三羽烏 - 1
七月の最後の日だった。飲食店でそろそろランチタイムのラストオーダーが取られるような時間に外出した優子は思わず空を仰いだ。先般長かった梅雨がようやく明けた。梅雨が明けた途端台風が来るという、おかしな天候が続いた。今日も午前中はうっすらと雲がかかっていたのが、昼過ぎから風が出てきたようだ。今は快晴だった。久しぶりの晴れの日だった。晴れるとさすがに暑い。半袖にしてきて正解だった。
ここ一週間ほど、優子は木浦からの提案について悩んでいた。自分でも何をそんなに迷っているのか分からないまま結論を出せないでいた。まとめるなら「ビジネスパートナーから今までの経験を元に新規事業を立ち上げようと誘われた」、それだけである。何の問題もないように思われるのに、どうしてか踏み出せずにいるのだった。
考えあぐねた結果、気づけばエリさんにメッセージを送っていた。不動産経営に迷って木浦を頼り、かと思えば木浦からの提案に戸惑ってエリさんに泣きつく。主体性のないことこの上ないのは自覚していた。商売の才覚がないのではないかと、薄々以前から気づいていた問いが優子の背中に重くのしかかっていた。
——近所じゃないほうがいい?
優子が相談したい、とメッセージを送ったときにエリさんは尋ねてきた。
——どこでも大丈夫です
そう答えると、「じゃあげんたろういても大丈夫?」と返ってきた。ゲンさんの店で話そうというのである。せっかくだからゆっくりお茶でもしよう。そう言っていた。
正直に言うと、気が重かった。遠野とゲンさんが一緒にいた日に最後に会って以来、優子はゲンさんと顔を合わせていなかった。厳密に言うと、優子のほうが避けていた。ゲンさんはランチタイムが始まる一時間ほど前に出勤して、夜は日付が変わるころに帰宅する。飲食業らしく長時間労働なので、日中はアパートにほとんどいない。休みの日さえだいたい把握していれば出会わないようにすることは容易だった。
ここ最近のゲンさんは店休日の月曜日と、それに水曜日に休みを取ることが多いようだった。優子はスマートフォンのカレンダーを見てふと首をかしげた。今日は水曜日だ。珍しく休む日を変えたのか。
エリさんはゲンさんと和解させたいのだろうと優子は考えた。何が起こったのかを優子からは一切話していないが、ゲンさんが何か言ったかもしれない。もしかしたら遠野から直接話を聞いているという可能性すらありうる。
足取りの重い優子が店についてドアを開けると、エリさんはすでに厨房とホールを隔てるカウンターそばのテーブルにすでに座っていた。傍らには小さなワイングラスがあった。
「あら優子ちゃん久しぶりじゃない!」
お茶とは何だったのか。優子がワイングラスに眉をしかめる暇も与えずに華やかな声が飛んできた。
「ご無沙汰してます」
優子は表情を改めて挨拶した。声の主はこの店の店長、沼田さんの奥さんのほうである。
「元気そうね。顔色も良くなったんじゃない?」
そう言われて優子は何とも言えない気持ちになった。元気かと言われると全く元気ではなかった。
「三羽烏でお約束だったのね。わたしはもう帰るとこ」
店長はにこにこしている。もとは店長が自分でカフェタイムのみ切り盛りする店だったのだが、今はほとんどゲンさんとアルバイトスタッフに任せきりだった。厨房の奥でご機嫌にスイーツを作っているお店の妖精さん。エリさんがそう表現してゲンさんが噴き出していたことがある。
「さんばがらす」
優子が引っかかったのは発言の冒頭であった。三羽烏とはたしか、特定の分野で優れた三人のことを指すのではなかったか。
「あら、あなたたちどう見てもうちの常連の中で三羽烏よ。仲良しという意味で。ゲンちゃんもいっつも優子ちゃんがどうしたのエリちゃんがどうのって」
「そうだったんですか」
優子は意外な気持ちで厨房のほうを見た。厨房の中を慌ただしげに動いているゲンさんが、店長勘弁してくださいよ、と言っている。その言葉に疲労が滲んでいるのを感じて優子は気持ちが重くなった。沼田さんは最近のできごとをどこまで知っているのだろうか。もしかしたら慰めようとしてくれているのではなかろうか。
「仲良しと言えば、最近あの子見ないわね。元気にしてるの?」
店長がゲンさんのほうを向いた。
「……元気にやってますよ」
水を流す音がして少しゲンさんの返事が遅れた。優子には「あの子」が誰なのかすぐに分かった。遠野のことだ。ゲンさんは店長にまでそう認識されるほど遠野と親しくしているのか、優子は考えて少しだけ胃の底がひゅっと下がるような感覚を覚えた。
「……ときに」
思い出したくない名前を振り切るようにして優子はエリさんに向き直った。当の本人はグラスを掲げてにやにやしている。
「大丈夫、これが一杯目。そしてとりあえず二杯目は当分オーダーしない」
優子は眉をしかめて、しかし頷いた。グラスワイン一杯くらいで酔っ払うエリさんではないのである。
じゃあ後はお願いね! 明るい声で挨拶しながら店長が帰っていった。片手を挙げてゲンさんが見送った。
優子が何度か見かけたことのあるアルバイトスタッフが空の皿を持って二階から降りてきた。こちらに軽く会釈して厨房に入り、ドリンクの在庫確認などを始めている。飲食店の客が少ない時間帯特有の、勤勉ながらのんびりとした雰囲気が流れはじめていた。
「今って何かご飯食べられますか」
優子はアルバイトに向かって話しかけた。
「お前さんまたこの時間までお昼食べてないのか」
座席のほうから茶々が入る。ランチタイムが終わっている時間で、一階のホールには優子とエリさん以外の客がいなかった。平日は三時からカフェタイムが始まる。ドリンクの提供は店長がアルバイトをしっかり仕込んでいるので、本来ゲンさんは少し休める時間なのである。
優子はむすっとしたがエリさんの指摘は正しい。昼食としてはだいぶ遅いし、この時間まで何も食べないことが優子はよくあった。
「ランチの残り、シーフードカレーならあります」
アルバイト氏は目をぱちぱちと瞬かせながら言った。優子はお願いします、と頭を下げた。
カレーを食べ食べ優子が説明を終えると、それまで黙って腕組みをしていたエリさんは「なるほどねえ」と呟いた。
「おゆうはどう思ってんのさ」
優子は水を飲みながら考えをまとめた。
「まず私はきーちゃんに恩があると思っていて」
結局それが一番大きいのであった。
「だからできるだけ力になれるなら話には乗りたいと思ってるんです。ただ、私がそれって情報商材みたいなものだよねって聞いたら」
「ふむ」
エリさんが片眉を上げた。
「一瞬だけ嫌そうな顔をした」
優子はきゅっと口を結んで少し考えた。
「……今ようやく考えがまとまったんですけど、要はそれがまっとうな商売なのかどうかよく分からないんです」
「せやな」
エリさんが呟いた。そのまましばらくエリさんは腕を組んで天井を見上げていた。
「おゆうはさ、そのノウハウってほんとに存在すると思う?」
問いかけられた優子はエリさんの顔をまっすぐ見た。
「ないものをある、というのが、ずっと私の仕事でした」
ディレクターの仕事は工程管理だけではない。企画屋であり、営業の持ってくるよく分からない顧客の要望を社内の人間が理解できる言語に言い換える翻訳者であり、必要あるものやないものを適度に付け加えて顧客の射幸心を煽ることで売上を上げる扇動者でもある。そのためにはないものをあると言うこともあった。嘘は吐いていない。納品時までには存在しうるのだから。
「だからノウハウを提供しろと言われたら作ります。マニュアルにしろと言われてもできます。でもほんとにそれで良いのか分からない」
そう言って優子は俯いた。
「今までもそうしてきたはずなんです。でもそれって意味があったんでしょうか」
「なるほど。君は今人生に迷っているわけだ」
エリさんが静かに言った。その通りだった。そしてその調子のまま爆弾が落とされた。
「その木浦って人さ、元彼かなんか?」
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