ボヤ - 2
ちょっと落ち着かなければならない、そう優子が心に言い聞かせているとパトライトを消したパトカーが静かに坂を上ってアパートの敷地内に入ってきた。優子がスマートフォンを見ると十時四十二分である。約束の時間よりは早い。
停車したパトカーからスーツ姿の男性がふたり降りてきた。誰が来たのか分かり、優子は思わず「またあなたたちですか」と言いそうになった。まるで刑事ドラマだし、しかもどちらかというと容疑者側の台詞である。言わずに済んで正解であった。
訪れたのは高坂と長瀬であった。また、成りすましの件で何かあったのだろうか。
「たびたび失礼します」
高坂が愛想よく言った。優子は頷いて日陰から出た。じりっと肌が焼ける感覚がする。
「お約束の時間より早くて申し訳ない」
その言葉で、優子はこのふたりが防犯カメラの映像を確認しに来たのだと気づいた。成りすましと火事は同じ部署が捜査するのかと優子は妙なところで感心した。
「お気づきかと思いますがまた火事がありまして」
「そうみたいですね」
パジャマのまま外に突っ立っているという野次馬丸出しの格好をした優子はしかつめらしく答えた。
もともと防犯カメラの映像を手に入れに来るはずだったふたりが、今日の火事のせいでこちらに早めに来ていたのであった。この後もう一度現場に戻らなければならないが少し時間が空いた、もし良ければ今の間に防犯カメラの映像を確認したい、とのことだった。不審そうにしているゲンさんに事情を説明して優子はふたりを自室に案内した。
ダイニングキッチンでパソコンのブラウザを立ち上げて管理画面にアクセスする。ボヤがあった金曜日から日付の変わる土曜日にかけての二時間ほどである。その時間帯を見定めて再生を開始した。
「便利なもんですねえ」
ダイニングチェアに座った高坂が感心した声を出している。職業柄ネットワークカメラを知らないわけもないだろうにと優子は鼻白んだ。
ずっとだらだら再生しているわけにもいかない。飛ばし飛ばしで優子が異常に気づいた頃にさしかかった。アパートの敷地東側から西側入り口のほうを写すカメラである。赤外線が付いているので夜間でも白黒映像が撮影できる。
海岸沿いは比較的若い世帯が住むが、坂の上は高齢化が進んでいる。ごみステーション周辺にはずっと人影がなかった。日付が変わる少し前、大柄な男性が自転車を押して敷地内に入ってきた。ゲンさんである。
「この方は先ほどいらっしゃいましたね」
高坂が言う。
「もう十年ほど前からお住まいの方です」
優子は簡潔に答えた。
「何でこんな遅くに?」
長瀬が言った。尋ねるというよりは詰問するといったほうが良い声色だった。
「海沿いの飲食店で働いていらっしゃるのでいつもお帰りはこのくらいです」
優子は平坦な声で答えた。
ゲンさんが帰ってきた辺りから通常再生にしてみた。人影がないまま日付が変わった。
「あ」
長瀬が声を上げた。優子は再生を停止してみた。よくよく見るとごみステーションの上辺りが少し明るい。また再生して、止める。それを繰り返すと、確かにごみステーション周辺がどんどん白くなってきている。炎であった。
「なるほど」
高坂が腕を組みながら言った。映像を見るかぎり、ゲンさんが帰宅してから出火するまでごみステーション付近に近づいた人物はいなかったのだ。とりあえず放火ではないのだろうかと優子は首をかしげた。
そのまま再生していると、アパートの陰から栗浜さんらしき人影が飛び出してきた。一階の外廊下に設置してある消化器をひっつかんで駆け出す。この先は消防車が登場することだろう。
「どうしましょ、長瀬さん」
高坂が長瀬に声をかける。
「映像、もらってきます?」
「そうしましょう」
長瀬がむっすり答えた。
「何か、DVDとかに焼いてもらうことはできますか」
依頼に優子は首を振った。
「このパソコンにはメディアドライブが付いていないので」
それどころか、優子のノートパソコンではもはや通常のUSBタイプAすら使うことができないのである。
「ダウンロードしてクラウドストレージでお渡しすることはできますので、そちらでアクセスをお願いできますか」
「その今見てるページにうちがアクセスすることはできないの」
長瀬が今日初めて優子に直接話しかけた。
「このLANの中でないとつながりません」
優子は答えた。相手の顔を見るにどうやら伝わっていないらしい。
「このアパートに飛んでいる無線LANでインターネットに接続しないかぎり管理画面を見ることはできません」
言い直して、伝わったようであった。
結局優子がクラウドストレージのURLを指定されたメールアドレスに送るということで決着した。ダウンロードしたものを再度指定されたクラウドストレージにアップロードするという玉突きを行って、メールを送信する。送信元アドレスとメールの内容をふたりは確認して署に電話した。色々と面倒な手続きがあるのだろうなと優子は思った。
クラウドストレージにデータをアップロードしている最中、高坂がふと、という様子で尋ねてきた。
「今日燃えた住宅ですが」
「はい」
「鈴木さんが先日おっしゃっていた物件で間違いないですか」
優子は頷いた。
「例の、擁壁について話し合っていた人たちがいた物件です」
「火災保険がどうこうと」
「はい」
優子も先ほどそれを思い出したところだった。嫌な気持ちになって答えた。
「あれ、私たちのほうでもちょっと気になって役所の担当課と買い主のほうにも先日確認しまして」
「私の記憶であっていましたか」
「はい。確かに鈴木さんのおっしゃる通りでした。藤田進一にそう言われたと、買い主側が発言していたそうです」
「そうでしたか」
優子は俯いて考え込んだ。それはつまりどういうことなのか。仮に放火だとして、最も火を付ける動機がありそうな藤田は海外に出て行ったはずだった。
「ちなみになんですが」
「はい」
「このアパートにたばこを吸う方は」
優子は目を瞬かせた。火事とたばこの関連性は深い。
「たばこ火だったんですか」
「可能性のひとつです」
優子は首をかしげた。
「火を付けるタイプのたばこを吸う方は、私の知っているかぎりではひとりです」
「どなたですか」
「栗浜さんです。この下の」
「発見者ですね」
「え、でもまさか」
「まあ、仮にたばこが原因だとしたら、道ばたから投げ込むこともできますから」
高坂は愛想の良いままで答えた。
優子は唇の裏を噛んだ。道ばたから投げ込むなら、入居者以外でも可能だ。
「どうかされました?」
高坂の問いに緩く首を振った。
「いえ、これは難癖だと思うんです」
「言ってみてください」
「Five Star Estateの営業さんが」
「遠野敬太ですか」
「はい。たばこを吸います」
「……そうでしたか」
「ただ、歩きながらたばこをこの辺りで吸う人ならいくらでもいますよね」
「いるでしょうねえ。条例違反ですけどね」
高坂は愛想良く、しかし警察官らしいことを言って会話を締めた。
「念のためこの辺りのパトロールをさらに強化します」
むっすりしたまま長瀬が言った。
「何か不審なことがあったら、できるだけ早急に警察に連絡してください」
優子は目を瞬かせた。それはつまり、警察は次に何か起こることを警戒しているとでも言うのだろうか。
「何かありそうなんですか」
答えてはくれないだろうなと思いながら優子は尋ねた。
「念のためですので」
高坂が愛想良く答えた。
刑事たちは礼を言って去って行った。優子は一抹の不安を覚えながら玄関ドアを閉めた。
気づけばベッドに身体を投げ出していた。強烈な眠気に襲われていた。朝から不本意にたたき起こされたのと、それなりに大きな火事があったのと、刑事とやりとりしたのとがめまぐるしく過ぎていって緊張が解けたのだろうと、そう分析しつつ、いつの間にかまぶたが閉じていた。眠りに落ちる数瞬前に、まぶたを横切る白い影を見たように思った。
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