ブローカー - 1

「リフォーム前で良いから内見したい」と申し込んできたのはオスの柴犬を飼う栗浜さんという人物だった。正確には施設に入ることになった祖母の柴犬をこれから引き取るのだという。現在住んでいる部屋はペットが飼えないため、とにかく引っ越しを急ぎたいとのことだった。犬は一時的に動物病院で預かってもらっているというのだから優子も急ぐ気持ちを理解できた。


栗浜さんとの話はすんなりまとまった。すぐにでも有休を取って引っ越してくるという。


そうして六月が過ぎた。雨はまだ飽きることなく降り続いていた。残りの空き部屋一室について再びリフォームを検討しはじめた途端、不動産屋の坂下さんから再び電話があった。「ちょっといくつか相談したいことが」という内容だったので、優子は坂下さんの店舗まで足を運ぶことにした。どちらにせよ近所である。


家を出ようと思ったときにチャイムが鳴った。ドアスコープを覗くと近所の人が立っている。顔も知っているし話もしたことがあるが、名前が思い出せない。


「こんにちは」


ドアを開けて挨拶した。優子は怪訝な顔をしていたのだろう。困ったように笑うと近所の人は言った。


「光丘と申します。粟田さんから班長を引き継ぎまして」


「そうだったんですか」


粟田さんは同じ町内の、少し離れたところにある家だった。敷地は海岸沿いの二車線道路に面している。ただ傾斜の強いところにある家なので、海側から見ると背の高い擁壁がそびえているのしか分からない。神社の側から裏道を回っていくと、敷地がかなり広いことが分かる。父が幼いころまでは農家だったと聞いている。


優子はその粟田さんの「お嫁さん」に小さいころ何度か遊んでもらった。お嫁さんとは言っても母と同世代だ。子どもがふたりいて、優子の二歳下と一歳上だった。


優子が引っ越してきてから粟田さんのお嫁さんとは二回ほど話をした。一回は最初の冬に、「おばあちゃん」つまり先代の奥さんが亡くなったとき。優子も通夜にだけ顔を出した。二回目は今年の頭。町内会の班長が回ってきたと言って、半年分の町内会費を回収していった。そういえば最近粟田さんの姿を目にしていないなと優子は考えた。


「粟田さん、どうされたんですか」


優子が尋ねると光丘さんはまた困ったような顔をした。


「お引っ越しされたの、知らないですか」


「知らないです」


思わず真顔で返事してしまった。この辺りではそれなりに古株の家だと思っていた。急に引っ越すとは意外である。


「マンションを買われたそうですよ」


「じゃあ、もとのおうちは」


優子が尋ねると光丘さんは少々うろたえたように口ごもった。


「お宅も不動産やってらっしゃるでしょう」


優子は頷いた。まさにその「不動産」の廊下に、今光丘さんは立っている。


「ちょっと変な不動産屋さんが最近いるらしいんですよ」


「変、ですか」


優子は軽く眉をひそめた。瞬間的に出てくる顔がある。遠野である。


「奥さんの様子を見るにねえ、ちょっとむりやり売らされたんじゃないかって、みなさんおっしゃってますねえ」

「それは何か、脅されたとか」


「噂ですよ、噂。ただ鈴木さんも土地をお持ちだから、お気をつけて」


ありがとうございます、と答えながら優子は釈然としない思いを抱いた。遠野の会社はサブリースを推しているようだったが、売買にも力を入れているのだろうか。もしそうだとしたら、変な業者とはもしかするのだろうか。


「それで、すみません、会費なんですが」


優子の眉間のしわに圧倒されたらしい光丘さんのおろおろ声で我に返った。


「すみません。半年分ですね」

「はい。ご実家のほうも一緒で良いと聞いたんですが……」

「はい、私が立て替えます」


立て替えます、に少し力を入れて優子は答えた。アパートは二棟まとめて一軒分。これは会社が払う。母屋のほうは本当は父が払うべきなのだが、遠方にいるため優子が立て替える。これがもう一軒分。ここの町内会は集合住宅には班長などの役職を回してこない。つまり優子はアパートに住んでいるかぎりは近所づきあいにあまり巻き込まれないで済む。もし仮に母屋に引っ越したら、やれ役員だやれ市の委託だと面倒ごとが降ってくるに違いなかった。


優子は光丘さんを見送ってから家を出た。少し時間を食ってしまったので坂下さんに遅れる旨電話をする。そのままちょっと遠回りして粟田さんの家のほうから坂下さんの事務所に向かうことにした。


海岸沿いの二車線道路から粟田さんの家の擁壁を見上げた。改めて見ると随分古びている。石積みのしっかりとした擁壁だったのだろうが、ところどころひび割れて雑草が生えていた。横から表面を見ると少し膨らんでいるような気がする。変形してきているのである。


あけぼのとしののめも、母屋のほうも、どちらも敷地の一部が擁壁になっている。坂の多いこの町では段差が出てしまうため致し方ない。ただ、こちらは両方とも一メートル程度の低い擁壁なので安全性が高かった。しかし粟田さんの擁壁は三メートルほどはありそうである。このまま使い続けていたらいつか土砂崩れの原因になるのではないかと優子は危ぶんだ。


そのまま少し坂道を上ると、敷地の一番高いところに門扉がある。ここから自動車も出入りするようになっている。優子が幼いころは木の古めかしいものだったが、現在ではアルミサッシに変わっていた。ぴっしりと閉ざされた門扉に「解体工事のお知らせ」という紙が掲示してあった。発注者欄にあるのは優子の予想に反して知らない会社名だった。門扉は優子の身長より少し高く、背伸びしても敷地内の様子はよく見えない。しかし庭木の見た目などから、最近までしっかりと手入れをされていたように思われた。雨戸のない窓を見ると、ガラスもきれいに拭いてある。きびきびと動くお嫁さんの姿が思い出された。総じて、退居を目前としていた家には見えなかった。


優子は首をかしげながら坂下さんの事務所へ向かった。光丘さんは「変な不動産屋」と言っていた。いつもにこにこしてしている遠野は変と言えば変かもしれないが、光丘さんの言いたかったことはそういう種類の話ではないのかもしれない。そもそも買った業者が遠野の会社ではない。どうやら何かがこの辺りで起こっていて、町内会に正式に関わっていない優子は蚊帳の外に置かれているというわけだった。


ちょうど優子が生まれたころは日本中が不動産バブルに沸いていた。ぎりぎり大都市圏に含まれるこの海辺の町も例外ではなかった。多くの農家が廃業し、数々の防砂林がなくなった。優子の祖父も土地を手放した地主である。


祖父は自らの両親が他界した途端にさっさと農家を廃業して土地の大半を売却した。現在防砂建物が建っているあたりである。残った土地にアパートを造り、アパートができたかと思えば母屋を建て替えた。納屋も潰して大きなガレージにした。モルタルを流したガレージの半分は大きな鶏小屋と化していた。祖父は時たま鶏を庭に放していて、うっかり鉢合わせた優子が雄鶏に散々追いかけられたこともあった。ガレージの残り半分には黒光りするクラウンがのっそりと納まっていた。ガレージのシャッターを開けた日当たりのいい場所にはいつも犬が寝そべっていたように思う。優子の物心が付いてからでも犬は三世代ほど交代したのではないだろうか。


農業を辞め、不動産収入によって人生の後半を長らえた祖父は果たして何によって充足感を得ていたのだろうかと同様の立場に立つことになった優子は考える。交友関係だろうか。自分より先に旅立ってしまう生き物たちだろうか。一回り若い祖母との生活にそれを見いだしていたのだろうか。


こんなことを考える理由はすでに分かっていた。遠野の存在だ。ほど良い経営状態の会社と、優子にとって快適な距離感の人間関係を手に入れてこの町に落ち着いたと思ったら、ライバル物件を携えて遠野という異分子が人生に割り込んできた。それだけで、こんなにも動揺している。世界に対する視野の狭さがまるで幼い子どものようで自分でも情けなかった。


今にして思えば、祖父は孤独な人だったのだろう。そう考えるのは投影であることを優子は自覚している。ある意味では不可抗力とはいえ、会社というコミュニティから飛び出して独立を望みながらも孤立を恐れている。


はっきり言ってしまうと、優子は祖父のことをよく知らない。長期休暇のたびに数日間滞在した小学生のころ、高校受験を頑張れと図書カードを送って寄越された中学生のころ、ほとんど干渉のなかった十代後半。何らかのまとまりのあるコミュニケーションを取る機会があった時代に優子はまだ幼すぎ、長じてはわざわざ祖父を知ろうとはしなかった。


優子のよく知らない祖父のことを、少なくとも優子以上には知っている人物のうちのひとりが坂下さんである。祖父と同様土地の人で、祖父より一回りほど若い。もとは親の代から行政書士だか社会保険労務士だかを営んでいたが、バブルの匂いを嗅ぎつけるや否や宅建士を取得してさっさと不動産屋に鞍替えしたと聞いている。祖父の土地をゼネコンに高値で売りつけたのも坂下さんであるから、優子の現在の生活は坂下さんによって支えられているといっても過言ではないわけだった。


坂下さんの事務所は優子が子どものころから変わらない。四十平米程度であろう室内は接客スペースと坂下さんの書斎に分かれている。昔はパートの事務員さんがいたような気がするが、今はいつ尋ねても坂下さんひとりだった。


「ごめんください」


優子が引き戸を開けるとがたがたと音がして書斎から坂下さんが顔を出した。


「いらっしゃい。わざわざすまないねえ」

昔より眉毛が豊かになった見慣れた顔に向かって優子は黙って頭を下げた。


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