マネタイズ - 3

「鈴木ちゃん? 大丈夫?」


木浦の声ではっと我に返った。

「ごめん、ちょっと考え事を」


優子の謝罪に木浦は笑った。

「こっちこそごめん、つまんない話で」


そう言って木浦は最初の話題に路線を修正した。


「でもやっぱり鈴木ちゃんちゃんと大家さんしてると思うよ。ヤバそうな業者を嗅ぎ分ける鼻もありそうだし、まあ見てて安心かなって感じ」」


「ああいう業者さんって多いのかな」


実は少し前から気になっていることだった。もろもろの悪意や反感をさっ引いて考えても遠野は優秀そうに見える。なぜわざわざ法の網目をかいくぐるようなやり方で利益を上げる会社で働いているのか。


「多くはないけど、少なくもない」

優子は眉間にしわを寄せた。それでは何も言っていないに等しいではないか。


「まあ、正攻法では行けないような立場にあれば色々頑張るしかなくなるんじゃないかね。うちのじーちゃんみたいに」


最初どうやって土地ゲットしたんだろうね、知りたいような知りたくないような。そう言って木浦はまたにやっとした。


「そうそう、俺の最初の会社の同期に聞いた話なんだけど」

話し出したことで思い出に拍車がかかったのか木浦が楽しそうに話す。


「俺二年目で転職しちゃったじゃん。その後ね、いた支店にちょっとヤバめの上司が転勤で入ってきたの」

「ヤバめ」


「恫喝系。あ、鈴木ちゃんならたぶん想像つく感じ」


優子は眉をしかめながら頷いた。そういう上司なら、良く知っている。


「ヤバめさんが異動してきたその年の新入社員がひとりを残して全員辞めた」

「それはヤバめとか言っている場合ではないのでは」

優子の真顔の指摘に木浦は頷いた。


「そうなんだよねー。さすがにまずいんじゃないかって同期とかが話してたらしいんだけど、ある日突然」

木浦がこちらを見た。


「会社に怪文書が届くようになった」


「脅迫文とか? 」

「そういうのだったらまだ良かったんだけど」

木浦が笑った。


「そのヤバめさんを告発する文書。横領。異動してくる前からずっと、何年分もあったらしい」

「証拠があったんだね」


「調査の結果ヤバめさんは懲戒解雇。そのあとすぐに最後の新卒が辞めてったらしいんだけど」

「けど」


「同期が言うにはその新卒が次に入った会社は倒産。今度は脱税」

「運が悪いね」

優子は眉間のしわを深めた。


「これはもう噂レベルだけど、税務署にタレコミがあったらしい。それで同期が新卒につけたあだ名が『疫病神』」

「その人何も悪くないでしょ」


優子は眉をしかめたまま指摘した。木浦は頷いた。


「あえて悪いと言えば運が悪いだけだと思う。でも俺も正直ね、そういうやつは雇いたくないなーって思っちゃった」

「それはもしかして、告発したのがその人だとかそういうこと?」

「同期はそう思ってたみたい。顔だけで女性客契約させていつもにこにこして何考えてんのか分かんなくて薄気味悪いって」


それはただの難癖ではないか。優子はそう思ったが、同時に何か聞いたことのある話のような気もした。


「まあ、そんなわけで海千山千なのよ、この界隈。俺がいた会社だってそんな感じだった、かぎりなく黒に近いグレーなことせずに済んできたら、それは単に運が良かっただけなのかもしんない」


優子は形の上で頷きながら、この人は今自分が何を言っているのか分かっているのだろうかと思った。優子は誰かを陥れてまで利益を得たいと考えたことはなかった。ただ数少ない手持ちのカードを適切に使って何とか生きていきたいだけだった。不動産業界そのものがこれほどまでに魑魅魍魎の渦巻く伏魔殿なのだと最初から知っていたら、そもそもアパート経営をしようなどと考えなかった。


「なんていったかな疫病神くん。なんかね、そもそも疫病神っぽい名前だったとか言ってたんだよね……」


木浦は組んだ両手を口元に持っていって考えている。続いた言葉に優子は思わず声を上げそうになって慌てて唇の裏を噛んだ。


「あ、そうそう思い出した。『遠野物語』だ。遠野」


優子は混乱していた。遠野とは、つまり優子の知っている遠野敬太のことだろうか。木浦の話す疫病神が仮に遠野のことなら、木浦が退職した後に入ってきた新卒だから優子たちとの卒業年度差は二学年ほど。優子は遠野のことを自分より少し若いと見ていたので、確かにそのくらいだろうと思われた。顔で女性客を捕まえられる容姿があり、いつもにこにこしていて考えが読めない。どう考えても、優子の知っている遠野のことにしか思えなかった。


しかし、どうやら遠野は藤田の不正の片棒を担いでいる。仮に成りすましには加担していなかったとしても、粟田さんの土地売却には一枚噛んでいただろう。こっそりと証拠を集めて不正の告発を繰り返していたらしい疫病神氏と同一人物と思って良いのだろうか。それとも、優子はどこかでとんでもない勘違いをしているのだろうか。


「……きーちゃんはその人に会ったことがあるの?」


動揺を押し隠して優子は尋ねた。木浦は首を振った。


「ごめん、完全に伝聞。だからもしかしたら同期が嘘ついてるだけでそんな人存在しないかもしんない。まあヤバめさんが懲戒解雇されたのは間違いないけど」


にやにやしながら言われるとどこからが冗談なのか判別がつかなくなる。しかしとりあえず優子は黙って頷いた。木浦が疫病神氏と面識がないと言うなら、わざわざ遠野の話をすることもないだろうと思った。優子の盛大なる思い違いであるかもしれないわけである。


木浦にエレベーターまで見送られた優子は一階のボタンを押した。モーターはまた大げさなため息を吐いて動きはじめた。ドアの上に掲げられた階数表示のランプが一フロアずつ下に降りていくのを見ながら、人は何階からなら飛び降りても無事でいられるのだろうかと優子は考えた。人間は身体が重いので三階あたりからでも骨折は免れなそうな気がした。


狐だったらもっと高いところからでも大丈夫かもしれない。海沿いの岩場から砂浜にふわりと着地するきつねのイメージが脳裏に浮かんだ。白い毛並みが太陽に照らされて銀色に輝いた。もっとよく見ようと優子が目を細めた瞬間、がたんという大きな音を立ててエレベーターが一階に止まった。ふわりふわりと宙に浮いていたきつねが鈍い音を立てて地面に叩きつけられた。その腹には太い矢が一本刺さっていた。黒く開いた傷口は美しく白い毛並みを赤い血で汚していた。




優子は柳田国男の書いた『遠野物語』を読んだことがない。しかしひとつ、記憶にあるできごとがあった。


大学二年生のときだったように思う。いつものように昼休みに学食に向かった優子の目に、体育で同じ授業を取っている女の子四人組の姿が映った。短い昼どきの学食はすでにごった返していたが、彼女たちは首尾良く大テーブルの席を向かい合わせにふたつずつ確保したようだった。


四人組は直前の授業について話しているようだった。優子は冷麺の入った盆を持って彼女たちの脇を通りすぎ、運良くひと席空いていた窓際のカウンターに座った。文学の授業に出ていたらしい。優子が耳にしたことがあったりなかったりするアメリカの作家たちが話題に上がっていた。優子は聞くとも聞かないとも言えないくらいの集中力で彼女たちの声を耳に入れていた。


「でもさあ、例えば日本でも『遠野物語』だったら……」


ざわめく学食の中で四人のうちひとりの声が突然優先レーンを通って耳に飛び込んできた。優子はぎょっとした。たった今まで彼女たちは作品がオスカーを獲った映画にもなっているノーベル賞作家について話していたはずだった。『遠野物語』といえば河童に代表される日本の妖怪の話ではなかったか。何がどう関係あるのか優子にはさっぱり分からなかった。


しかしその発題はすんなり受け入れられたようで、「なるほどなるほど」という相づちを伴って会話は賑やかに進んでいった。そのさまに優子は驚いた。まず、四人が全員『遠野物語』の内容をある程度知っているらしいことに。次に、飛躍としか思えない話題が好奇心を持って受け入れられていったことに。そして何より、貴重な昼休みを使ってまで熱心に学業に取り組めることに。



優子は推薦入学で大学に入った。仮に推薦に落ちて一般入試を受けるとして、自分の学力バランスからして適当だろうと思われる学類のうち、最も偏差値の高いところを選んだ。特に大学で学びたいということがあったわけではなく、単に自身の学力が高くて親が大学進学を望んでいるからそうしただけだった。そして二年生になった今、大学に優子の居場所はなかった。


大学の広大な敷地内に住んでいた一年生は進級すると周辺のアパートへと引っ越していく。その後に新一年生が入る。どちらにせよ大学の近くに住んでいるわけで、授業と授業の間に時間があるといったん帰宅してしまう学生も多かった。自宅まで車で帰ろうとすると早くても二十分はかかる優子にはその選択肢がなかった。必要な単位が揃いはじめた二年生の後半から時間を持て余す日が増えた。大学の図書館にはカフェが併設されていたので、そこで時間を潰すことが多かった。


同じように図書館に入り浸っていたのが隣のクラスにいた木浦だった。木浦は横浜の実家から進学したのでひとり暮らしをしていた。クラスが違うので顔くらいしか知らなかった優子だったが、なにやら分厚いテキストを広げて勉強している同級生がいるなと思っていた。


木浦から話しかけてきたのはそんな日々の中のいつかだった。


「わりと図書館いるよね?」

今現実に図書館にいるのでそれはそうでしょうね、と優子はカフェラテを啜りながら頷いた。


「みんな図書館使わないから同級生珍しいなーと思ってたんだ。普段何しに来てるの?」

「宅通だから。暇なの」


優子の返答は素っ気なかったはずだが、木浦は気にも留めなかった。実家がつくば? どの辺? お父さん公務員? 研究者、すげー! と質問攻めにされる間、優子は木浦の持ち物を見ていた。いつも広げている分厚いテキストには「宅地建物取引士試験」と書いてあった。


そうして優子は木浦の実家が不動産業を営んでいることを知ったのだった。正直継ぐのやなんだけど、ねーちゃんたち誰も宅建取ろうとしないから。そう苦笑しながら木浦は学生の間に合格することを目指していた。今年の試験だめだったんだよね、来年こそは。そうまっすぐな視線で語るので優子は素直に応援したい気持ちになった。何か目指すべきものを持つ人が羨ましく、眩しかった。


今振り返ると目標を探したくなったのか何だったのか。優子は併設のカフェから足を踏み出して図書館の中をうろつくようになった。大学図書館としては異例の全開架式であるのがこの場所の売りであることを、その頃にようやく知った。専門外の書籍が並ぶ書架をうろついてあれを読みこれをつまみし、その結果本そのものに興味を持った。本は様々な形や色や大きさをしていて、書いてあることも様々で、そしてそれぞれに独立した本なのであった。


三年生で始めた就職活動で出版社を第一志望としたが全滅した。その頃には優子の関心はメディア全体にまで広がっていて、結局ウェブサービスの受託開発を行う会社に就職したのだった。SNSという言葉がようやく若年層を中心に社会に浸透してきた、そんな時期だった。


木浦は三年生秋の宅建試験に見事合格し、その後不動産業界にいくつか内定を得ていた。就職活動の慌ただしさもあって、三年生の冬以降はふたりが図書館で会うこともめっきり少なくなっていた。四年生になり就活が一段落し、卒論のことがちらほら頭によぎりはじめた夏休み前に、ふたりは久しぶりに図書館のカフェで近況を報告しあった。


そんなことも忘れていたのだった。優子は帰りの電車で窓ガラスに自分の姿を写しながら考えた。雨脚が強くなっていた。窓ガラスに付いた水滴は吹き付ける風に逆らえずに斜めの線になって伸びていった。『遠野物語』という一単語が膨大な記憶を連れて頭の中に雪崩れこんできたので優子は打ちのめされる思いだった。


どちらかというと遠野が疫病神呼ばわりされている可能性のほうに驚くべきなのではないか、そのように脳内の冷静な部分が言う。しかしもう一方で、優子は学生時代のやるせなさを再び噛みしめているのだった。あの頃からもうしばらく月日は経って、それなのに自分には未だに目指すべきものも極めたいものもなかった。


電車が速度を保ったままトンネルに進入するたび、ごうっと風が唸って窓ガラスが揺れた。夕方の電車は混みはじめていて、座席に座れなかった優子は吊革につかまって窓ガラスに向き合っていた。トンネルの中では窓ガラスが車内を写す。トンネルを出ると消える。半島の入り口にある山の中を進んでいるので短いトンネルを出たり入ったりする。ごうっと音がするたびに歪む自分の姿を、優子はじっと見つめていた。

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