地面師 - 1
坂下さんが斡旋してきた猫五匹の庇護者は山田さんといった。きびきびてきぱきとした身のこなしが教師時代を思わせた。
保証会社は山田さんの審査をあっさりと通した。山田さんはスマートフォンも使いこなしているし、これから先は猫を増やさない予定だと話した。店子としては、何の問題もなかった。
これで二部屋の空きは埋まった。優子は心の底からほっとしたが、新たに気を引き締めるべきだとすぐに思い直した。遅かれ早かれ花輪さん一家が家を買って退居するはずだ。そのほかにも、きっと。
もろもろが片付いた週の終わりに優子は診察を予約していた。ずるずると先延ばしにしてしまっていた採血の結果を、いいかげん聞かなくてはならなかった。
病院はいつもより混み合っていた。うっかり土曜日の午前中最後の時間帯に予約を入れてしまっていたのだった。優子が診察室に呼ばれたころには正午をすでに回っていて、それでも予約なしの患者がぽつぽつと待合室の席を埋めていた。
驚いたことに血液検査の結果は「異常なし」だった。普段から鉄剤を飲んでいることもあり鉄の値は高いくらいだった。
「このまま鉄剤飲んでおけばとりあえずは大丈夫でしょう」
こともなげに主治医は言った。
労災によって離職を経験したことのあるものの例に漏れず、優子も退職前後は心療内科に通っていた。あまりにも全てのことに対してどうでもよさそうにしていたのを見とがめられて、周りが説得したのであった。
担当医のほうはあっさりしたもので、軽度の抑うつが見られるもののそこまで深刻ではないと答えた。しんどいときは飲んでね、と頓服的に処方された薬にも世話にはならないでここまで来ている。
だが優子は一連のできごとでここ最近神経を削られているのを自覚していた。体調が悪いのはもしかしたらメンタルの問題なのかもしれないと思いつつ、面倒だなあという気持ちも抱えていた。どうせ今から予約したところで診察してもらえるのは一ヶ月より後だろう。そのころまでには状況も変わっているかもしれないと思うと、まあ今度考えればいいやと後回しにしてしまうのであった。
駅から優子は歩いて帰った。数日ぶりに雨の降らない曇りの日だった。海を右手に見ながら海岸沿いの二車線道路を歩いていると、旧粟田さん宅の前に数名の人だかりがあった。歩道まで溢れている。優子は車の流れを見計らって海岸側に道を渡った。スーツ姿がふたり、スラックスの上に作業着を着たのがふたりであった。もしかして作業着のほうは役所の人間なのではないかと興味が湧いたので、優子は道路の反対側のほうへ耳を澄ました。
「これは確かにちょっと危ないかもしれませんね」
そう言う声が聞こえた。あまり見ているといかにも野次馬である。優子はできるだけ視線を粟田さんの家のほうに向けないよう注意しながらゆっくり歩いた。
「検査済証があるって話だったんですけど」
「あってもなくても、これは一度構造計算なさったほうがいいと思いますよ」
優子はほほう、と思った。ブローカーはともかく、購入した側はかなり良識的な業者であるらしい。しかし続く会話に思わず躓きそうになった。
「擁壁そのままで分譲して訴えられた判例とかあるんですかね」
「いやそこまでは、私たちはちょっと」
役所の人らしき困った声が聞こえる。優子は俯きながら眉をしかめた。判例がなければ何をしてもいいというのか。
「藤田は何か言ってたのそういえば」
やや年配らしき新しい声がした。聞き知った名前が出たので優子は再度耳をそばだてた。
「売主さんにだまされちゃったねえとしらばっくれてました」
「頑張ってるようだからと話を聞いたらこれだ、あいつももうだめだな」
「ボヤでも出れば火災保険下りるんですけどねとか言ってましたね。ろくでもないです」
まるで役所の人にわざと聞かせたがっているような、言い訳がましい内容だった。公道でする会話ではない。優子は眉間のしわを深めながら歩く足を速めた。これ以上聞いていると気分が悪くなりそうだった。
それから数日経った水曜日のこと、母屋で書類仕事をしていた優子のもとに一本の電話があった。父からである。珍しいと思って受けると、切迫した声が耳元で響いた。
「優子今どこにいる」
「母屋だけど」
「そうか」
「……何かあった?」
優子は眉をしかめながら尋ねた。そもそも今日は平日で、父は仕事中のはずである。様子がおかしい。
「今父さんのほうに警察が来ててな」
「何でまた」
「母屋がらみなんだけど今周りに変な人はいないな」
父の真剣な口調に思わず粟肌立った。スマートフォンを耳元に構えた右腕を左手でさすりながら優子は反射的に立ち上がり、掃き出し窓の鍵を閉めた。そのまま廊下を覗いて玄関ドアを確認する。こちらは母屋に入ったときにロックしてドアチェーンも閉めてあった。
「変な人ってどういうこと」
尋ねながら優子の脳裏には先日のやりとりがあった。変な不動産屋。ブローカー。売主さんにだまされちゃった。
「ちょっと父さんにも説明しづらいんだ」
父は電話口で口ごもった。
「優子のほうにも警察の人が行っていいかと言われてるんだけど」
「それは構わないけど」
父はつくばにいるはずだ。何が起こっているのかさっぱり分からない。
「ちょっと待ってて」
父はスマートフォンを離して電話口の向こうにいる誰かとやりとりしているようだった。くぐもった声が聞こえる。
「今からそっちの警察署の人が行くって。悪いけど三十分くらい待っててって」
父が電話に戻ってきた。
「分かった」
優子は答えた。そうは言ったものの頭の中は疑問符だらけだった。
優子がそのまま落ち着かない気持ちでそわそわしていると、果たして三十分ほどで目の前の道路にパトカーが滑り込んできた。優子は敷地入り口にあるガレージフェンスを開けるために立ち上がった。
背が高くて愛想の良いほうが高坂と名乗り、やや身長が低くてがっしりしているほうが長瀬と名乗った。スーツを着た、見本のようなふたり組であった。警察手帳を確認しながら、私服警官はパトカーに乗らない印象があったのになあと優子はよけいなことを考えていた。よけいなことを考えていないと思考がとっちらかりそうだった。
優子がふたりを和室に案内すると高坂が「さっそくなのですが」と切り出してきた。
「この住宅がなりすましによって虚偽の登記をされそうになりました」
「はい?」
優子は思わず素っ頓狂な声を出した。
「法務局の窓口で登記官がたまたま違和感に気づいて発覚しました。押し問答になっている隙に主犯格と思われる人物が逃走しまして、現在捜索中です」
「どういうことですか」
眉根を寄せた優子に対してこれまで黙っていた長瀬が口を開いた。
「地面師というのは知ってる」
一応疑問文であるらしい。優子は口調に若干の不快感を覚えながら頷いた。先日坂下さんにブローカーについて聞いて以来、優子も少し検索を重ねて学んだ。不動産ブローカーは売りたい人と買いたい人を引き合わせることによって収入を得る。これは宅建業者でなくても適法に事業ができる。ただし知識が必要なので宅建業者が行うことも少なくない。
このブローカーのうち、悪質なのが詐欺行為を行うと地面師と呼ばれる。ようはなりすましによって金銭をだまし取ることで、委任状を偽造したり、場合によっては大家のふりをする役者を雇うこともあるらしい。買う側がだまされて決済を行ってから発覚することがままあるという。
「危なかったね」
優子が理解していると見たのか長瀬は短く感想を述べた。
「父のなりすましがあったということですか」
「はい」
高坂が答えた。あまりにも現実味がなさすぎてどう反応を示せば良いのか分からない。結果優子は黙り込んでしまった。長瀬が咳払いをした。
「お父さんのほうにはうちから別の人間が行ってるんだけど、こっちでも話を聞かせてもらっていいかな」
優子は曖昧に頷いた。
「何でしょうか」
「最近何か変わったことは」
狐の話ばかりする不動産営業がいるんです。優子は思わずそう言いそうになった。頭が考えることを拒否している。それ以上先に進むのは非常に嫌な予感がした。
「たとえばどういうことでしょう」
「近所で何か、そうですね、揉めごとというかトラブルのようなものをお聞きになったりとかですかねえ」
優子の疑問に高坂が助け船を出した。つまり、この辺りですでに何かあった、もしくはあったかもしれないことを警察は把握していて、それと今回のことを関連づけたいと考えているわけだった。優子はぎゅっと唇を引き結んだ。そして言った。
「町内会のことに詳しい方に聞いたほうが正確かとは思いますが」
ブローカーが近所の土地を物色しているらしいことと、粟田さんの不自然な引っ越しについて優子は説明した。
「その、ブローカーをやっている会社というのはどこなんですか」
ひと通り優子の話をメモしおわった高坂が尋ねた。説明するより見せたほうが早い。優子は手元のノートパソコンで「Five Star Estate」と検索した。
「こちらです」
検索結果を見せると、高坂と長瀬が顔を見合わせた。その様子を見て再び嫌な予感が増した。左手で右腕を握りしめながら優子は尋ねた。
「どうかされましたか」
長瀬が表情を改めた。そして口を開いた。
「虚偽登記のために法務局に現れた集団のうち逃走したひとりと、この会社の社長の人相が非常によく似ているという証言があります」
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