マネタイズ - 1

その日の深夜から優子は高熱を出した。頭ががんがん痛む中で何度も夢を見た。あるときは優子はきつね浜にいた。岩場には白い九尾のきつねがいて、優雅に海に飛び込んでいった。きつねは海から空へと飛んだ。白い尾がふわりと広がって太陽光にきらめいた。そのとき風を切る音がして、一瞬のちには悲鳴が響いた。どさりという音ともにきつねは浜に落ちた。優子はきつねを助けようと走った。走ったが体が動かない。力を入れてもまったく前に進まない。それではと力を緩めようとするが緩め方が分からなくなってしまった。


もがいていると目が覚めた。体中が熱くて痛かった。エリさんから何やらメッセージが入っていた。目を通そうとしたが内容が頭に入ってこない。「ねつをだしました」と何とか送信することに成功した。


その後何度かエリさんが見舞いに来てくれたような気がする。スポーツウォーターを飲んだり、お粥を食べたりしたような記憶もある。薬もエリさんが手渡してくれたのだろう、見覚えのないものが出窓の窓台に転がっていた。


よく寝たと満足感を覚えながら目を覚ますと、スマートフォンの電源が切れていた。体がべたべたする。髪の毛が絡まって額に貼り付いていた。スマートフォンを充電をしながら起動すると、なんと金曜日の夜であった。水曜日の夜から木金とまるまる二日間を寝て過ごしたことになる。自覚してみると、確かに寝すぎて腰が痛かった。


エリさんにお礼のメッセージを送りながら、優子はそのほかに何も連絡が来ていないことに密かに落胆した。引っ越してきたばかりのころ、まだ今よりもう少し体調が安定していなかった時分にはよくゲンさんが消化の良い食べ物を作って持って来てくれたものだった。今回はゲンさんからは何も言ってきていなかった。当然だと優子は思った。目の前で遠野を面罵したのだ。今振り返るとずいぶん嫌な罵り方をしたように思う。ゲンさんだって失望しただろう。


しかし優子は未だに遠野に対して腹を立てていた。これが腹を立てているのだと分かるのに少し時間を要した。何かに対して腹を立てたと自覚したのは、ずいぶん久しぶりであるような気がした。


これからどうすればいいのだろうとベッドに寝転がったまま優子は考えた。ぼんやりしていると客を奪われ、放置していると土地を乗っ取られそうになる。何か良い解決策なり、心構えなりが知りたかった。自分で試行錯誤してみるほどの気力と興味も持てなかった。こういうときに頼りになるのがひとりいる。木浦である。優子は手に持ったままいじくっていたスマートフォンで木浦にメッセージを送った。


——そういうことなら次の水曜日でいい? 俺もちょうど相談したいことがあるから助かったー


会って話せないかという優子の連絡にすぐに返事が来た。相変わらずの文章に安堵を覚えながら、優子は了解の意を送った。



木浦は横浜駅のことを「日本のサグラダファミリア」と呼ぶ。優子は最初何のことかと思ったが、この辺りではわりと有名な冗談であるらしい。いつも駅の中のどこかで工事をしている。駅の工事が終わったかと思えば駅ビルの工事が始まる。全体像は、誰にも分からない。都心の主要駅と違うのは駅自体が工事の度に東西南北に少しずつ拡張しているところだ。もしかしたらそのうち隣駅まで飲み込んでしまうのかもしれない。


本家の聖家族贖罪教会は観光名所として有名だが、こちらはついぞ目的地にはなりえない。人々は皆通り過ぎて、それぞれの場所へ向かうだけである。そんな巡礼のひとりとして下車した優子は西口から地下に潜った。地下街の突き当たりまで進んで地上に出ると、川に蓋をするようにしてうねうねと伸びる首都高やらごちゃごちゃとした雑居ビルやらがひしめく地帯に出る。ほとんど暗渠のようになった川すれすれに建つビルの、大型車がうなりを立てて通りすぎる首都高すれすれの最上階が木浦のオフィスだった。七月になっても明けない長梅雨だった。ぽつぽつとつまらなそうに降り続ける雨を避けるように、優子はできるだけ庇のあるところを通って歩いて行った。


基本的には雑居ビルなので受付などはない。優子はエレベーターに乗って行き先階のボタンを押した。やや年季の入ったエレベーターがうなり声を上げて稼働を始める。


このビル自体が木浦の実家の持ちものだと聞いている。駅前の土地をある程度保有して家賃収入を得つつ、住宅の開発や賃貸管理などを手広く扱っている会社だった。木浦は現在その関連会社の代表に納まり、中古マンションを買ってはリフォームしてエンドユーザーに売却する事業を手がけている。業界用語では再販というらしい。


最上階に着きガラス張りのドアを開けると、無人であった。そもそもとりあえず木浦を実家に入れるために親が与えた会社であるようで、木浦を除いても従業員は二、三名を数えるばかりである。それぞれに業務がある。優子が訪ねるときに全員揃っていることのほうが珍しかったが、誰もいないというのも初めてだった。それでようやく、優子は今日が水曜日であることを思いだした。


不動産業者は水曜日に休むものなのである。契約が水に流れることを嫌うから、という験担ぎが現代にまで残っている。それなのにこんなに川のそばにビルを持つとはおかしなものだと優子は普段から考えていた。


ワンフロアのオフィスの中に、立派なもので社長室がある。もともと以前からあった関連会社なのでオフィスの内装は従前のままだと聞いている。その社長室のドアが開いていた。近づくと木浦の声がする。


覗くと木浦は電話中であった。受話器を顎に挟みながら左手をデスクにつき、右手でデスクにおいたスマートフォンを操作している。


「あ、ちょうど来ました。少しお待ちいただいても良いですか」


電話の向こうにいるのであろう相手に明るい声で言うと木浦は電話機の保留ボタンを押して受話器を離した。


「ごめんごめん、せっかく来てもらったのに。久しぶり」


そう言いながらにやにやしている。本人に悪気はないのだが、にこにこというよりはにやにやという顔になってしまうのが木浦である。


「ううん、こちらこそお休みの日にありがとう。それよりも電話は大丈夫? 」


「そうそう、それなんだけど、鈴木ちゃんがらみなの」


優子は首をかしげて続きを待った。


「宅建協会のそっちの支部でね、鈴木ちゃんに勉強会出てほしいんだって」


「勉強会」


優子はオウム返しに繰り返した。優子は宅建を持っていないし不動産業界で働いたこともない。そのため宅建業者の入会する宅建協会にはついては明るくなかった。勉強会とはいかなるものなのか。


「そんなに大々的なやつじゃなくて、一ヶ月に一回くらい有志でやってる内輪の集まりなんだって。わりと若い人とか二代目とかが多くて、ちょっと珍しい事例だから知りたいって話になってるらしい」


「なるほど」


「俺もついでに来いって」

木浦は相変わらずにやにやしながら言った。


木浦はさすがというべきか、よく話す。放っておけば優子の代わりに全部喋ってくれるだろうと思われた。人前に出るとしても少し楽になるなと思って優子は頷いた。


「分かった。いつの予定? 」


勉強会は来月の頭だった。木浦が待たせている電話に了解の意を伝えている間、優子は社長室に備えられているソファに座ってあたりをぼんやり見回していた。窓の外には首都高の防音壁が高々とそびえている。雨粒が窓ガラスにびっしりと貼り付いていた。


「お待たせー。お茶飲む? 」


いつの間にか電話が終わったらしい木浦が右手にペットボトルを二本携えてソファのほうにやってきた。優子は礼を言って受け取った。


「大変だったねー」


木浦の言葉に優子は黙って頷いた。おおよそのあらましはすでに文面で伝えてあったし、詳細については未だに何と言っていいのか自分でもよく分からなかった。


「結局その地面師は捕まったの?」

木浦の質問に対して優子は首を振った。


「まだ。どうも今海外にいるみたいで」

「高飛びか。テンプレだね」

「テンプレなの」


優子は真顔で聞き返した。木浦はにやにやしながら頷いた。

「日本は犯人引渡条約をほとんどの国と結んでないからね」


海外渡航してしまえば日本の司法では手出しができないということらしい。優子はどうしてそんなことに詳しいのかと思ったが子細は突っ込まないことにした。


「まあでも一度そういうことがあれば法務局も警察も気をつけるし、当面は逆に安心じゃない」

「うん、パトロールも強化してもらってるみたい」


優子は熱を出していたので気づいていなかったが、警察来訪の翌日から近所をパトカーが朝夕パトロールするようになったらしい。土曜日の午前中に訪れたエリさんに聞いた。


「何か最近あったのかね」

不思議そうにしているエリさんには非常に伝えづらいものがあったが、要点をかいつまんで説明した。遠野とゲンさんに会ったことは、どうしても言えなかった。


月曜日には再度高坂と長瀬が訪れた。優子が意外に思ったことには、警察は今回の成りすましをFSEの組織的な犯行ではなく、藤田の独断によるものと見ているらしかった。共犯者は社外の人間だったという。


藤田が行方を絶っている中、遠野が出社して対応に当たっているらしい。警察の調べにも素直に応じているということだった。藤田と遠野のほかにはパートの事務スタッフが二名いるばかりの小さな会社だったようで、遠野以外のふたりはすでに退職の意向を示しているという。話を聞いている間、遠野の名前が出るたびに優子は胃を素手で掴まれるような感覚を覚えて顔をしかめた。


坂下さんからも一度電話があった。あれやこれやと遠回しに今回の話を聞き出そうとした挙げ句、本家がパニックになっているという話を延々と聞かされた。病み上がりの優子は途中から話半分にしか聞けていなかったが、まとめるとFive Star Estateが潰れたらサブリース賃料はどうなるのか、マンション建設のために借りた金は返せるのかという話だった。そんなことを自分に話されても困ると優子は思った。


そんなわけで、誰も彼もが自分のことで手一杯なのであった。優子もまた然りで、驚きと憤怒と失望と困惑と不安といったもろもろの感情を切り分けることができずに持てあましていた。


「ちょっと想定してなかったから迂闊だったかなあ」

木浦は木浦で反省するところがあるらしい。


「でもさ、地面師のおかげで鈴木ちゃんちの物件価値が分かったとも言える」

そう言って木浦は笑った。

「物件価値」

「そう。ちょっと危ない橋を渡ってでも取引する価値があったってことでしょ。だからほんとに困ったときに、きっと役に立つよ」

「そっか」


優子は何となく違和感を覚えながら返事をした。そういう考え方もあるのかと思った。



「結局入居者さんにしてもさ、勝負は十六分の二、七対一でしょ。圧勝じゃない?」


あけぼのとしののめの住戸数を全て合わせると十六戸になる。そのうち遠野によって引き抜かれていった契約が二件。残り十四戸のうち一戸は優子自身が住んでいるので除外するとしても、殆どの入居者は遠野のマンションよりも今のアパートを選んだのである。と、自信を持って言うことができるのかもしれない。


数の勝負として考えていなかった優子は木浦の言葉に少しぽかんとした。ぽかんとしてから納得した。


「これから先どうなるのかよく分からないけど」

考え考え優子は言った。


「本家が諦めて家賃下げてくることも十分ありうると思うんだよね」


現在はサブリースになっているマンションだが、恐らく坂下の本家は不法行為などを理由にFive Star Estateとの契約を終了するだろう。そうしたら坂下さんか、もしくは駅前の三谷不動産かが普通に賃貸管理を始めるはずだ。


「まあでもたぶんそんなには下げられないよ。少なくとも広告でめっちゃ安い家賃出しちゃったら、今住んでる人からクレーム来るからね」

「全部の家賃下げれば問題ないんじゃない?」

「そりゃ大家が鈴木ちゃんくらいいい人だったらそうするだろうけどねー」


言いながら木浦はにやにや笑っている。優子は「いい人」と呼ばれることに内心引っかかりを覚えた。自分の心の狭さは、最近嫌というほど思い知っている。「いい人」とはほど遠いところにあるような気がした。


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