ボヤ - 1
ボヤ騒ぎはあけぼのとしののめのごみステーションから始まった。
梅雨明け後も夏はほんの数日ためらいを見せていたが、すぐに本分を思い出したようだった。海沿いのこの町は横浜よりも夏の気温が一度低く、横浜は東京都心よりも一度低い。そんな中でも最高気温が三十度を超える日が数日続き、長梅雨に慣れた身体が悲鳴を上げはじめたある夜のことだった。
次の水曜日に控えた勉強会のために優子は自室で資料を取りまとめていた。今まで取材を受けた記事をスキャンしたり適当に写真を揃えたりすれば良いだろうと考えていたのだが意外と興が乗ってしまった。なぜか気合いの入ったスライドを作りながら引っ越してきたばかりの頃に懐かしさすら覚えていたら、気づけば日付が変わっていた。
伸びをした瞬間に遠くからサイレンの音が聞こえた。カーンカーンと鳴るそれは消防車である。最初優子はどこかで交通事故があったのだろうと思った。消防車は東のほうから海沿いの二車線道路を通って西に向かっているらしい。
しかし気づけばサイレンの音がどんどん大きく近くなっていた。優子は眉をしかめて玄関から外に出た。そして自分の目を疑った。
夜闇の中でも分かるくらいの火の手がアパートの敷地内で上がっていた。もう少しよく見ようと足を踏み出した瞬間、煙に巻かれて咳き込んだ。危ないと思って一度室内に戻ってタオルを濡らした。口元に当てながら再度外に駆け出す。
優子が階段を駆け下りて地面に辿り着いたのと、消防車の放水が始まったのはほぼ同時だった。飛び散った水を危うく思い切り浴びそうになった優子は息を弾ませながらフリースペースの真ん中に移動した。放水されているのはごみステーションのダストボックスだった。
どういうわけか、ダストボックスのふたが閉まった状態で中のものに火が付いたらしい。そもそも日付が変わった今日は土曜日なのでごみ収集はないはずで、一体何が中で燃えているのか優子には見当が付かなかった。
放水によって火はすぐに消し止められた。その頃には職場から帰宅したばかりと見えるゲンさんを初めとした入居者や近所の人たちがぞろぞろ周囲に集結してきていた。
ゲンさんとエリさんに話しかけられて受け答えしていると警察が到着した。ボヤの第一発見者は階下に住む栗浜さんで、通報もしてくれたらしい。
「ここの大家さんは」
少し離れた場所で年若い制服警官が栗浜さんに話しかけているのが聞こえた。優子は片手を挙げた。
「私です」
警察官は一瞬戸惑ったような顔をしたが優子に近づいてきた。
「大家さんなんですね」
その声色に胡散臭さを覚えたという印象が隠し切れていなかった。優子はできるだけ心を平坦にして答えた。
「このアパートを保有している法人の代表です」
「防犯カメラを見たいのですが」
警察官は一応納得したらしい。
「ご覧になりたい場合は捜査関係事項照会書をお持ちください」
優子はよどみなく答えた。犯罪捜査で防犯カメラの映像を求められた場合の対応は木浦と作った大家代行マニュアルにあった。助かったと優子は思った。
「念のため確認したいのですが」
「入居者さんのプライバシーがありますので捜査関係事項照会書をいただけないとお見せできません」
押し問答をしていると上司らしき年上の警察官が近寄ってきた。
「まあまあ」
なだめる言葉は部下に対して発せられた。
「そうしましたらまた署のものが来ますので。週明けのご予定は?」
「月曜日は大丈夫です」
優子は答えた。答えながら良い刑事と悪い刑事だ、と思った。
「じゃあ防犯カメラは月曜日にということで伝えておきます。我々とは別のものが行くことになるかと思いますので」
優子は頷いた。恐らく彼らは近くの交番からとりあえず派遣されてきたのだろう。そこまで考えて、ふと気づいた。警察は朝が早い職業のはずだ。
「すみませんがいらっしゃるときは十一時以降だと助かります」
起きていない可能性があるからである。優子がそう言った途端後ろで吹き出す音が聞こえて優子は眉根を寄せた。優子の遅起きを知っていて、かつこんな状況で笑えるのはエリさんに違いない。
全くもう、と思って少し視線を落とすと、驚いたことにエリさんのサンダル履きの足よりも自分に近いところに大きな足があった。ゲンさんだった。さっき話していたときよりも近くに、優子のすぐ斜め右後ろくらいにいることになる。もしかしたら割って入ろうとしてくれたのではないかと優子は思った。思って、状況が飲み込めてくると今度は苛々した。
そのあと簡単な聞き込みをされて、終わった頃には深夜の一時半を回っていた。ゲンさんやエリさんと別れて部屋に戻ろうとした優子は、栗浜さんが自室のベランダ前にしゃがんでたばこを吸っているのに気づいた。
「ありがとうございました」
軽く一声かけた。
「とんでもないです、大したことがないようで良かった」
そう答える栗浜さんにやや苦笑して頷いた。建物や人に被害がなかったのは何よりだった。しかしごみステーションが文字通りごみになってしまったので早急に買い換えなくてはならない。二十万、ローンで通るかな、と考えている優子であった。火災保険の請求もしなくてはならない。
たばこを吸い終わった栗浜さんが携帯灰皿に吸い殻を押しつけながら立ち上がった。優子は再度会釈して自室へ帰った。
次の日の朝、昼近く、起きだしてすぐの優子はスーパーに行くために家を出た。冷蔵庫に食べられるものがなかったので朝食の買い出しがてらまとめ買いをしようと思ったのだった。敷地の入り口にある黒焦げになったごみステーションは未だに燃焼による異臭を放っていた。坂を下って海沿いの二車線道路に出ると、なんとまた小型の消防車が止まっていた。
不審に思いながらも通り過ぎようとした優子を呼び止める人がいた。道路を挟んでアパートの敷地向かいに住む家族の奥さんだった。このおうちはなんていう苗字だったっけとぼんやり思いながら優子は挨拶をした。
「またボヤなんですって」
優子は周囲を見回したが、道路沿いの建物には被害がないように思われた。
「今度はどこに」
「あっちの、漁師小屋の裏にある網」
奥さんの指は海のほうを指した。砂浜と道路を隔てる護岸の一部は漁船がそのまま海に出られるようにスロープになっている。そのそばに小さな小屋がある。その裏が燃えたということだった。
「たばこ火かなにかですかね」
呟いた優子は昨晩栗浜さんがたばこを吸っていたことを思い出した。いやいやまさか、とすぐに心の中で打ち消した。ごみステーションに吸い殻をそのまま放り込めば出火することもあるだろうが、栗浜さんは携帯灰皿を持っていた。これまで掃除中に吸い殻を見かけたこともない。昨日のボヤは別の原因だろうと優子は考え直した。
スーパーで買い物をして帰ると、消防車も野次馬もいなくなっていた。そのまま夏の週末は暑く穏やかに過ぎ、優子はネットでごみステーションを注文した。燃えたごみステーションは警察が回収していった。放火が疑われているのだろう。
月曜日は十一時に間に合うように起きて準備するつもりだった。そんな優子をたたき起こしたのは再び訪れたけたたましい消防車のサイレンだった。
一台目のサイレンは夢うつつで聞いた。二台目のサイレンで目が覚めた。三台目のサイレンでこれは少々まずいのではないかと正気に返って、優子はベッドから這い出した。
西側の出窓から外を眺めると、駅の方面に太く黒煙が立っていた。坂下さんの事務所のある辺りのように思われた。優子は眉間にしわを寄せて、パジャマのまま玄関を出た。
階段を降りたところで坂道を上がってくるゲンさんに会った。
「やばいわ」
珍しくゲンさんの顔が険しい。
「建物ですか」
優子の問いにゲンさんは頷いた。
「粟田さんちだった」
「え」
優子は目を丸くして固まった。
「ボヤでも出れば火災保険下りるんですけどねとか言ってましたね。ろくでもないです」
ひと月ほど前、病院の帰りに聞こえたやりとりが脳内に蘇った。あれは確か、藤田の言葉として話題に出ていたのだった。
「解体中の家が燃えてる。道路が通行止めで」
「延焼しそうですか」
優子は気を取り直して尋ねた。延焼するなら居住者とペットを避難させなければならない。間の悪いことに平日で、ペットだけで留守番している可能性のある住戸がいくつかある。それに火災の位置がまずい。粟田さんの家の周辺が通行止めになっているとすると、広域避難所への一番の近道も通れない可能性が高かった。
「煙がすごくて分かんなかったなあ……あんまり近くまで行けなかったんだよね。駅に行こうと思ったんだけど、通れないから諦めて帰ってきた」
月曜日、ゲンさんは休日なのであった。
どうしたものかと優子が考えていると遠くでどよめくような音があった。そして地鳴りがした。まるで雷が落ちたときのようだった。
「何でしょう」
「さあ」
優子とゲンさんが顔を見合わせていると、近所の家やアパートの玄関から次々と顔が出てきた。気の早い老人がひとりさっそく坂を下っている。何があったのか分からないと不安が募るが野次馬が押しかけるのも危険である。優子は自分も走り出したくなる気持ちをぐっとこらえた。
真夏の午前中である。無風だった。黒々とした太い煙が空に立ち上っていた。優子たちのいる場所が煙に巻かれることはなかったが、ぱらぱらと灰が舞いはじめた。
そんな中坂を下りていった老人が帰ってきた。腰も曲がっているのに随分きびきび動くものだと、優子は場違いに感心した。自分が同じくらいの年齢になったとき果たしてあれほどまで活動的でいられるものか、自信がなかった。
近所の人たちが老人の周りに集まる。優子も耳をそばだてた。みな興奮しているので話が前後したり飛んだりするが、要約するとこのようなことだった。燃えたのはやはり旧粟田宅。解体がかなり進んでいたこともあり周囲への延焼はなく消し止められた模様。ただし放水の際に擁壁が道路に向かって崩れた。音と地鳴りはそのせい。けが人はいない模様。
とりあえず延焼を免れたらしいことに優子はほっとした。ほっとしたがこれまでのもろもろを思い出して苦々しい気持ちになった。出火の熱とホースによる放水に擁壁が耐えられなかったのだ。やはり相当弱くなっていたのだろう。
その間もじりじりと太陽が照りつけていた。最初は緊張感から気にならなかった人も、炎天下に十五分も立っていれば次第に耐えられなくなってくる。人だかりは日陰を求めて三々五々分散した。ゲンさんと優子もあけぼのの階段下にある日陰に避難した。
何となく不安でその場を離れられないのであった。火が消し止められているのならもう火事は終わったのだから、それまでの生活に戻っていけば良いはずだった。しかし突然日常に割り込まれた衝撃が大きすぎて、すでに存在しない有事をみな追い求めているのであった。
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