タコの唐揚げ - 5
ふたり分が空いた炬燵布団がもそもそと動いてちゃーが顔を出した。ひげに寝癖を付けたまま、猫は優子のほうを見て「にゃー」と言った。
「お邪魔してますよ」
優子は返事をした。
ちゃーは立ったまま首をかしげて掃き出し窓の向こうを見ていた。しばらくして何をか納得したのか、尻尾を四肢に巻いて座った。
優子はその様子を見ながら、思わずずっと頭にあったことを口にしてしまった。
「あの後ちゃーは逃げ出す様子ありましたか」
「いや、ないね。二度目があったら困るけど」
ゲンさんは人が良さそうに笑っている。
「ずっと疑問なんです」
優子はゲンさんのほうに向き直った。
「エリさんいつもは窓を開けっぱなしで吸うじゃないですか。そのときだってちゃーが外に興味を示すのを見たことがないのに、どうしてあの日だけ脱走したんでしょう」
ゲンさんは優子の表情を見て怪訝な顔をした。
「優子ちゃん、やっぱりなんかあった?」
「やっぱり?」
遠野のこと以外で、ということだろうか。何かあったかと言われればいろいろあるような気もするが、どれか気取られることがあっただろうかと優子は考えを巡らせた。
「敬太くんにはたぶんキレてるんだろうと思ってたけど、それ以外にもなにかあったでしょ。まあ、言えないことかもしれないけどさ」
優子はゲンさんの顔をじっと見た。そして心を決めた。
「これは本当に他言無用でお願いしたいんですけど」
ゲンさんは真面目な顔で頷いた。
「勝手なこと言ってすみません。実は津久井さんが退居したの、長沢さんが勧誘したからじゃないかと思っていて」
「勧誘?」
優子は頷いた。
「蒼くんが二回目に脱走した日あったじゃないですか。私が引っかかれた」
ゲンさんは頷いた。
「そういえば傷はどう?」
「もう大丈夫です、ありがとうございます」
傷は少し大きなかさぶたのようになって、それが少しずつ剥がれはじめていた。優子は話の続きをすることにした。
「あの日の夜、長沢さんが津久井さんに引っ越しの勧誘をしているのを聞いてしまって」
「ああ、そういえばふたりで外に出て話してたな」
ゲンさんは頷いた。優子は黙っていた。結果的にゲンさんのことも盗み聞きしてしまったので少々ばつが悪かった。
「その話を聞いたときに、とうとう来たな、と思ったんです」
「来た?」
「もともとここ空室多かったじゃないですか」
「だね。家賃も安かったし」
ゲンさんは家賃が安い時代からの店子である。
「ちょっと手を加えて上手いことやってきましたけど、そうすると後からもっと良いスペックのライバルが登場して。遠野さんのとこです」
実際のところ、商売は何だってそうなのである。先進的なサービスも後発企業に追い抜かれていくことは珍しくない。流行で乱発されたサービスも、最初の熱狂が過ぎればどこかひとつにユーザーが収斂していくものだ。
「ここから先はこのままではやっていけないなということをずっと最近考えていて。ほんとはもっと早めに何か対策を打っておくべきだったんです。分かっていたけど、問題が目の前にやってくるまではまあ、いつかやろう、で終わらせてしまっていて」
「まあそんなもんだよなあ」
ゲンさんは腕を組んだ。
「あ、でも私が経営に失敗したとしても入居者さんには特に支障がないと思いますので」
優子は自分の言ったことの意味を考えて慌てて付け加えた。もし仮に優子が会社を倒産させたとしよう。会社の名義になっているあけぼのとしののめは競売にかけられるだろうが、落札した人は入居者を追い出すことができない。入居者は法律によってしっかり守られている。もし退居してほしいのであればきちんとした手続きを踏んで、相応の金を出す必要がある。それでも退居するかしないかは入居者の自由である。
ゲンさんは笑って頷いている。優子は小さくため息をついた。
「すみません、言ってどうということでもないんです。ただずっと最近頭の片隅にこのことがあって、何となく気が重いというか」
「うんうん」
ゲンさんは頷いた。
「俺はあれだけどね、何だかんだ言って優子ちゃんはきっと上手くやっていくと思うけどね」
優子は眉間にしわを寄せた。
「そうでしょうか」
労災とはいえ、結局仕事を辞めたまま会社員生活に戻ることを拒否してしまった身である。会社員時代は会社員であることが当たり前だと思っていた。その当たり前が、今はもう遙か遠いことのようだ。
「大切なとこで手を抜かないでしょ。そういう人は大丈夫だよ」
優子は少し俯いてゲンさんの言ったことについて検討してみた。大切なところ。それは当事者には分からないものである。過ぎ去ってみて、振り返ってみて、あああそこが分かれ道だったのだなと理解するものだ。
「まあ、あっちは海が見えるって点を加えてもやっぱ家賃が高いよなあ」
続くゲンさんの言葉に優子は首をかしげた。
「海、やっぱり見えるんですか」
海が見えるならどうして神社に海の写真を撮りになど来たのか。優子が遠野の言っていることを怪しいと思った、そのきっかけが眺望だった。
「あ、そう聞いてる」
ゲンさんの訂正にとりあえず頷いた。
そんなことをつらつら考えていると、ゲンさんが「話を戻して悪いけど」と言った。
「しかし下浦さん、鍵をかけてなかったってこと?」
優子は顔を上げてかぶりを振った。
「鍵はかけていたそうです。かけたことを毎日確認してから出かけると言っていました。さすがにそこは嘘をついていないと思います」
「じゃあ開け方を学んでしまったか」
「それが」
優子は言いよどんだが続けた。実はちょうど昨日その話を下浦さんとしたばかりだった。
「下浦さん、二回目の脱走のあと二重ロックを付けたと言っていて。てっきり全部屋に付けたんだと思っていたらベランダの掃き出し窓にしか付けていなかったと」
「そういうとこ抜けてるんだな」
ゲンさんが感心したように言った。失礼ながら優子も同感であった。
「でも掃き出し窓に二重ロックを付けて以来、蒼くん脱走していないんです。ほかの部屋の窓も鍵は全部同じなのに」
「掃き出し窓より届きやすそうな窓もあるもんな」
「そうなんです。台所の窓とか小さい猫さんでも窓台に上ればらくらく手が届くじゃないですか。でも開けない。どうしてなんだろうって、気になっていて」
「でもまさか外から誰かが逃がしたわけでもないんでしょ」
優子は思わず唇をきつく結んだ。そのことについては、非常にゲンさんに言いにくいものがあった。ちらりと掃き出し窓の外を見ると、ちょうど遠野が二本目に火を付けているところだった。優子は軽く息を吸い込んで、ゲンさんに向き直った。
「蒼が脱走した一日目なんですけど」
「うん」
「私がちょうど脱走に気づいたとき……帰宅したときに、遠野さんが敷地内にいました」
ゲンさんの目線が一瞬泳いだ。
「たまたまだとは思います」
優子の声色が硬くなった。
「ただ、ちゃーを見つけてくれたのも遠野さんでしたね」
ただの言いがかりだろう、さっき和解したばかりじゃないかと心のどこかで声がする。一方で、いやいややはりあいつは怪しい、どこまでが本当でどこまでが嘘か分かったものではないではないかという意見も聞こえる。
ゲンさんがため息をついた。
「優子ちゃんが蒼に引っかかれたほうの日なんだけど」
「はい」
「俺ね、あの日敬太くんとあそこのマンションで待ち合わせしてたの」
優子は思わず俯いた。ゲンさんは重い口ぶりで話し続けた。
「もともとちょっとした約束があったんだけど、敬太くんがどうしても一度マンションに寄らなきゃいけなくなったって言うもんで」
「それで、中を見たんですね」
「ちらっとね。二階から上は、確かに海が見えたよ」
優子は引き結んだ口の裏をぎゅっと噛んだ。きつね浜に行った日、ゲンさんは遠野のことを「何回か店に来た」と言った。しかし本当はもっとずっと親しくなっていたのだ。しかもマンションからは海が見えたという。やはり神社まで眺望の写真を撮りに行く必要など、遠野には全くなかったのだ。ではなぜ。
優子の頭の中には疑問や疑念が渦巻いていた。しかしいざ口を開こうとすると、何をどう言えばいいのかよく分からなかった。
「ちゃーのことは、実は俺もずっと変だなと思ってた」
しばらくの間ののちに発せられた言葉に、優子は少し驚いてゲンさんを見た。体格の良いゲンさんが下を向いていた。
「それはつまり」
「ちゃーは確かに今までずっと外に興味なんか見せなかった。俺うっかり玄関ドア開けたままゴミ出しに行っちゃった日もあるんだよ。そのときはちゃーは家の中で待ってた」
「疑っていた」
優子は呟いた。誰を、とは言わなかった。
「……としか言いようがないよな。ただ根拠がない」
ゲンさんは顔を上げて困ったように笑った。
「今はどうなんですか」
優子の問いにゲンさんは曖昧に首を振った。笑みはすぐに消えた。
「今もそうだと言えばそうだけど、違うと言えば違う。すごく単純に言うと、そういうことを考えてる自分に嫌気が差してきた」
「そうですか」
優子は呟いて頷いた。その気持ちも、分からないではなかった。
がらりと窓が開く音がして、エリさんのはじけるような笑い声が聞こえた。室内に入りながら遠野に何か言っているようだった。
「ごめん、俺もこれは他言無用で」
笑い声に引き戻されるように表情を戻したゲンさんが眉を下げて笑ったので、優子は再び黙って頷いた。
ダイニングキッチンから戻ったエリさんは四人分のグラスに白ワインを注ぎながら言った。
「げんたろうも墨吐かれたんだって? 」
ご機嫌のエリさんが何を言っているのか分からずに優子はゲンさんを振り返った。ゲンさんは笑いながら頷いた。
「さっき話した抵抗が強いタコにね」
優子に向けた説明である。
「墨吐かれたの。ふたりとも見事にぶっかかってシャワー浴びたり着替えたりしてたら遅くなった」
「墨」
優子は顔をしかめた。予測しようがないだけに防ぐのも難しそうな攻撃である。
「きつねマン、釣りに行ったにしてはおきれいなかっこしてるなと思って聞いてみたらお着替え後だったわ」
エリさんの弁である。
「まあしかしあれだよね、同じ墨でも墨汁かぶるよりはましだ」
続くエリさんの発言で優子はさらに難しい顔になった。
「墨汁かぶるってどういうことですか」
「小学生として生きていればそういうこともあるべ」
「ないです」
思わず即答した。どんな小学校生活をしていれば墨汁をかぶるというのか。ゲンさんも不思議そうな顔をしていた。
「僕はありました」
そこに涼しい顔で遠野が参戦してきた。
「あるよねー」
エリさんは含み笑いをしている。
「それってもしかして」
言いかけてゲンさんが言葉を切った。
「いや、なんでもない」
その様子で優子は気づいた。墨汁を「かぶる」というのは正確な表現ではない。恐らくそれは「かけられた」であったのだろう。
しかし経験者のふたりは特にそれについて詳しく言及する気もないらしくワインに口を付けはじめている。何となく感じてしまった気まずさを振り払うように優子もグラスを傾けた。
その日開けたばかりの白ワインはいつしか空になり、エリさんは非常にご機嫌な表情で玄関をまたいだ。四人の中で一番量を飲んでいたはずなのにふらつくところがないのはさすがであると優子は変な感心の仕方をしていた。
「ごちそうさまでした」
優子は室内のゲンさんを振り返って右手に持ったフリーザーバッグを振った。中には茹でダコの足が二本入っている。
「そのまま冷凍できるからね、食材ないときに使って」
一般的なひとり暮らしの生態を見抜かれている。見抜かれた優子はしかつめらしく頷いた。
「ほいじゃおやすみー」
エリさんが手を振った。その後ろには遠野が静かに立っている。玄関ドアが閉まったのを見届けてから歩き出した。一般的なアパートの敷地内なので、優子が上るべき階段までの距離は数十メートルもない。
普段たいして飲まない度数の強い酒を飲んで、優子は少しふわふわとした気持ちを味わっていた。そのままふわふわと、口が動いた。
「遠野さん」
少し前を歩いていた遠野が微笑みながら振り返った。
「はい」
「どうして私にきつね浜の話をしたんですか」
そのときはいきなり思ってもいない人物に会ってしまった居住まいの悪さに気を取られていたが、改めて思い返すと唐突な昔話であった。優子は階段の手すりに右手をかけた。少し足下が浮くような心持ちがした。
「それは」
遠野は少し俯きながら口を開いた。続いた言葉は優子にはこう聞こえた。
「鈴木さんがお殿様だからですよ」
酔いのせいか内容が頭に入ってくるのに少し時間がかかった。お殿様、という言葉にようやく意識が引っかかったころには、遠野は頭を下げてアパートの敷地から出ようとしていた。エリさんののんびりとした声が別れを告げていた。
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