三羽烏 - 2
優子はぎょっとした。思わず真顔でかぶりを振った。
「そういうのじゃないです。ぜんぜん」
「そう。じゃああるのは借りであって負い目ではないわけね」
エリさんが物騒なことを言っている。恩と借りではニュアンスがだいぶ異なる。
「聞いてるかぎりいくつかレイヤーが違う問題が同時発生してる気がするんだけど」
エリさんがテーブルに肘をついて優子のほうに乗り出してきた。
「とりあえずさ、他人を犠牲にするかもしれないことにためらってるんでしょ。ノウハウ」
優子は目を丸くした。言われてみればそうだった。優子が木浦に請われるままにノウハウを提供して、それを販売したとしても購入者の賃貸経営が成功する保証はない。その事実に対する罪悪感があったことに優子自身が気づいていなかった。
「だからノウハウがちゃんとノウハウになってるのか、他人様に売れるようなものになってるのか知るためには自分でやってみるしかないんじゃない」
「もう一回、別の物件で」
優子の言葉にエリさんは頷いた。それこそ木浦が避けるべきと優子を説得してきたものだった。しかしエリさんの言っていることのほうが正道であることを優子は直感的に悟った。「不動産の人になりたいわけではない」と言い訳をしたとて、賃貸経営に関する情報を切り売りしはじめたのならそれはもうすでに不動産の人になっているということなのではないか。
「あと、これはあたしの狭い観測範囲内での経験則だけど」
エリさんが再び片眉を上げた。
「一緒に稼ごうぜ系の仕事を友達から持ちかけられた場合ね。断ったら、だいたい友情は消滅するよ」
しばらくの間、何も言えなかった。エリさんのその指摘をすでに知っていたことに優子は気づいた。知っていて、だから恐れていて、気づかないふりをしていた。
「もうちょっと言い方ってもんがあるんじゃない」
ゲンさんの呆れたような声が聞こえて優子は顔を上げた。眉を下げたゲンさんがマグカップをふたつ持ってテーブルの脇に立っていた。
「しかしそれが今回一番大事なところだべ」
普段であればゲンさんに突っ込まれるなり大騒ぎするエリさんである。だが今返す言葉は静かだった。だから、本当にその通りなのだ。
優子は窓の外を見た。砂利敷きの庭にテントが張り出していて、テラス席が作られている。その先は公園の遊歩道、そしてさらに先に海が広がっていた。今日の海は青かった。本当に、久しぶりの晴れの日だった。
優子は静かにため息をついた。覚悟の決めどきだとは思っていたが、必要なのがこんな覚悟だとは思ってもみなかった。少なくとも今回は、木浦の誘いを断るべきだ。それは優子にノウハウの確信がないからだ。ノウハウ化できると判断するには少なくとももう一件、同じような条件で賃貸物件を手がけてみなければ分からない。
それを優子は上手く伝えられるだろうか。一歩間違えると「今回はご縁がなかったということで」というニュアンスになってしまう。それは避けたかった。木浦とビジネスをやるのが嫌なわけではない、と優子は自分に言い聞かせた。それを木浦に理解してもらえるような言い方は、可能だろうか。可能にしなければならないと優子は思った。
窓の外を見つめる優子にゲンさんがマグカップを手渡してくれた。「サービスね」と片目をつぶる姿に違和感があって優子は眉をしかめた。ゲンさんは少し痩せたのではないだろうか。ゲンさんは優子の問いかける視線を避けるように、すぐに厨房に戻って行ってしまった。
なみなみと注がれたカフェオレを一口飲んで、もう一度優子はため息をついた。問題ははっきりしていて、でも未来はよく見えなかった。先送りできるわけでもないことは分かっていた。結局なるようにしかならないのだ。望む先があるのならば、自分にできることはそう物事が進むよう努力することだけである。優子は顔を上げ、エリさんに向かって微笑んだ。
「ありがとうございます。上手くいくか分からないけど、話し合ってみます」
エリさんのマグにはブラックコーヒーが注がれていた。角砂糖をスプーンで沈めてくるくる回していたエリさんは優子の顔を見た途端目を見開いてスプーンを取り落とした。スプーンはマグの口に当たってかちゃりと音を立てた。
「おゆうが笑った」
呆然としている。そんな珍獣のような扱いを受けるいわれはない。固まっているエリさんに向かって優子は反射的に思いっきり顔をしかめた。
「え、ちょっと待って、その顔はいつも通りで安心するけどちょっと待った、もう一回笑って」
睨まれたエリさんが騒ぎはじめたので優子はますます仏頂面になった。今のしんみりとした気持ちを返してほしい。そう思う優子の視界の端でゲンさんが吹き出した。
「くっそー」
エリさんが言った。
「そこの出歯亀! こっちに来い!」
これまでのエリさんに対する評価を改めるべきかと優子は思った。これではまるで酔っ払いである。店の責任者に向かって出歯亀とは何事か、と思う、自らはまごうことなき出歯亀をした記憶も新しい優子であった。
「人使い荒いな」
ゲンさんは眉毛を下げながらもエリさんの指示に従った。手には自分用のコーヒーマグを持っている。椅子を引いてきて、ふたりのそばに座った。
「おゆう、言いたいことがあるなら言ったれ」
エリさんは座った目を優子のほうに向けてきた。突然水を向けられた優子は慌てた。
「ええと」
ゲンさんが遠野と親しくしようがしなかろうが、本来優子が何か文句を言えた口ではない。優子がゲンさんに対して抱いているのはただの八つ当たりしたい思いなのである。
「いや、どちらかというと俺が優子ちゃんに話さなきゃいけないことがある」
優子が戸惑っているとゲンさんが言った。その言葉を聞いて優子はぐっと腹の中が重たくなった。ゲンさんはさぞかし優子にうんざりしていることだろう。しかし続いてゲンさんが口にしたのは意外な内容だった。
「母屋のこととか、どの家がどんな感じなのかとか、この辺りの人間関係とか、敬太くんに喋ったのはだいたい俺だ」
優子はしばしぽかんとしてゲンさんの顔を見つめた。そして痩せたのではない、と気づいた。やつれたのだ。
「それはどういう」
「最初はただ興味があるだけなんだと思ってた。優子ちゃんと親しくなりたいのかもしれないとも思った。でもたぶんそれだけじゃない」
ゲンさんは笑った。悲しそうな笑い方だった。
「粟田さんちのお子さんがもう独立しててご夫婦ふたりだけだっていう話をしてからしばらくして、粟田さんちが売れた」
「それはたまたまなんじゃないですか」
「優子ちゃんちについてもけっこういろいろ聞かれた」
優子の反論に食い気味でゲンさんは言った。
「旦那さんのこととか、息子さんが帰ってくる予定のなさそうなこととか、優子ちゃんはあまり地元に深入りしたくなさそうだとか」
ゲンさんの言う「旦那さん」は祖父のことで、「息子さん」が父のことである。優子は眉間のしわを深くした。
「それがどういう」
「調べれば分かることと、調べても分からないことがあるでしょ」
横からエリさんが交通整理を始めた。
「登記簿とかは公開情報だから公図見て頑張って調べれば分かる。そうすれば土地の所有者と連絡が取れる」
その通りである。優子は頷いた。
「でも人間関係は調べても分からない。いきなりおゆうんちにきつねマンが来て、ピンポーン、すいませーん、お宅の不動産所有に対する執着度についてお伺いしたいでーすって言っても答えるわけないベ」
インターホンに答えて玄関を開けたら遠野がにっこり笑っていたら、と考えて優子は思わず顔をしかめた。ここ最近のいろいろが仮になかったとしても勘弁願いたい。
「げんたろうは地元で店やってて、この辺の常連もいっぱいいて、しかもおゆうの客だ」
エリさんが感情を込めない目でゲンさんを見た。ゲンさんはやはり悲しそうにしていた。
「上手いこと利用されたってわけだ」
ゲンさんは自嘲気味に口の端を歪めながら言った。
ふたりの遠野に対する評価が恐ろしい勢いで下落している。そのことを把握すると、反対に優子は急に冷静になってきた。
「ちょっと待ってください」
優子は考えをまとめながら言った。
「私この間はゲンさんの前であんなことを言ってしまいましたけど」
そこまで言って優子はエリさんにこの話をしていないことに気づいた。エリさんは優子を見て片眉を上げた。
「とりあえず続けて」
「あの後警察の方と何度か話をして、うちの件には遠野さんは関わっていないのではないかと思いました。少なくとも警察はそう考えて捜査しているみたいです」
高坂と長瀬はこれまでにふたりで、もしくはどちらかだけで優子のところを二、三度訪れている。ちょっとした聞き込みなら電話でも良さそうなものなのに、必ず足を運ぶのが警察のマニュアルなのだろうかと優子は考えていた。
「そうなん」
エリさんが意外そうに答えた。
「ゲンさん、遠野さんとあの後お話ししてますか」
「いや」
ゲンさんは言葉少なに否定を返した。
「連絡すら取ってない」
優子はとりあえず頷いた。
「あそこの社長は未だに行方知れずみたいですけど、遠野さんは少なくとも警察にはきちんと対応していると聞いています」
ゲンさんが何とも言えない微妙な顔をしてコーヒーを啜った。
「私は遠野さんに腹を立てています。信用してもいません。これまで話したことのどこまでが本当でどこからが嘘なのかも分かったものではないと思っています」
優子は一気に言って息を吸い込んだ。
「でもそれは私個人の問題です。こないだみたいに八つ当たりでゲンさんを巻き込むべきではなかった。すみませんでした」
最後はゲンさんに向かって頭を下げた。
「いや、」
ゲンさんの声が掠れた。ゲンさんは何か言おうとして口を開いたが、言葉が出てこないようだった。
「ゲンさんはゲンさんの気の済むようにしてください。私のことは気にしないで」
優子は俯いて言った。こう言うのはとても勇気が要り、かつ気が滅入ることだった。しばらくして、ゲンさんが小さく、分かった、と呟いた。
「おおう」
エリさんが芝居がかった変な声を出した。ふたりが思わず目を向けるとエリさんは大げさに顔を手のひらで覆って立ち上がった。
「君らは馬鹿だ。馬鹿だよ」
そして加熱式たばこを取り出しながら歩きはじめた。
「本当に大馬鹿でお人好しだ」
そう言ってエリさんはドアを開け、屋外へとたばこを吸いに出て行った。エアコンの入った店内に熱された湿った空気が流れ込んできた。夏の始まりだった。
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