タコの唐揚げ - 4
「結局今日は剱崎に?」
お猪口に日本酒を注いだのを合図に、四人はタコ飯以外の皿に取りかかった。刺身のこりこりとした歯ごたえを優子が楽しんでいるとエリさんが問いかけた。ゲンさんはおう、と返事をした。
「磯釣りはメジナ狙いの人が多かったな。撒き餌のおかげでタコも寄ってきてたのかもしれん」
「雨の中なのにみんな好きだよねー」
「さすがにちらほらしかいなかったけどな。そうそう、隣にいた爺さんがさ、敬太くんを気に入っちゃったみたいで」
「ほう」
エリさんが日本酒を手酌しながら適当な返事をよこした。
「剱崎がどうして剱崎っていうか知ってるかー、って。エッさん知ってる? 」
「剣放り込んだんだべ」
あまりにもそのままな回答に優子は眉根を寄せてゲンさんを見た。
「あ、いや実際そうらしいのよ」
「全然意味が分かりません」
優子は正直に答えた。
「昔々剱崎には龍神が住んでいて、一度怒ると手の付けようがなかったと。あるとき神社の人が剣を海に投げ入れると、それ以降海が荒れることがなくなったってその爺さんは言ってた」
「なんで剣なんでしょう」
「龍が持ってるのって珠じゃなかったっけ」
優子とエリさんが同時に首をかしげた。洋の東西を問わず龍には手足が付いているようだ。剣を持とうとすれば持てないこともないだろうが、龍の一生において剣が必要になる局面があるとも思えなかった。
「なんでだかは知らないけど、わりと海に剣投げがちだよね昔の人」
エリさんが適当なことを言っている。
「何ですかそれ」
「近くて有名なとこだと稲村ヶ崎とかさ。剣投ぜし古戦場」
優子はさらに眉間のしわを深くした。
「知らんか、唱歌鎌倉」
「大卒ですけど知りません」
「根に持つなよ」
まるで子どもの喧嘩になってしまった。
「稲村ヶ崎っていったら今日も雨じゃないの」
ゲンさんもゲンさんで話を混ぜ返している。
「新田義貞ですね」
「それ!」
エリさんがビンゴー、と言っている。微笑みながら答えた遠野が正解だった。
「解説をお願いします」
優子は根負けして言った。このままだと話題がずっとあさっての方向に飛んでいきそうである。
「新田義貞は鎌倉幕府終わりから南北朝時代の武将です」
イントロダクションから始まる遠野の解説を優しく感じるくらいには今日ここまでの会話はしっちゃかめっちゃかであった。
「朝廷の命を受けて鎌倉討伐に向かった新田は海岸沿いに攻略するルートを選んだようです。しかし岬になっている稲村ヶ崎の海が荒れていて通ることができなかった。剣を海に投じて龍神に戦勝を祈願したところ海が鎮まって鎌倉に入ることができたと言われています」
「つまり龍神は剣をもらうと喜ぶわけですね」
自分でも雑な感想だと思った。なにぶん知識がないので致し方ない。
「先日も鈴木さんには八岐大蛇のお話をしましたが」
遠野の目がこちらを向いたので頷いた。鯖の塩焼きの日である。頭が分かれるか尻尾が分かれるかという話であった。
「八岐大蛇から出てきたのが天叢雲剣、つまり三種の神器に数えられる草薙剣です。龍神と大蛇を同様のものと考えるなら、剣に龍神を投影して見るという習慣は古くからあったのかもしれません」
遠野は言い切って日本酒を飲んだ。色が白いのは酒を飲んでも変わらないのだなと優子は変な感心の仕方をしていた。
「ん」
エリさんが何かに思い当たったようだった。
「草薙剣って日本武尊だよね」
「はい」
タコの唐揚げをつまもうとした箸を止めて遠野に確認している。
「日本武尊といえば弟橘媛」
「おとたちばなひめ」
知らない単語は復唱する優子である。
「美術館あるべ」
エリさんの話題はすぐに飛ぶ。
「市の美術館のことですか」
海沿いに建つ洒落た建築の美術館である。付属のレストランが人気と聞いた。
「そうそう。あのあたりにね、日本武尊が舟に乗ってたら嵐で難破しそうになって、同行していた弟橘媛が身を投げて海を鎮めたっていう伝説があるのよ。なんだ、日本武尊なんだから草薙剣投げれば一発だったんじゃん。剣の代わりに人間を犠牲にしやがったんだな」
エリさんはこれだからお貴族様は、などと憤慨している。そこそこ酒が回っているようだと優子は思いながら、浮かんだ疑問を口にした。
「話は戻るんですけど、三種の神器って剣と、鏡と、勾玉でしたっけ」
「天叢雲剣、八咫鏡、八尺瓊勾玉」
遠野は歌うようにすらすらと名前を出す。
「龍が持ってる珠っていうのは、勾玉ではないんですよね」
「宝珠と言われるものですね。インド発祥で仏教を経由して今の形になっていると考えられます」
遠野は首をかしげて少し微笑んだ。相変わらず考えが読めない笑みだった。
「勾玉と宝珠は同じものではないんですよね」
もしかして龍は三種の神器を集めているのではないか、ふとそんなことを考えたのだった。発想そのものに漫画の影響が大きいことは認めざるを得ない。
「擬宝珠(ぎぼし)はお分かりになりますか」
優子は眉をしかめながらも頷いた。
「欄干に乗ってるやつですね」
「はい。擬宝珠、宝珠を擬したもの、ということであれが宝珠の形と言われています。つまり先のとがった球形です。勾玉に似ていると言われれば似ているかもしれません」
「なるほど」
優子は唐揚げを口に入れながら遠野の回答を反芻した。
「つまり剣を投げてもらった龍は宝珠と剣を片手ずつ持ってんのか。あとは鏡でコンプリートだな」
ゲンさんも優子と似たようなことを考えていたらしい。
「どうせ全部集めてもギャルのおパンティ降ってくるだけじゃん」
エリさんまで乗ってきてしまった。こうなってくるとさすがに恥ずかしさが勝った。コメディとしても落とし方が今となっては前時代的に過ぎる。いい大人が集まって何をやっているのだと頭を抱えそうになったタイミングで遠野が口を開いた。
「剣と宝珠を両方持つ図像というのは実はそう珍しくありません」
間に挟まった話題を全く関知せず、ゲンさんの発言冒頭にのみ答えた形である。
「例えば荼枳尼天はもともと密教とともに日本に伝来しましたが、現在ではしばしば稲荷神と習合しています。図像としては狐に乗り、左手に宝珠、右手に剣を持った姿で描かれます」
「お、さすがきつねマン狐に詳しいな」
エリさんがすかさず茶々を入れる。
「狐とは因縁浅からぬ間柄なもので」
遠野は相変わらず正体不明に微笑んでいる。優子は因縁浅からぬ、という発言の趣旨が気になったが、尋ねても恐らく返事はもらえないだろうと直感した。その代わり別のことを質問した。
「だきにてん、ということは女性なんですか」
「女性の形で描かれます。もとはインド土着の女神であったようです」
遠野は頷いた。
「女形の仏教神としては七福神にもなっている弁財天が有名ですが、荼枳尼天は弁財天からその姿を借りているという説もあります」
「借りている?」
「荼枳尼天が狐とセットで描かれるように、弁財天は長らく蛇とセットで描かれてきました。頭に蛇を載せた宇賀弁財天などもあります」
「宇賀って宇賀神の宇賀ですか」
優子の同級生には宇賀神さんがいた。当然ながらあだ名は「神」であった。本人もまんざらではなさそうだった。
「そうです。鈴木さんは北関東のご出身ですか」
「つくばです」
遠野は頷いた。発言内容から出身地を当てるのが歴史マニアなんだなと優子は思った。
「宇賀神って何?」
ゲンさんは馴染みがないらしい。
「北関東に多い名字ですが、もとを辿ればその名も宇賀神という信仰対象があります。体が蛇で頭が老人の形をしています」
「へえ」
興味を惹かれたらしいエリさんがスマートフォンを手に取った。検索結果を見てひとりで笑っている。優子はその言わんとするところがだいたい想像できたので震える頭頂部を睨んだ。
「宇賀弁財天は頭に宇賀神を頂いて手に剣と宝珠を持ちます。この形が荼枳尼天にコピーされて今に残っている可能性があります」
「え、それって頭に巻き」
黙っていられなくなったらしいエリさんを黙らせるために、優子は唐揚げを箸で取ってその口の中に突っ込んだ。ついでに強く睨みつけてやった。
エリさんはふがふが言いながらきょとんとしているゲンさんにスマートフォンを手渡した。一目見て何が起こっているのか理解したゲンさんも吹き出した。優子は思わず額に左手を当てた。
「さすがに現代の荼枳尼天はそういう頭頂部をしていないですが」
遠野はゲンさんの手元にあるスマートフォンをちらりと見やった。優子のほうに向き直って少し笑みを深くした。
「蛇の意匠が別の場所に残っている図像も多いはずです」
「別の場所?」
「周囲に装飾的に描かれていたり、狐に絡みついていたり」
優子はその状態を想像してみた。宗教画に意味のないものを登場させることはあまりないはずだ。
「つまり、狐と蛇には密接な関係があると」
「はい。どちらも農耕に関係する土着の信仰対象としてかなり早い時期から習合していた可能性があります」
「ということは龍神と狐も無関係ではない?」
剱崎の話を思い出したのだろうゲンさんが尋ねた。
「常に蛇イコール龍神イコール狐の図式は描けないと思います。ある程度重なってくる部分はあると思いますが」
「部分集合ですね」
優子は納得した。
「しかし龍は普段から珠を持ってるけど、狐が何か持ってる絵って見たことないな」
ゲンさんは首をかしげている。
「あ、でもこの荼枳尼天狐に珠をくわえさせてるよ」
唐揚げとの戦いから戻ってきたエリさんがスマートフォンで画像を表示させながら言った。剣と丸い輪のようなものを持った女神が白い狐に騎乗している。狐の四肢には蛇が巻き付いていた。そしてその口には確かに丸いものがあった。
覗き込んだ優子の頭上から遠野の落ち着いた声が聞こえた。
「原元さんから殺生石の話を伺いました」
目を上げると整った顔が近くにあったので優子は反射的にのけぞった。のけぞってからやや気詰まりに感じて瞬いた。気分を害した様子もなく遠野はにっこりと微笑むと言葉を続けた。
「三浦介と上総介が玉藻前を斃した後、霊が凝り固まって殺生石となりました。後に玄翁によって破壊されます」
優子は頷いた。
「その先というか、玉藻前のその後はご存じですか」
「その後があるんですか? 」
質問に質問を返すかたちになってしまった。
「尾ひれのようなものなので複数のパターンがありますが、有名なものを選ぶとこうなります」
遠野は指を一本立てた。
「狐の腹からは仏舎利が出てきた。これは玉藻前を寵愛した鳥羽上皇に献上されました」
「仏舎利って骨でしたっけ」
「仏陀の遺骨ですね」
優子は顔をしかめた。遺骨をありがたがるとは趣味が悪い。遠野は構わずにもう一本指を立てた。
「尻尾からは紅白の針が出てきました。これは上総介が受け取りました。そのうちの一本は巡り巡って源頼朝に渡ったとも言われています」
紅白の針とはどういうものなのか想像がつかなかったが優子はひとまず全部聞いてみることにした。
遠野は三本目の指を立てた。
「額からは昼夜光る白い玉が出てきました。これは三浦介が受け取りました」
「荒次郎のご先祖様が」
「そういうことになります。残った狐の遺骸はうつぼ舟に乗せて海に流されました」
「どういう意味なんでしょうか」
優子は首をかしげた。
「玉藻前はなぜ権力者に近づくのか」
遠野は微笑みながら優子を見た。
「権力が欲しいから」
そのままの回答である。しかし遠野は満足気に頷いた。
「玉藻前が国盗りの伝承だとすると、玉藻前の遺骸を分けあったのは権力の分散と読めないでしょうか」
「鳥羽上皇って院政の人でしたっけ」
中学日本史の確認である。
「名実ともにときの最高権力者です。上総介と三浦介は朝廷に仕えたのち、源頼朝につきました。それぞれ子孫が鎌倉幕府の重鎮となっています」
「鳥羽上皇が持っていた強い権力が少しずつ削がれていったのを九尾のきつねに仮託しているということですか」
優子の確認に遠野は頷いた。
「昼夜光る玉って便利そうだなあ」
ゲンさんがのんきな感想を呟いた。優子は玉について想像した。自ら光る丸い玉を持ち歩いていたら、それだけでも目立ちそうである。
「その玉は代々三浦氏に引き継がれたりしたんでしょうか」
優子はエリさんのほうを向いて質問した。エリさんは首をかしげている。
「玉ねえ。初めて聞いたなあ。三浦氏とは直接関係なくできたお話なんだろうね、玉藻前」
「実在はしない概念みたいなもの、権力の象徴だってことですね」
優子は頷いて、「概念」という言葉も以前遠野が使っていたことを思い出した。
「荼枳尼天と狐の関係性を念頭に置くと、白い玉は宝珠、紅白の針は剣に見立てることもできるかもしれません」
遠野が別の解釈を示す。
「いろんなものがごっちゃになって信仰や伝承が生まれてるわけね」
エリさんが頷いた。
「ちなみにさ、うつぼ舟ってなんなん」
そう尋ねたのはゲンさんである。
「うつろ舟とも言います。各地の民間伝承に残っているUFOのような謎の乗り物で、女性を乗せて海岸に漂着します」
「その謎の乗り物をどうにかして作って狐を乗せたと」
「え、それってさ、またどっかに漂着して最初からやり直しになるパターンじゃん」
エリさんが騒いだ。優子は首をかしげた。
「どういう意味ですか」
「狐をうつぼ舟に乗せて流します、流れたうつぼ舟はまたどこかに漂着します、開けると女の人がいて朝廷へ、以下ループ」
「なるほど」
突拍子もない発想だがそもそも九尾のきつね自体が突拍子もないのだから今更である。優子は頷いて唐揚げをつまみ上げた。食べる前は山盛りだと思ったがもうだいぶなくなっている。サラダも刺身も皿の底が見えていた。
「あ、日本酒終わった」
エリさんが呟いた。
「白ワインならあるぞ」
「いただいてもいい? あ、自分で取るよ。冷蔵庫?」
言いながらエリさんが立ち上がった。
「取るついでにちょいと一服してきますわ」
そう言ってベランダのほうに向かう。すると遠野が無言で立ち上がった。胸ポケットに手を入れるような仕草をしてスーツを着ていないことを思い出したらしい。部屋の隅に置いてある黒い鞄からポーチを出した。
「遠野さんも吸うんですね」
少々意外に思って優子は口にした。
「不動産屋なので」
遠野は微笑むとエリさんの後を追って掃き出し窓を開けてベランダに出て行った。遠野がぴっちりと窓を閉めるのを優子は見ていた。
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