ボヤ - 3
頭蓋骨に振動を感じて目が覚めた。放り投げたスマートフォンが優子の側頭部に当たって震えていた。着信である。
「もしもし」
寝ぼけ声で電話に出ると、ごみステーションを配送してくる業者だった。大型のごみステーションは底を固定するアンカー工事をしなければならない。その日程確認と、アンカーを打つ場所の材質確認であった。
よろよろしながらダイニングキッチンで水を飲むと優子は外に出た。気づけば夕方になっていた。蝉の声がやかましい。
業者とやりとりしながら念のためごみステーションの置き場付近を確認した。何しろ火が出ていたのでモルタルが割れたり焦げたりしているとやっかいである。優子が見たかぎり、一帯が黒く煤けてはいるもののモルタル自体に損傷はなさそうだった。
納品の日取りを決めて電話を切った。しゃがんでいた優子はそろそろと立ち上がった。一時期立ちくらみが酷かったので立ち座りには慎重になっているのだった。
目眩はなかった。そのことに気を取られていたので、そばに人が立っていることに優子は全く気づいていなかった。
「大家さん」
呼びかけられて優子はびくりとした。聞き覚えのある声ではあると思って振り返ると、先日退居した長沢さんの同居人が立っていた。
「……長岡、さん」
発話に時間がかかったのは単純に名前が思い出せなかったからである。長沢さんと長岡さん、ふたりの苗字は優子にとって紛らわしいことこの上なかった。
「ボヤ、大変でしたね」
優子は長沢さんも長岡さんも自分よりやや年上だろうと思っていた。入居申込書を見れば年齢も分かるのだが記憶には残っていなかった。しかしいつ見てもいまいち年齢が分からないふたりなのである。こなれているところは年長者にも見えるし若者よりは質の良い服装をしている。しかしまとう雰囲気が非常に若いというか、鋭そうなところがあった。長岡さんは夏も冬もしっかりと肌を焼いていたのでその印象がさらに強くなっていた。
長岡さんの発言意図が読めずに優子は黙って頷いた。
「住んでる人もちょっと怖かったっしょっていうか……」
言葉が途切れたので優子は長岡さんの視線の先を追った。以前住んでいたしののめの一〇二号室を見ていた。
「後、入ったんですね」
優子は再度頷いた。山田さんがすでに入居している。五匹の猫は皆大柄で毛艶良く、堂々としていた。
長岡さんはすたすたと敷地内に入ってきた。そのままあけぼののほうに進み、一〇一号室の前で立ち止まった。この人は何を考えているのだろうかと優子は警戒しながら後に続いた。
「今空いてる部屋ありません? 津久井さんとこも埋まっちゃった?」
続く質問に優子は眉をしかめた。二ヶ月前に意気揚々と退居していったのはそちらではないか、という思いを視線に込めた。
「アイツ、出てっちゃったんですよ」
「出てった」
アイツとは誰かというと長沢さんに違いなかった。
「犬置いて、ひとりで」
「何があったんですか」
ノエルの飼い犬登録者は長沢さんになっているはずだった。飼い主が犬を置いて出て行くなど、よほどのことである。
「あそこの営業、知ってます」
疑問文であった。それにしてもさっきから指示代名詞が多すぎて話が不透明である。
「あそことは」
「うちのマンションの」
「……遠野さんのことですか」
その途端、長岡さんの表情が歪んだ。
「あの野郎」
忌々しげに舌打ちとともに呪詛の言葉が吐き出された。その剣幕に、優子は思わず後ずさった。
「大家さんもちょっかい出されたんでしょ」
「何の話ですか」
優子はスマートフォンを強く握りしめながら尋ねた。最悪の場合は電源ボタンを五回連打で緊急発信。よし忘れていない、と手順を脳内で再生した。
「そうするしか能がねえんだ、ああいうやつは」
言いかけて長岡さんは優子に要点が伝わっていないことに気づいたようであった。ため息をついてずいと一歩踏み出してきた。優子は一歩後ずさった。
「浮気してたんですよ、あいつら」
長岡さんは囁くように言った。外聞を気にしてというより、歯を食いしばりながら話したせいでそうなってしまったという様子だった。
「え」
優子は目を瞬かせた。顔だけで女性客契約させていつもにこにこして何考えてんのか分かんなくて薄気味悪い、「疫病神」についてそう話していた木浦の姿が脳裏に浮かんだ。
「……何か証拠があったんですか」
「スマホの通知にね、『終わりにしましょう』ってメッセージが届いてて。気になるでしょ」
優子は眉根を寄せた。それだけでは送信元が誰かも、何に関してのメッセージなのかも分からない。
「そいでスマホ見たら、怪しくて。スクショ撮って詰めたら発狂して家出しやがった」
「ちょっと待ってください」
驚いたせいで大きな声が出た。
「勝手にスマホ見たんですか」
「寝てる間だったら指紋認証楽勝でしょ」
驚かれたのが意外なように長岡さんは答えた。優子はまたじりりと後ずさった。
「媚び媚びのメッセージばっか送りやがって、アイツ」
長岡さんは思い出して腹を立てているようだった。
「じゃあ、直接の証拠はないんですね」
「問い詰めたら逆ギレして逃げたんですよ。自分から認めてるようなもんでしょ」
長岡さんは浮気があったことをすでに事実として認識しているようだった。
「まあ、それは大家さんに言ってもしゃあないんですよ。今、空いてる部屋、ありません?」
「ありません」
思わず優子は即答してしまった。
「どういう経緯でアイツがここ借りるつもりになったのかとか考えてると住んでて気持ち悪いんですよ。だからといって犬がいるとどこでもいいってわけにもいかないでしょ。なんかすぐ空く部屋とか、ありません?」
長岡さんが再び足を踏み出してきたので、優子は再度後ずさった。
「残念ですけどありません」
「しょうがねえか。じゃあさ、犬、預かってもらえません」
仕事忙しくて散歩行ってる暇ないんですよ。荷物か何かのように長沢さんは軽い口調で提案してきた。優子は頭に血が上るのを感じた。大きく息を吸って、吐いた。
「正規の料金でならお預かりします」
最近は開店休業状態だが、優子は入居者のペットシッターもする。ペットの預かりは一泊三千円からである。たしかに優子はノエルのことが気にかかってはいた。しかしあくまでもノエルは長沢さんの犬だ。優子が自腹を切ってまで面倒を見る理由も義理もないのだった。
「しょっぱいな」
顔をしかめて長岡さんは吐き捨てるように言った。身勝手な言われように優子は眉をしかめた。大家業を慈善事業か何かと勘違いでもしているのか。
「……長沢さんときちんと話し合われるほうが先なんじゃないでしょうか」
優子は何とか声を絞り出した。
「既読も付かない、着信拒否、それで話し合いなんかできますか」
「今どこにいらっしゃるかも分からないんですか」
「仕事には行ってるみたいですよ。だからどうせあの野郎のとこにでもいるんじゃないですか」
「終わりにしよう、と言っていたのに?」
優子が静かに指摘すると長岡さんが再び顔を歪めた。
「あの野郎、狐みたいな顔しやがって」
会話にならない。すぐに遠野への呪詛へ戻ってきてしまうこの人は、少なくとも今は冷静な判断ができない、優子はそう思って下唇を噛んだ。お引き取り願えるだろうか。警察に介入してもらったほうが安全だろうか。
優子は再びスマートフォンを強く握りしめた。今朝方長瀬と高坂に言われた通り、今にも一一〇番したい気持ちに駆られた。しかし頭の隅で冷静な自分が首をもたげた。
「ご事情は分かりましたしもし本当にそうならお気の毒だとは思います。でも残念ですが私には如何ともしかねますので」
失礼します。そう言って優子は立ち去ろうとした。そのとき長岡さんが素早く動いた。優子は右腕を掴まれた衝撃で引き戻されてたたらを踏んだ。
まずい、そう思った優子が左手の親指をスマートフォンの電源ボタンにかけたそのタイミングで後ろからがたりと音がした。優子と長岡さんは同時に音のしたほうを振り返った。話している間ふたりはじりじりと移動していて、今はゲンさんの部屋の玄関前に立っているのだった。
一〇三号室のダイニングキッチンには明かりが付いていた。がたりという音は換気扇が動きはじめた音だった。我に返ったのか、長岡さんの掴む力が弱まっている。優子は右腕にかかった手を振りほどいた。
「お引き取りください」
長岡さんは呆然と目をしばたかせていたが、数秒経ってすみません、と小さな声で呟いた。
長岡さんが立ち去っていく後ろ姿を見つめながら優子は後悔していた。ついうっかりゲンさんの部屋の前で言い争っていたわけで、恐らく内容は筒抜けだっただろう。
背後でがちゃりという音がした。玄関ドアが開く音だった。優子はそれを半ば予期していたので、深く息を吸って、言った。
「お部屋の前ですみません」
「いやいや。大丈夫? 」
ゲンさんの声はちょっとおかしな具合に掠れていた。
「私は大丈夫です」
そう言いながら優子は俯いた。
「……長岡さん、ショックで思い込んじゃったのかな」
「そうですね」
話が聞こえたことを言外に伝えるゲンさんの呟きに対して優子は言葉少なに答えた。
「長沢さん、大丈夫かな」
「私もそれがちょっと心配です。あらぬ疑いをかけられているような気もします」
優子は俯いたまま答えた。そのままふたりの間に沈黙が落ちた。
「優子ちゃん、大丈夫?」
ゲンさんに再度尋ねられた。優子は俯いたまま頷いた。
「大丈夫です、でももう帰ってちょっと休みます」
ゲンさんは小さくそうだね、と呟いた。優子はおやすみなさい、と言って歩き出した。最後までゲンさんの顔を見ることができなかった。
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