ブローカー - 2

接客スペースの奥に給湯室があったはずだが今は使われていないようだった。プレハブ事務所に置くには少々立派すぎる木でできたデスクの壁際に電気ポットが備えられており、坂下さんはそこからこぽこぽとマグカップに湯を注いだ。マグカップの中身はインスタントコーヒーである。


坂下さんは慎重そうな身ぶりで応接セットにマグカップを二つ運んで座った。ずず、と茶を飲むように啜るとおもむろに口を開いた。


「近頃は耐震だ何だとうるさいでしょう」


坂下さんのこういうのは前説なのである。用件とやらにどう結びつくのかと優子は耳を傾けた。


「うちの大家もひとり古いアパートを取り壊すと言い出してね。売っちゃうみたいなんだよね、土地を」


「建てなおさないんですね」


優子は相づちを打った。坂下さんは頷いた。


「去年すごい台風があったでしょう」


優子は頷いた。西日本に大きな台風が上陸して住宅にも広い範囲で被害が出た。優子も屋根が飛ぶ映像を見て薄ら寒く思い、火災保険の有効範囲内を再確認したほどだった。


「あれでもう大家やるのやんなっちゃったんだって。子どもも家を継がないっていうし、もう死ぬ前に整理しちゃうんだって、終活っていうのかねえ」


「なるほど」


優子は言葉少なに頷いた。黙って聞いておくと老人の愚痴になりそうだと思ったのだった。


「それでね」


優子の思いが通じたのかどうか、坂下さんは少し身を乗り出してきた。


「アパートの人に退居のお願いをしているんだけどね、ひとりどうしても出ないのがいるのよ」


ここでだいたい話が読めた。耐震はまったく関係なかったなと優子は思った。店子を引き取れというのだろう。


「学校の先生をしていたんだけどね、おばちゃんがひとりでね、猫を五匹も飼っててねえ」


優子は思わず顔をしかめそうになって口元に力を入れた。優子は独身である。このまま数年すれば優子も「おばちゃんひとり」に該当するようになることをこの年寄りは分かっていて言っているのだろうかと思った。


「引っ越し先がないと言っているんですね」


思わず確認がぶっきらぼうになったのは許されるだろう。坂下さんは頷いた。


「もともとは秋田かどっかの人だって聞いてるんだけどね。山形だったかなあ、青森かなあ」


優子は口元に力を入れたまま視線で続きを促した。


「だれか保証人になる人がいれば引っ越しできますよって言ってるんだけどねえ、身寄りはいない、って一点張りなんだよねえ。そんなはずはないでしょう」


同意を求められても困る。「そんな」人も世の中にはたくさんいる。人がひとりで生きていく理由は星の数ほどあるのである。保証人が不在だというだけで住居選択の可能性が狭まる日本は、高齢単身者には生きづらい社会である。


「保証人がいても猫さん多頭飼いはどっちにしろ難しいんじゃないですか」


眉周辺以外の表情筋がどんどん稼働を停止するのを感じながら優子は言葉を継いだ。同意を求める問いかけは無視した。


「猫もねえ、どこかに引き取ってもらってもいいんだよ、って言ったら睨まれちゃった」


へへへ、と笑っている。優子は今度こそ顔をしかめるのを止められそうになく、俯いて大きく深呼吸した。


「構いません」


ため息とともに結論を吐き出した。


「そう? 保証人いないよ?」


坂下さんも聞きたいことは一つなのである。だったら頼むから用件から言ってほしい。


「保証会社を通すのも難しそうですか」


「どうだろうねえ」


坂下さんはテーブルの上に置いた分厚いファイルからいくつか書類を取り出した。保証会社の申込書である。


「ここはいつも使ってもらってるところね。たぶんだめ」


二枚目である。


「ここは家賃保証が長いのが魅力なんだけど。たぶんだめ」


三枚目がやってきた。


「ここは保証一年間。原状回復なし。外人さんも通してるからここなら行けるかもしれないけど、普通大家さんは嫌がるよ、この会社」


優子は眉根を寄せた。引き受けてほしいのかほしくないのか、態度を一貫させないのは一体どういう了見なのか。


「構いません」


「そう?」


坂下さんは優子の表情を窺うような上目遣いをした。年齢で言えば坂下さんはずっと上、しかし土地持ち物件持ちである以上取引上の関係性としては優子は顧客である。この辺りの微妙なパワーバランスに敏感なのが不動産屋らしい。悪い人ではない。悪い人ではないが、一言で言うと食えないのである。


「ちなみにおいくつくらいの方なんでしょうか。あ、年金があるかどうかが知りたいだけです」


性別と年齢に関するゴシップ的な話題は出してくれるなと念を押した。坂下さんは少し表情を改めて頷いた。


「正確には覚えてないけど私よりはちょっと下だよねえ。七十行ったかくらいじゃないかねえ」


「学校の先生って公立校ですか」


「うん。中学校。国語の先生。定年まで勤めたけどずっと平だったんだって」


そう言ってまた笑っている。実際に面白いと思っているのだろう。悪意がないのが余計にやっかいである。


「じゃあ年金は三階建てですね」


後半の話題を無視して優子は頷いた。年金生活者の場合、家賃が高額だと保証会社の審査が通らないことがある。しかし年金基金がある人ならしののめの家賃くらいはなんとかなるだろうと思われた。


「あと、猫さんなんですけど、増えたり減ったりは」


「ずーっと五匹。もう十年くらい住んでるけど、あの人が飼ってるのはずっと五匹よ」


「ホーダーというわけではなさそうですね」


わざとカタカナ語を使う意地悪くらいしてやろうと思うくらいには気持ちが疲れていた。


「ホーダーって何」


「飼えるか飼えないか判断できずに、見境なくペットショップで買ってきたり人から譲り受けたりしちゃう人のことです。でもその方は五匹という数にこだわりがおありなんですよね、きっと」


「そうねえ」


坂下さんは頷いた。


「猫は五匹って決めてるんだって前に言ってたねえ。死んだらまた一匹もらってくるんだって」


優子の脳裏にはひとり暮らしを貫き、心に決めた職業を定年まで勤め上げる、自立した、少々神経質そうな女性の姿が浮かんだ。一度決めたことをきっちりと守るタイプの人だ。ペットの頭数に制限がないあけぼの・しののめのようなアパートにとっては、恐らく理想的な店子だろう。


「今空室なのは一階の一室だけなので、念のため一度内見していただいたほうが良いかと思います」


優子は坂下さんの目を見て伝えた。


「うちはペットオーナーさんとのやりとりをスマホでやっているので、そのあたりも対応していただけるかどうか確認したいです。もし無理そうならほかの方法も考えますので」


飼い主会のグループチャットだけが問題だが何かやり方を考えようと優子は考えた。


「ありがとねえ。じゃあ一度日取りを調整するね」


坂下さんは満足気に頷いた。


「しかし学校の先生をやっているくらいだったら、現役のうちにマンションを買ったりもできたでしょうに」


ふとこぼれた疑問であった。坂下さんはにこっと笑った。その笑みは誰かを思わせるようなものだった。


「女の人がローンを通すのはちょっと無理だったのよねえ、昔はねえ」


坂下さんの好好爺めいた笑みと対照的に優子は眉間にしわを寄せた。


「働いていても」

「働いていても。一時金でまとめていっぱい払って、給料の口座を信金さんとかにしてればあるいはいけたかもしれないけどねえ」


優子は頭を振った。坂下さんの言う「昔」と現在は地続きでつながっている。そのことを優子はよく知っていた。坂下さんは優子の様子に構わず「じゃあまた電話するねえ」といいながら手帳を開いてメモを取っている。


用件は終わったかと優子は思ったが、手帳を閉じた坂下さんはソファに深く座り直した。そういえば「いくつか相談が」と言われていたのだった。


「あとこれはいますぐの話じゃないんだけどねえ」


優子は頷いた。


「今年いっぱいで引退しようと思うの」


坂下さんは「夏休みはグアムに行こうと思うの」とでも言いそうな表情で告げた。優子は少し目を丸くしかけたが、よくよく考えれば無理もないことだった。祖父は二年前に八十八で他界した。一回り以上離れているとしても、坂下さんもそれなりの年齢なのである。


「私も今年で七十五でね。後期高齢者ですよ」


目を瞬かせて笑ってみせる。この人はひたひたと迫り来る自分の老いにまだ納得していないのだろう。そう優子は思った。


「重説を間違えてもいけませんから。頭がぼんやりする前に店をたたもうかと思ってね」


優子は頷いた。契約にまつわるトラブルは金銭で解決するしかない場合も少なくない。老いによるミスは避けたいところだろう。


「大家さんに希望があるところは別として。ほかの物件はだいたい三谷さんに渡そうと思ってるんだけど、サカガミさんちはどうする」


サカガミというのは祖父の家の屋号である。優子が初めてそう呼ばれたのは祖父の葬儀の日のことで、人違いをしているのではないかと不思議に思った。それまでこの辺りでは祖父の家が屋号で呼ばれていることすら知らなかったのだった。坂の上に住んでいるからサカガミと、ある種おおらかな名付けである。ちなみに坂下さんは苗字も坂下なのだが、坂の上と下であまりにも似ている。もしかして数百年辿れば親戚筋なのではないかと優子は睨んでいる。


優子は首をかしげてしばし考えた。坂下さんが「どうする」と言ってくれるのは木浦のことがあるからだろう。現在はコンサルティングという形で関わってもらっているが、本業は不動産屋である。坂下さんの専任媒介が外れるのであれば最初に話を通すのが筋ではあるだろう。


「三谷さんって、駅前にもある会社ですよね」


優子の認識が正しければこの地域にいくつか店舗を持っている不動産会社である。地元の安定企業に引き継ぐということだろう。坂下さんは「そうそう」と頷いている。


「うちのコンサルは本社が横浜なので、今後仲介をお願いするとしても契約のために入居者さんにわざわざ足を運んでいただくのはちょっと厳しい気もしていまして」


優子の言葉を聞いて坂下さんは再び頷いた。


「相談して決めます。また改めてご連絡ということでも良いですか? 」

「もちろん。向こうさんの良いようにしてくださいよ」


これで話は終わりのようだった。優子が軽く腰を浮かせると坂下さんもゆっくりと立ち上がった。立ち上がった後踏み出す最初の一歩の慎重さに歳月が忍ばれた。


優子がドアへと背を向けようとしたとき、坂下さんが何やら口にするのが聞こえた。内容が聞き取れなかった優子は振り返った。


「どうかしましたか?」


坂下さんはデスクに手をかけて微妙な顔をして立っていた。ううむ、というような声の後に意外な質問が続いたので優子は眉根を寄せた。


「優子ちゃんは最近困っていることはない?」


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