勉強会 - 1

崩落した擁壁は黒々と焦げて、嫌なにおいを発していた。盛り土がむき出しになったのに簡易的にブルーシートをかけた敷地の上を今日も警察と消防の職員が数名歩き回っている。優子はそれを見上げながら、崩落したのと反対側の歩道を歩いて駅へと向かっていた。


水曜日で、依頼された勉強会の当日であった。朝からじりじりと日光がアスファルトに焼き付いてしまいそうな快晴で、優子が家を出た昼すぎにはすでに空に積乱雲が見られた。しかし優子の気分は晴れなかった。


月曜日に長岡さんに詰め寄られて以来、どうにも眠りの質が悪かった。夜眠りについてから、誰かに怒鳴られる夢を見て起きたり、何かにじっと陰から見られているような気がして起きたりしていた。やや睡眠不足だった。昨日の昼間はそのせいで昼食後少しうとうとしていたら、軽い地震が起こった。がたん、と揺れる音で夢うつつの意識の中に浮上したのは、矢を受けて落ちる狐のイメージだった。


会社を辞める前後の受診とき以来メンタルで病院にかかったことはない。やや不安定ながらも、何とかここまで自力でやってこられた。


しかし確かに爪痕は残っているのだった。怒号や敵対的な態度を久しぶりに間近で浴びた優子は実感した。それなりに、というより、思った以上にダメージを受けていた。よく考えてみれば優子は長いこと立ち居振る舞いで自分を守っていたのだった。仏頂面と眉間のしわ、それに素っ気ない態度。相手に踏み込んでこさせないために、まず自分から引く。その行動原理が最近少し崩れてきていることへの自覚がある。それは生身の優子自身を外界の空気にさらしはじめていた。


優子は電車で移動して会場の最寄り駅に着いた。改札前で木浦と合流する。少し歩いて市役所の近くにある天丼屋に入った。遅めの昼食兼打ち合わせである。店に入るための行列ができていたので最後尾に並んだ。並んでいる間に打ち合わせは終わった。打ち合わせといってもスライドのデータを確認し、優子が木浦にしゃべりを押しつけて終了である。


「まあ、なんか聞かれたら鈴木ちゃんも答えてよ」

押しつけられたのがそう嫌そうでもない木浦がにやにやしながら言ったので優子は了承した。


天丼を食べながら優子は注意深く木浦を観察した。木浦に持ちかけられたノウハウの話を、今日断ろうと思っていたのであった。


「一緒に稼ごうぜ系の仕事を友達から持ちかけられた場合ね。断ったら、だいたい友情は消滅するよ」


エリさんの言葉を頭の中で反復する。優子は木浦と喧嘩になることも覚悟して今日やってきた。できるだけ円満に双方が納得する形で納めたいとは思っているが、感情はどう動くか想定できない。だからこそ、今日が終わるまではその話をしたくなかった。


肝心の木浦はというと、海老天二本にあさりのかき揚げまで載った豪華な天丼を黙々と旨そうに食べている。優子は舞茸をかじりながら、ノウハウのノの字も頭になさそうな木浦の姿にほっとした。


天丼屋を出ると午後の二時を回っていた。ふたりは地図アプリの世話になりながらゆっくりと移動を開始した。市街地の先には海外に自動車を輸出する港がある。そちらへ向かう道の途中に会場があった。


市の施設内に作られた会議室が会場であった。正面がガラス張りの吹き抜けになっているなかなか存在感ある建物で、優子は少々威圧された。


動きがスムーズなエレベーターで上階に上ると会議室前に宅建協会支部の名前が貼ってあった。木浦は持ち前の懐っこい雰囲気を存分に活用して会議室に顔を突っ込み、挨拶をしている。優子は仏頂面にならないように気をつけながらそれをぼんやりと眺めていた。


勉強会の時間は三時からと聞いていた。三十分前の会場には今日の担当だという同年代の男性がひとりいるのみで会議室は静かだった。名刺交換をして、優子はその男性が来年から世話になる予定の不動産会社であることに気づいた。


これからどうぞよろしくお願いします、と当たり障りのない挨拶をして、優子は改めて名刺を見た。三谷不動産という会社の三谷氏だった。


「息子さんですか」

「はい、ただ私は三男なので」

「三男」


三男なので出世しないという意味だろう。長男も次男も同じ会社にいるのだろう。それは先代が引退した途端に主導権を巡って骨肉の争いが始まるパターンではないかと優子は危ぶんだ。


「慢性的な人手不足だとかで最近戻ってこいと言われまして実家を手伝っています。そんな身分ですからまあ偉くなってもしょうがないですし、私は支店長くらいでのんびり仕事してるのが性に合っています」

「そうですか」

「今はちょうどご近所におりまして。どうぞよろしくお願いします」


優子は改めて名刺をしげしげと見た。確かに近所の支店名が書いてあった。これから何かと顔を合わすことになるのだろう、そう思って優子は再度頭を下げた。


木浦とプロジェクタの接続について話す三谷を優子は観察した。三谷の先ほどの発言を優子は露ほども信じていなかった。野心めいたものが全く見られずに渋々実家に帰ったと思っていた木浦ですら儲け話を持ちかけてくるほどなのだ。事業で成功する、社会的地位を築くといったことは非常に手っ取り早い自己主張になりうるし、周囲と比較されることの多い環境にいる人ほど注目されることに関心が湧きやすいはずだった。



「鈴木ちゃん、スライドどっちのパソコンで見せる? 」

木浦の呼びかけに優子ははっと注意力を取り戻した。


「私のVGA端子使えないから、きーちゃんのほうにPDF送るよ」

優子は答えて自分のパソコンを開いた。



蓋を開けてみると、勉強会は盛会であった。二十人ほど集まった会議室の最前にスクリーンを背にして座りながら優子は感心して出席者を眺めていた。プロジェクタを使うために室内の照明を消してある。そのため表情までは詳しく分からなかったが、みなそれなりに関心を持って木浦の話に耳を傾けているようだった。


木浦の説明がよどみなく続く中、優子はふと自分に向かい合わせの位置にある会議室の入り口を見た。閉め忘れたのか遅れてくる人への配慮か、ドアが開いていた。廊下は節電のために照明が消してあったが窓から光が入ってきて明るい。巨大な吹き抜けがあるのでとにかく窓だらけの建物だった。


その入り口に影が差したのだった。細身の男性と思われる人影が入り口前の廊下に佇んでいた。優子は数度瞬きをして、それが顔見知りの人物であることに気づいた。


遠野だった。スーツ姿でないので気づくのが遅れた。ほかの不動産業者同様水曜が休みなのだろう。紺色のポロシャツにグレンチェックのトラウザーズを合わせているようだった。相変わらず気取った格好だと優子は思った。


会議室に響く声に乱れはなかった。優子が横目で様子を確認すると、木浦はちょうどスライドのある部分を指し示すためにドアに背を向けているところだった。ドアのほうを向いているのは、ちょうど優子だけだった。


タイミング良く訪れた遠野は白いマスクをしていた。ただでさえ暑い真夏に顔が蒸れるマスクをしている人は少ない。どうしたのだろうと優子は目を細めた。


マスクの縁が当たる頬の辺りに汚れがついているような気がした。しかしよくよく見て、優子はそれが汚れではないことに気づいた。遠野の左頬にはくっきりと赤黒いあざができていた。前髪が目にかかる長さに伸びていた。それを遠野の手が緩慢な動作で掻き上げた。あざがまぶたの上にまで広がっているのを優子は確認した。



「実際にいる動物については鈴木さんにご説明いただいたほうがいいと思うんですが」


木浦の声に反応して身体が動いた。ちょうど「なぜペットの頭数と種類に制限をかけないのか」という話をするスライドだった。優子は話を受けるために軽く咳払いをして背筋を伸ばした。



午後三時から始まった勉強会は木浦が一時間喋り、優子が五分ほど付け加え、三十分ほど質疑応答をして終わった。廊下に姿を見せた遠野はいつの間にか姿を消していた。


「五時からはちょっと利用料金が高くなるんですよ」

撤収の準備をしながら三谷は説明した。


退出しながら懇親会に誘われた。まあそういう流れになるだろうなと予期していた優子は了承した。普段からのメンバーにとっては、どちらかというと懇親会のほうがメインの予定になっているだろう。木浦も参加すると言った。


三々五々駅のほうへ向かった。優子と木浦は三谷の案内に従った。八月の五時台は明るい。時たま強烈な西日をビルの間から浴びながら、これがもう夕方なんて冗談みたいだと優子は思った。


駅前の広場に建つビルとビルの隙間に隠れるようにして路地があった。入り込んだ瞬間、優子は空気が変わったように思った。


店頭でもくもくと煙を立てながら焼き鳥を焼いている居酒屋に入った。一階はカウンター席ばかりだったが、案内された二階はいくつかの島に分かれた座敷が広がっている。


出席者のうち数名が帰ったのみで、大所帯でふたつの卓を囲んだ。「主賓は真ん中のほうに」ということで勧められた中央辺りに優子は仕方なく座った。左には木浦、右にはギンガムチェックのボタンダウンシャツを着た眼鏡の男性が座った。不動産屋さんらしくない雰囲気の人だなと優子は思った。


ギンガムチェック氏は池田と名乗って名刺を差し出してきた。優子も慌てて名刺を出したのでそこからは急ごしらえの名刺交換会が始まった。トランプの札のように切って配れたらいいのにと優子は思った。


名刺交換会が一段落付いたところで酒と料理が届きはじめた。蒸籠に入った焼売がやたらとたくさん積み上げられたので優子は驚いた。三谷の音頭で乾杯する。


優子は受け取った名刺をまとめていた。池田の名刺がふと目に留まった。


「池田さんは宅建業者ではないんですね」

隣に話しかける。池田は焼売を頬張りながら笑顔を浮かべた。


「僕は専業の投資家です。勉強会は皆さんのご厚意で混ぜていただいてるだけで協会員でもなくって。ベース契約を中心にやってます」

「ベース契約」

聞いたことのない言葉に優子は首をかしげた。


「米軍基地の社宅専用に管理契約を結ぶんです」

「そんなものがあるんですね」


この海沿いの街には大きな米軍基地がある。この辺りの人は基地のことをベースと呼ぶ。言われてみればそこで働く人々のための社宅もあってしかるべきなのだった。つくばで海外出身者を見慣れて育ったせいか、優子は普段見かける異国の人々についてあまり深く考えたことがなかった。


「まあアメリカの人が住みやすそうな物件探してきて買って三谷さんとこでベース契約するだけなので、工夫も何もあったもんじゃないんですよ。その点今日のお話は本当に勉強になりました」


「でもアメリカの方ならペットがいることも多いんじゃないですか? 」

大きな家に芝生にゴールデンレトリバー。ステレオタイプなアメリカ郊外のイメージである。


「あの人たちだいたい三年で異動しちゃうんですよ。だからペットは連れてこないですね」

「三年」

「ほら、横須賀って第七艦隊の司令部でしょ。だから偉いさんが多いんです。転勤繰り返してどんどん昇進していくタイプの」

「そうなんですか」


近所の海岸沿いでも英語話者を見かけることはあった。真冬でもノースリーブでランニングをしていたりするので目立つ。しかし優子の生活圏で米軍基地を意識することは今までなかった。普段見ている穏やかな景色のすぐ背後には軍港があったのかと優子は思った。しかし優子にかぎらず、個人の観察している範囲とはだいたいそのようなものなのかもしれなかった。現代という薄皮一枚を注意深く剥がすと、三浦一族ときつねの物語が潜んでいるように。

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