋の和室で経理書類と睨めっこをしていた。入退居が激しかっただの何だの理由を付けて経理を二ヶ月ほどさぼっていたので、「そろそろ……」と税理士からせっつかれたのであった。刑事の長瀬が再び優子の元を訪れたのは、そんな気だるい月曜日の午後だった。
作業に疲れた優子がふとちゃぶ台越しに目を上げると、ガレージ用フェンスを開けて敷地に入ってくるがたいの良い人間がふたり見えた。ひとりは背が高い。ゲンさんであった。もうひとりはゲンさんよりも背が低い。長瀬だった。
優子はふたりを和室の掃き出し窓を開けて出迎えた。大音量でがなり立てる蝉のオーケストラと極限まで熱された湿っぽい大気が優子の頭を直撃した。
「玄関でなくてすみません」
単に動くのが面倒だっただけなので恐縮した。
「こちらこそ急にすいませんね」
長瀬は大汗を掻いていた。さすがに背広は着ていないが律儀にネクタイを着けている。大変な職業だなと優子は思った。
優子はゲンさんに視線を移した。そういえば先日、長岡さんに詰め寄られたあの日以来ゲンさんに会っていなかったことを優子は思いだした。遠目にはいつも通りに見えたが、よくよく見るとまた少しやつれた気がする。
「ゲンさん、体調大丈夫ですか」
優子の問いにゲンさんは苦笑を返した。
「やっぱ分かるか。ちょっと疲れが取れてないみたいで」
優子は眉をしかめた。ゲンさんと言えば食生活花丸、運動二重丸の健康優良児である。きちんと食べて体を動かすからしっかり熟睡できて疲れが取れる。優子と真逆なのであるが、しかしそのゲンさんの疲れが取れないとは由々しきことだった。
ゲンさんは優子の視線をごまかすようにもう一度笑うと言った。
「この刑事さんがちょっと聞きたいことあるんだって。優子ちゃんたぶんここだろうと思って」
「ありがとうございます」
ゲンさんの健康はとりあえずおいておくことにして優子は礼を言った。そして気づいた。掃き出し窓を開けた瞬間から肌がじりじりと熱線に焼かれている。顔には汗がたらたら流れる。つまり、暑い。
「今麦茶入れてくるので、ふたりとも中へどうぞ」
言って優子は詰んである座布団をふたつ畳の上にぽいぽいと置いた。確か冷凍庫の中にまだ氷があったはず、そう思いながら台所へ向かった。
長瀬を連れてくるだけのつもりだったらしいゲンさんも一度エアコンの中に座ったら動くのが面倒になったらしい。ずっしりと存在感あるふたりを前に、優子はちゃぶ台を挟んで反対側に座った。
「放火、傷害、有印私文書偽造、公正証書原本不実記載等罪未遂などで藤田進一の逮捕状を請求しました」
いかめしい顔のままピッチャーから麦茶を立て続けに二杯飲み干して長瀬は言った。
「え、じゃあ」
放火と傷害の言に驚いた優子は目を丸くした。しかし長瀬はさらに驚くことを言った。
「お宅のごみステーションのボヤね。あの日に成田から帰国していたことが分かりました」
優子は眉をしかめた。三谷たちが一連のボヤを遠野のせいにしていたことが思い出された。
「ボヤはやっぱり放火で、火を付けたのはその藤田という人だと」
「その可能性が高いと考えています」
「パトロールを強化するとおっしゃっていたのは」
「藤田本人が鈴木さんに危害を加える可能性もあると考えていました」
優子は思わず畳の上に座ったまま震えた。エアコンを入れても汗ばむくらいなのに、まるで真冬のように関節がかたかたと動いた。
「今、本人はどこにいるんでしょう」
優子は尋ねた。最近よく見る夢のことを思い出していた。どこかから、何かにじっと見られているような。
そのときどこかでスマートフォンが鳴る音がした。
「失礼」
そう言ったのは長瀬で、ワイシャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出して操作している。そして目を上げて言った。
「先ほど藤田進一の身柄を確保したそうです」
一瞬、やかましい蝉の声が遠くなったように思った。そして次の瞬間には、大きく息をついていた。背中にじっとりと嫌な汗を掻いていた。その感触に気がつくと、耳に蝉の音がわっと戻ってきた。
「どこに」
声が掠れたので咳払いをした。
「どこにいたんでしょう」
「とりあえず県内とだけ言っておきましょう」
顔つきを変えぬまま長瀬が言った。その様子を見て優子は理解した。藤田の逮捕だけでは解決しない何かがあるらしい。
優子は自分用に持ってきたコップに麦茶を注いだ。まだ少し指が震えるような感触がしたがピッチャーは自分で持てた。
優子が麦茶に口を付け終わるのを待って、長瀬が再び口を開いた。
「鈴木さんは藤田進一に面識はないんですよね」
「ありません」
「関係者で知り合いなのは」
「遠野さん、だけです」
優子は横目でゲンさんのほうを見た。ゲンさんはあぐらをかいて座っていて、頭は下を向いていた。表情は読めなかった。
「最近遠野敬太には会いましたか」
優子は勉強会の日の遠野を思い出した。なぜわざわざあの場所に現れたのか。
「今月の最初の水曜日」
「……七日ですか」
手帳でカレンダーを確認したらしい長瀬が言った。
「そうですね、七日です。私は地元の宅建協会に勉強会で呼ばれていて」
「勉強会」
「内輪のものなんだそうです。会議室を借りてやっていたんですが」
そう言って優子は会場名を伝えた。
「勉強会の最中に、ちょっとだけ遠野さんが顔を見せました」
ゲンさんが息をのむのが聞こえた。
「ちょっとだけ」
「はい。会議室のドアが開いていたんですけど、廊下から少しの間見ていたようでした」
「その後は」
「いつの間にかいなくなってしまったので」
優子は首をかしげた。
「誰かほかに、遠野敬太に気づいた人はいますか」
「はい。参加者の方が何人か」
優子は言葉を切って懇親会のときのやりとりを思い出そうとした。
「すみません、ちょっと名刺を見てみてもいいですか」
話をした人間の名前にあまり自信がなかった。
優子は名刺入れに入れっぱなしにしていた三谷たちの名刺をちゃぶ台に並べ、彼らが遠野について言及していたことについて説明した。狐憑きだの、放火だのの話をゲンさんの前でするのは気がとがめたが致し方なかった。優子が説明した内容と三谷たちの連絡先を長瀬はひとつひとつメモに控えていった。
ゲンさんはその間中ずっと俯いていて表情が読めなかった。背中が丸まっていて、いつもの様子とは異なっているのが優子の不安を煽った。
「ゲンさん、大丈夫ですか」
優子は尋ねた。
「もし体調悪いなら……」
「うん、ありがと。ちょっと俺は帰ります」
優子の言葉にかぶせるようにゲンさんは俯いたまま答えた。後半は長瀬に対する言葉だった。
「また何かあったら店に来てください」
そのままゲンさんは下を向いたまま掃き出し窓を静かに開けて出て行った。優子はそれを黙って見送った。
「彼は遠野敬太と親しかったのかな」
ゲンさんの後ろ姿を見ながら長瀬は尋ねた。
「私よりはよほど、と思っています」
「どういう感じの親しさなんだろう」
「分かりません」
優子は静かに答えた。
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