地面師 - 2

もってまわった言い方だが、意味は単純明快であった。藤田という社長はこの件の当事者であり、かつ加害側に当たる可能性が非常に濃厚であるということだ。では、従業員である遠野はどのくらい関わっているのだろうか。優子は思わず俯いて深く息を吸い込んだ。吸うと背中が震えた。


「それは、主犯格ということですか」

「その可能性を見て捜査を進めています」

「見つかったんですか」

「今はまだ。……本日、そのファイブスターの家宅捜索を行いました」

「今日はお休みだったのでは」

優子は疑問に思って顔を上げた。


「緊急性があったのでビルの管理会社に解錠をお願いしました」

「そうでしたか」


「鈴木さんはそこの社長と面識がおありですか」

「いいえ」


優子は短く答えた。そして付け加えた。


「でも、そこの会社の営業さんとは何度かお会いしたことがあります」

「何か不動産売買について持ちかけられたり、匂わせたりされたようなことは」

「とくにはありません。ただ、」


優子は言葉を切った。今になって不動産が乗っ取られるということに対して現実感が追いついてきた。ある日気づかぬ間に登記が書き換えられていたら、と思うと胃を素手でわしづかみにされたような気持ちになった。あけぼのとしののめは大丈夫だろうか、とりあえず全てを放り出して法務局に確認に行きたいような気持ちだった。


「ただ?」


高坂が続きを促した。優子は両手を強く握りしめて言った。


「その営業さんはうちの入居者さんに集中的に営業をかけて、自社のサブリース物件に転居させていました。そういう意味では、少し私とトラブルがありました」



「なるほど」


「それで、心配になってきたのですが」

優子は勇気を出して言った。

「うちの法人が持っている土地には何もなかったんでしょうか」


「アパートはお嬢さんのほうがお持ちなんですよね」

「私ではなく法人がですが」

優子の心情としてはあくまでも大家代行なのである。


「そこまではまだ調べていないと思います。確認させますね」


高坂は愛想よく言うとスマートフォンを取り出して電話を始めた。


「少し手続きで時間がかかると思いますが、分かりしだい折り返しが来ますので」


電話を終えた高坂が言った。

「ありがとうございます」


「ちなみに、待っている間にと言っては何なんですが」


高坂が愛想の良さを崩さずに続けた。


「その、鈴木さんとトラブルがあったという従業員についてもお伺いしていいですか」

「何を話せばいいでしょう」

「まずはそうですね、その入居者さんを引き抜かれたということですよね。それについては」


「はい」

優子は少しだけためらった。


「正直に言って、今かなり驚いて神経質になっている自覚があります」

「はい」

「今から話すことは、なので恐らく遠野さんに対する悪意があります。それを前提として聞いていただければと」


「遠野というのが名前なわけね」

長瀬が会話に加わった。優子は同意の意を込めて頷いた。


優子がこれまでの経緯について話している間に、高坂のスマートフォンに折り返しが来た。あけぼのとしののめの登記簿に直近の履歴はなく、不審な点は見受けられないとのことだった。聞いて優子は安堵した。安堵したついでに、先日粟田さんの家の前で耳にしたやりとりについても口にしてしまった。


「売主にだまされたと、そう聞こえたと」

「はい。しらばっくれていると言っていたと思います」

「ほかには」


長瀬の質問に優子は俯いて思案した。会話の順序を思いだすのに存外に時間がかかる。何か非常に気分の悪いことについて話していた。


「……ボヤでも出れば火災保険下りるんですけどね、と」

「それはその場にいた人が言っていた」

「はい。その藤田という人からそう言われたと」

「それはいつの話か覚えている?」

「先週の金曜日です」


優子は考えながら答えた。


「予約をして通院していたので、そちらの受診情報と照らし合わせていただければだいたいの時間は分かるかと思います」

そう言って優子はかかりつけ医の名前を伝えた。


また何かお伝えすべきことがあればご連絡します、と愛想良く挨拶する高坂とむっすり黙り込んだ長瀬はパトカーに乗って帰って行った。ふたりが帰ったあと、優子はしばらく畳の上に放心してへたり込んでいた。


父も優子も、母屋を完全に持てあましていた。父にとっては実家の土地であり、優子にとっては幼いころの思い出がある場所ではある。だからといって母屋を人生の最優先次項として考える人間は、鈴木家に現在残されたメンバーのうち誰ひとりとしていなかった。その程度の財産であるのに、他人に不当に狙われていたと知るのはこんなにも恐ろしいものなのかと経験して初めて気づいた。


先祖代々の土地、ということを言う人はたまにいる。たとえば坂下さんだ。古くからの土地を惜しげもなく売っぱらったという点において、坂下さんと祖父には密かな盟約とでも呼べそうな関係性があった。多少の後ろめたさと、やりたいようにやってやったという爽快感とがない交ぜになっているようだった。


木浦にも同様のことを言われたことがある。


「鈴木ちゃんちがオーナーだって知らなかったー」


最初に優子が木浦に相談を持ちかけたときだった。アパートと母屋をひと通り見た木浦が笑いながら言ったのだった。


「私もあまり意識したことがなかった」


優子が正直に答えると木浦は少しだけ表情を改めた。


「そうなんだよなー」

「そう?」

「資産がある人ってさ、わざわざ資産がありまーす! って言わないんだよね。あって当然だから」

「でももともと祖父のものだし」


優子が眉をしかめて指摘すると木浦はにやりと笑った。


「でも最終的には鈴木ちゃん相続するんだよ。自覚ある?」

「……たしかに」幼いころ一度祖母に言われたことがあった。


「ゆうちゃんはゆうちゃんの好きにしていいんだからね。おじいちゃんはこうやってアパート作ったりしてるけど、いらないなって思ったら売っちゃってもいいんだからね」


幼いころの記憶だ。前後の文脈などもう覚えていない。しかし笑いながらも真剣な雰囲気をまとった祖母のその言葉だけ、優子はなぜか忘れられずにいたのだった。


気づくと周囲が薄暗くなっていた。夕方だった。窓の外を見ると、薄曇っていた空からぽつぽつと雨粒が落ち始めていた。砂埃のついたガラスに水滴がこびりついては流れ落ちた。優子はふとスマートフォンが点滅しているのに気づいた。父からの着信に、どうやら気づいていなかったようだった。


「もしもし」

優子が折り返すとすぐに父が出た。


「どうだった」

「いろいろ聞かれた」

答えになっていない答えを返して優子も尋ねた。


「そっちはどうだったの」

「いろいろ聞かれたよ」

父は笑った。声に疲労の色が濃かった。


「やっぱりあんま放置してるのは良くなかったのかな」

「でも私毎日開け閉めしてたし」


優子は思っていたことを言った。

「プロの手にかかったら、たとえアパートが狙われてても気づけなかったと思う」


電話の向こうで父はため息をついた。

「そうかもしれないな」

「とりあえず、今回は何もなくて良かったね」

「……そうだな」

「……うん」

「……とりあえず気をつけて」

「分かった」


歯切れの悪い電話を終えて、優子は母屋を後にした。雨脚が強まる中、いつもよりも念入りに戸締まりについて確認してしまった。


坂道を下ってアパートの敷地内に入った優子は、数メートル先に傘を差した人影をふたつ認めた。それが誰なのか分かった瞬間、頭に血が上った。


ゲンさんと遠野だった。今日の今日で、地面師の身内に会うとは思わなかった。今回は本当に危ないところだったのだ。どうしていけしゃあしゃあと優子の目の前に姿を現せるというのか。社長である藤田は逃走していると言うではないか。むしろ今からでも警察に電話して遠野を突き出してやったほうが良いのではないか。


「優子ちゃん」


ゲンさんがいつもの調子で手を振った。何も知らないのだろう。その隣にいる人物がにっこりするのが見えて吐き気を催した。


「出てってください」


喉元にこみ上げてくるものを何とか飲み下して声を出すと、低く割れた音が響いた。ゲンさんが怪訝な顔になった。


「どうしましたか」

自分に言われたことが分かったらしい遠野も小首をかしげた。


「出てってくださいって言ったんです」

頑なに優子が繰り返すとゲンさんが割って入ってきた。


「優子ちゃん、どうしたの……」


ゲンさんが差し出した左腕の向こうに不思議そうな顔をした遠野がいる。我慢がならなかった。


「ゲンさんは黙っててください!」


思い切り眉間にしわを寄せながら声を出したら、思った以上の声量が出た。まるで怒鳴り声だった。


「そうやってしらばっくれる気なんですか」

怒鳴り声のまま、話しはじめると止まらなかった。


「何もなかったふりをしてやりすごすんですか? 家宅捜索までされたというのに? 社長を逃がしておけばなんとかなるだろうと? むしろそうやってひとりにだけ罪をなすりつけておけば自分は安全だからどうにかなるとでも思ってるんですか」


「……何のことですか」

気づけば遠野の目が見開かれていた。


「何もご存じないと」

優子は遠野を睨みつけた。


「家宅捜索とは」

「御社です。おめでとうございます、地面師さん」


そう言いながら優子は密かな快感を覚えた。自分の中に貯まった鬱憤をこういうかたちでまき散らすのはたいそう胸のすく思いがした。


「うちの藤田が何かしましたか」


遠野の顔がいつもより白いような気がした。何も知らないと言い張るつもりらしかった。優子の心のどこかが警報を出した。もしかしたら本当に身に覚えがないのかもしれない。しかし知ったことかと優子は警報のスイッチを止めた。どこまでが嘘でどこからが本当なのか分かったものではない。何度も逡巡して決めた。もうこの男のことは信用しないと。


「警察に行ってお聞きになるといいんじゃないですか。きっとお話しすることだってたくさんあるんでしょう」


優子は低い声で言った。俯くとゲンさんの大きな足が見えた。胸がちくりと痛んだが気づかなかったことにした。


「とにかくお引き取りください」


そう言って優子は自室に戻るために踵を返した。後ろでゲンさんが何か言っているような気がしたが聞こえなかった。雨の音が大きくなっていた。心の底から、もう二度と遠野の顔を見たくないと思った。

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