勉強会 - 3
優子は以前遠野が言っていたことを思いだしていた。
「狐とは因縁浅からぬ間柄なもので」
きつねマンと、狐に詳しいことをエリさんにからかわれたとき遠野がそう艶然と微笑んでいたのだった。そういうことだったのか。狐憑きと、疫病神と罵られていたからなのか。優子を「お殿様」に見立てて、不幸を運ぶきつねだと自らを呼んだのか。
優子は遠野についてどう考えれば良いのか本当に分からなくなっていた。遠野はもしかして、常日頃から周囲にこのような扱いを受けていたのだろうか。馬鹿にされて罵られて、それでもこの業界にとどまった理由は何なのだろうか。新卒でパワハラ、二社目は脱税で潰れた上に悪評を広められ、三社目の社長は犯罪者とみなされて逃亡中だ。どんなに運が悪くても、もう少しましな職場の選びようがあったのではないだろうか。これではわざわざ悪いほうへ悪いほうへと自ら進んでいったようにしか見えない。
今日見せられた赤黒いあざは、ときおり優子の脳内に浮かぶ矢を受けて血を流したきつねのイメージに重なった。殴られたのだろうか、相手は誰だろうかと優子は考えた。長岡さんか。確たる証拠が見つかったのか。しかしあの用意周到な人物が尻尾を掴まれるような真似をするとは思えなかった。では誰に、なぜ。そしてどうしてそれをわざわざ優子に見せに来たのか。
優子は遠野に対して腹を立てていた。不信感しかなかった。しかし一方で、警察が成りすましの件で遠野を疑っていないようなのもまた聞き知っている。遠野にとって今回の件は本当に寝耳に水だったのかもしれなかった。
たしかに旧粟田さん宅の火事は不自然だった。しかし「ボヤでもあれば」と言ったのは社長の藤田自身だと聞いている。その藤田は高飛び中だ。後始末を押しつけられた遠野が藤田の指示を受けて火を付けた? そんなことが可能なのだろうか。仮に何らかの方法で日本にいる遠野と連絡を取ったら、一瞬で足がついてしまうのではないだろうか。
しかし遠野は用意周到なのである。優子は遠野に対してやや同情的な気持ちになりかけていたが、その点からは目を逸らしてはいけないと思った。意味のないことをわざわざ実行する人物ではない。彼はおそらく今日、明確な意図を持って、優子に会いに来たのだ。
黙り込んだ優子の横で突然スマートフォンが賑やかに鳴りだした。
「げ」
ディスプレイを覗き込んだのは木浦である。
「下請けさんだ。すいません、ちょっと抜けます」
「ごゆっくりどうぞ」
そう三谷に見送られた木浦は着信に応答しながら出て行く。どうしました? と問いかける声が遠くなっていくのを優子の耳は捉えた。
「いや、変な話にしてしまってすみませんでした」
三谷が苦笑いをしながら優子に向かって言った。優子は曖昧に頷いた。狐憑きという言葉が頭から離れなかった。
「しかし今日は来ていただけて本当に良かったです。坂下さんと木浦さんの話だとなかなか難しそうだったので」
三谷は言葉を続けた。優子はその内容に眉根を寄せた。
「坂下さん」
「最初坂下さんにお電話したんですよ。鈴木さんにつないでいただけないかと、でもちょっといまいち反応が良くなかったので、少し検索させていただいて木浦さんにお願いしまして」
坂下さんも坂下さんである。その時点で優子に一言くれても良さそうなものだ。
「ただ木浦さんも何度かやりとりさせていただいて、ちょっと難しいかなと思っていたんです」
「木浦さんが何か言っていたんですか」
「鈴木さんはあまりそういうところに出るのをお好みでないから難しいと。結局おふたりで、という形で受けていただけて良かったです」
優子は眉間のしわを深くした。初耳であった。優子は取材があれば受けているし、人に会う場に行きたくないといった覚えもない。
「木浦さんがそう言っていたんですね」
優子の念押しに三谷もさすがに変だと気づいたらしい。
「鈴木さんのご意向だと仰ってましたが」
「そうですか」
優子は口を結んで再び考え込んだ。木浦にそんなことを言った覚えは、記憶をさらってみてもなかった。考えられる可能性はひとつだけだった。どういう意図かは不明なものの、木浦が三谷に対して嘘をついたのだ。
三谷はそんな優子の様子に少し慌てたらしい。
「まあ、坂下さんも木浦さんも変な虫を寄せ付けないようになさったんじゃないでしょうか」
中途半端な笑みを浮かべてとんでもないことを言い放った。
「そうだ、守られてるんですよお嬢さんだから」
大塚が隣で合いの手を入れている。優子は思わず頭に浮かんだことをそのまま口にした。
「それは私が頼んだことじゃありません」
変な虫だとか、守られているだとか、優子はそんなことを誰にも頼んだ覚えなどなかった。賃貸経営を始めたのも、取材を受けるのも、木浦の誘いを断って何か別の手段を検討しようと思っているのも自分のためで、誰かにそれを庇護してもらう必要などなかった。期待しても、予期してもいなかった。
「ふたりとも、それけっこうセクハラですから」
池田が少し困ったようにたしなめているのが聞こえた。
優子は息を深く吸い込んだ。顔を上げて三谷を見た。そして言った。
「今まで顔や所在地を出さなかったのは単純にプライバシーを守るためです。顔の見える範囲でせっかく呼んでいただけるのを断るようなことはしません」
「……承知しました」
優子の剣幕に少し驚いたように三谷が言った。
長電話の後木浦が戻ってきてからもしばし懇親会は続いた。途中で参加者がてんで気ままに座席を移動しはじめたので優子は遠くに座っていた何人かとも会話をした。たいてい女性オーナーさんって珍しいですよねえ、と感嘆されるので優子はまた珍獣にでもなったような気分だった。檻の中で不機嫌に座っている獣の背中が思い浮かんだ。尻尾はふさふさと分かれていて、とそのイメージをもてあそんでいると、ふと獣が振り返った。切れ長の黒い目をした獣であった。
三時間ほど続いた飲み会を終えて外に出ると、さすがに夜になっていた。二次会に行きましょう、と騒ぐ常連メンバーと別れて、優子と木浦は駅へ向かった。またぜひお願いしますと、すっかり酔いの回った三谷は上機嫌に頭を下げていた。
「それにしてもウケるよね、鈴木ちゃん引っ張りだこだったじゃん」
道路から改札のある歩行者デッキに上るためのエスカレーターで木浦は言った。木浦の後ろについてエスカレーターに乗った優子は黙って首をかしげた。
「そうかな」
懇親会のことを言っているのだろう。そう言う木浦だってあっちこっちと飛び回って親交を深めていたようだった。檻越しに珍獣扱いされていた優子よりよほど引っ張りだこだったのではないかと思った。
「いやほんとほんと。鈴木ちゃんの前に並んでる行列が俺には見えた」
そう言って木浦は遠くを見て笑った。
改札を抜けるとコンコースがある。優子は下り、横浜に帰る木浦は上りの電車に乗る。そこでふたりは立ち止まった。
「いや、今日は良かった、ありがとう」
「こちらこそ」
優子は答えながら少しだけためらった。
「きーちゃん」
「ん?」
「さっき三谷さんが言ってたんだけど」
そこで一度口をつぐんで俯いた。思考を言葉に取りまとめる必要がある。
「なんで私が勉強会嫌がったって言ったの?」
断定的な言葉で尋ねた。うやむやには決してしてほしくなかった。
木浦は虚を突かれたように押し黙った。表情だけ一瞬前から現在に連れてくるのを忘れたようでにやにやしているのが場違いだった。
「……こうなるのが分かってたんだよね」
「こう?」
眉をしかめて優子が見やると木浦は気まずそうに遠くを見た。
「みんな鈴木ちゃんと取引したいんだよ」
「……それは買いかぶりすぎじゃないかな」
確かに三谷からベース契約を誘われたりした。しかしあれは多分に社交辞令的なもののはずである。
「あの狐憑きってあだ名さ」
木浦の話題がいきなり飛んだ。優子の肩が思わず動いた。
「鈴木ちゃんも当たらずとも遠からずって思ってるんでしょ」
優子は黙っていた。木浦はその沈黙を肯定と取ったらしい。
「さっきちょっと色々話聞いてみたんだけど、鈴木ちゃんの言ってたこととそんなに変わりないっていうかむしろ鈴木ちゃんのほうがだいぶ好意的な感じ?」
疑問形だが疑問文ではない。木浦は相変わらずこっちを見ない。
「たまにいるんだよね。目的のためには手段を選ばないやつ」
そう言って木浦はうっそりと笑った。
「でも鈴木ちゃん別に何もされてないんでしょ。きっとそいつにも気に入られてるんだよ」
優子は思わず眉をしかめた。入居者ふたりを引き抜かれたことを「何もされていない」とは何事か。ゲンさんから情報を引き出して、それをもしかしたら藤田が利用していたかもしれないのに。ただし、たしかに優子はそこまで酷い目には遭っていないのだった。仮に本当に遠野が地面師の件に噛んでいないのであれば、優子が遠野から被ったのはせいぜい売上減にやきもきした一ヶ月ほどの期間くらいだ。しかし優子にはまだよく分からないことがあった。
「仮にきーちゃんの言うとおりだとして、どういう意味?」
「俺の話断ろうと思ってるでしょ。ノウハウの」
優子の言葉にたたみかけるようにして木浦は早口で言った。図星だった優子は口を開けたまま黙った。少しして、静かに頷いた。
「鈴木ちゃんほっとけば、きっと自分でちゃんと道を探すんだよ。今日誰かと仕事の話した?」
「……ベース契約、いいかもなってちょっと思った」
優子は正直に答えた。木浦はちらりと優子のほうを見た。
「ほっといて、いろんな人と会って、情報仕入れれば鈴木ちゃんはひとりでやってける。鈴木ちゃんと仕事したい人はいっぱいいる」
木浦は天井を見上げた。
「今って再販ブームじゃん」
「そうみたいだね」
優子は木浦の話題が見えないながらも同意した。大都市圏では新築が高すぎて買えない。中古マンションをきれいにリフォームしたくらいの再販物件が、なんとかローンで手が出るくらいだと人気だった。
「まあ、今のブームはもってあと一年か、長くて二年か。その先はちょっと見えないよね。少なくとも物件価格が上がり切っちゃったらどっかで値崩れが始まる」
木浦は上を見上げたまま薄く笑った。
「ブーム終わったら事業たたんで、そしたら親もきっともう十分好き勝手やって気が済んだだろっつって、あとは何だろね、一生古いつまんねー雑居ビルの家賃取り立てる仕事すんのかな。社長にでもなって」
それはそれで立派な仕事である。優子はそう思ったが口には出せなかった。
「そのころには鈴木ちゃんも自立しちゃってもう俺のヘルプなんかいらなくって、だとすれば今ここでなんか余計な人たちに会わせちゃうとさ、鈴木ちゃんもうどんどんそっちに行っちゃうじゃん。だけどもうちょっとそのタイミングを遅らせられればさ、なんか俺がない頭絞って一緒にやろうって言ってみた事業でもおもしろいこといくかもしれないし、もうちょっとキープしておけばって」
そこまで言って木浦は姿勢はそのままに絶句した。優子は下唇を噛みしめて大きく鼻で息を吸った。吸うと体が震えた。
目線を下ろした木浦と目が合った。優子は思わず目を背けて木浦の左手を見た。優子の視線を追った木浦から乾いた笑いが漏れた。
「ごめん、俺何言ってるんだろうな」
そう言って背けられた目が赤かった。
優子は下唇を噛みしめたまま呼吸を整えていた。何をどう言ったらいいのか分からなかった。
「つまり、わざとほかの案件を遠ざけておこうと」
何とか絞り出した声は低かった。木浦はそっぽを向いたまま居心地悪そうに頷いた。
「そうすれば私はいつまでも自立しない」
木浦は小さく顎を上下に動かした。
「そっか」
優子は短く言った。それ以上何も言えなかったし、それで十分だった。
しばらくふたりとも黙っていた。五分ごとに下り電車が停車して大量の帰宅者を吐き出していった。人の波にのまれないよう、ふたりは壁際に立って静かにしていた。
「じゃあ、私帰るね」
なにが「じゃあ」だと思いながらとうとう優子は言った。
「うん、じゃあ気をつけて」
木浦が軽く鼻を啜って言った。優子は再び口をぎゅっと噤むと軽く数度頷いて踵を返した。階段を上ると下りのホームがある。ホームに着いても向かいの上りホームを見ないでずんずん歩いた。見たら木浦がいる気がした。ふざけるな、と優子は思った。泣きたいのは優子のほうだった。
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