タコの唐揚げ - 3
その直後、エリさんが賑やかに戻ってきた。
「すまん、しゃもじが月よりも遠いところにあって遅くなった」
「何じゃそりゃ」
ゲンさんが苦笑しながら後に付いてくる。ふたりはタコ飯の入った茶碗をそれぞれ両手に持っていた。
「ありがとうございます」
微妙な空気感から何とか脱出した優子は差し出された茶碗を受け取った。もはや机上に場所がない。左手で持っているしかなさそうだった。
「乾杯、っていきたいとこだけどみんな手が塞がってるし、とりあえずおゆうが餓死する前にタコ飯だけ食べよう」
優子は思わずエリさんを睨みつけたが、本人はひょうひょうといつもの場所に着座している。ゲンさんも座ったので、優子の正面に遠野が座ることが確定してしまった。
「いただきまーす。げんたろうときつねマンありがとう」
未だに慣れないわりに心から離れない遠野のあだ名に思わず茶碗を取り落としそうになりながら、優子も小さく「いただきます」と呟いて箸を手に取った。
何気なくタコ飯を一口含んで、思わず深呼吸した。レトルトの素で作ったタコ飯なら何度か食べたことがあった。しかしこれとはふくよかさが違う。タコは確かにとても弾力があり、奥歯で噛んでもはじき返してくる力強さがあった。もう一度噛むとじわっとうまみが染みてくる。ほのかに香る醤油にもよくあっていた。
黙々と咀嚼しては口に運びを繰り返して、気づけば茶碗の残りが半分以下になっていた。優子ははっとして手を止めた。このままではエリさんの推測が正しかったことを自ら証明してしまう。気恥ずかしさがあったが、美味しいものは美味しかった。
ふと左側を見ると、エリさんと遠野が何やら言葉を交わしていた。自分が注目されていないことに安心した優子はゲンさんに声をかけた。
「美味しいです」
「良かった良かった」
ゲンさんは眉毛を下げて笑っている。その様子に少し安心感を覚えた優子は尋ねてみた。
「タコ、何匹くらい釣れたんですか」
「でかいのが四匹。いつになく大漁だったね」
「タコってあまり釣れないんですか」
「貼り付くからね」
ちょっとの間ゲンさんの言わんとするところが理解できなかった。優子が首をかしげるとゲンさんが説明を加えてくれた。
「釣り針にかかったとしても手近な岩に貼り付いて抵抗するの。そうすると後は綱引き、根比べ」
「頑張れば引っこ抜けるんですね」
『大きな蕪』のような感想になってしまった。ゲンさんは破顔して言った。
「何度釣っても根掛かりと区別が付かないね」
「根掛かり」
「地球を釣るってやつ。岩とかに針が引っかかっちゃうこと」
「なるほど」
優子は米の間に見え隠れしているタコの切り身を見つめた。タコにはタコの事情があるのである。
「今日は午前中で二匹釣れたからもう一匹釣ったら終わりにしようかって言ってたんだけど、ふたりとも同時にかかっちゃってね」
「それで四匹になったんですね」
優子は頷いた。ゲンさんはふと伸びをした。さっきは長袖のカットソーをまくって作業していたがいつの間にか下ろしている。それを見て優子はゲンさんと遠野の肌に赤い斑点が付いていたことを思いだした。
「ゲンさんのここもタコに貼り付かれたんですか」
ここ、と言いながら箸を持った右手で左肘の内側を指した。行儀が悪い。茶碗を置く場所がないのでやむを得ない、と自分に言い聞かせた。
「そうそう、台所に出してからすごい抵抗してくるのが一匹だけいて。シンクに貼り付く、俺らに貼り付く、壁に貼り付く」
修羅場である。優子は思わず顔をしかめた。ゲンさんはそれを違ったふうに受け取ったらしい。
「ごめんね、なるだけ匂いは取るけどもし残ったら敷金から引いていいから」
「ああ、そうじゃないです。単に修羅場だなって思っただけで」
優子は慌てて訂正した。なるほど、とゲンさんは頷いた。
ゲンさんはもう十年ほどあけぼのに住んでいる。壁紙は祖父が以前に張り替えたかもしれないが、床や水回りは竣工時のままのはずだ。畳の表替えもしていないだろう。よっぽどの過失がないかぎり退居時に請求するべき修理費用はないと優子は思った。むしろほかの部屋をどんどんリフォームしているなか、ゲンさんの部屋だけずっと古い内装のままなのが心苦しいくらいだった。
「あ、でも俺出て行く予定はないからね。優子ちゃんが管理してるかぎりずっといるから」
ゲンさんはにやりと笑って言った。
「それは、ええと、ありがとうございます」
大家代行としてはありがたいかぎりである。しかし単に客として言ったわけではないことは優子にも分かった。これは友人からのエールである。わざわざ口に出すゲンさんの優しさが染みた。認めたくはなかったが、ライバル物件に入居者をほいほい引き抜かれてそれなりに参っていた。ゲンさんに気づかれるくらいには。エリさんだって本当は分かっていて、あえて今日のように振る舞っているのだろう。優子は認めざるを得なかった。
「あ、あたしもあたしも。おゆうがいるかぎりとは言わないまでもお嬢がいる間はいるから」
エリさんがいきなり会話に乱入してきたので優子は反応に困った。感傷的になっている最中なので多少遠慮というものが欲しかった。
「ということで。敬太くん、ちゃんと話した?」
ゲンさんがまた笑った。
「けいたくん」
「誰」
発言の内容に対して優子とエリさんが反応したのは同時であった。とはいえゲンさん、優子、エリさん以外の人間といえばこの場にはひとりしかいない。遠野である。自然とふたりの視線が遠野に集まる。遠野は澄ました顔でタコ飯を咀嚼していた。
「きつねマンは敬太っていうのか」
「え、なんでふたりとも知らないの」
ゲンさんは逆に困惑している。
「それはね、君以外は名刺をもらっていないからだよ」
エリさんが偉そうに解説をした。ゲンさんはそっか、と頭を掻いている。
「謝罪させていただきました」
嚥下した遠野はまたいつもの微笑みを浮かべて頷いた。優子もゲンさんを見て黙って頷いた。感謝の気持ちだけぐっと込めた。またお礼しなければいけないことが増えてしまったなと心の中で呟いた。
「敬太ねー。意外なような、わりとしっくりくるような」
エリさんはひとりでぶつぶつ言っている。
「本名も分かったことだし、あの変なあだ名やめない?」
ゲンさんも優子同様きつねマンになじめないらしい。
「そうねえ。敬太、けいた、けっけ」
ゲンさんがむせた。
「え、なんかげんたろうタイミング悪くない? こないだもご飯食べながらむせてなかった?」
誰のせいだと優子は心の中で思いながら新たなあだ名を呟いた。
「けっけ」
エリさんの思考回路をどう受け止めれば良いのか分からない。
「いやちょっと待て、イケメンからのきつねマンときてけっけって、センスがどんどん幼児退行してるだろ」
ゲンさんが咳き込みながら突っ込んだ。優子も全く同感であった。
「イケメン?」
しかしけっけと呼ばれた当人はあさっての方向に困惑しているようだった。表情筋の力が抜けて無防備に見えた。
「所作が完璧なイケメンスーツが猫探しを手伝ってくれたって最初におゆうから聞いたからさ」
遠野が当惑していることに当惑したようにエリさんが答えた。
「実際見てみてもイケメンだったけど、初対面で営業してくるやつはうさんくさすぎる。イケメンと秤に掛けても君は別方面のアクが濃い、癖が強い。だからそのアクに見合うだけのあだ名がふさわしい」
「そうですか」
遠野が納得したので優子は眉をしかめた。随分酷い言いようではないか。
「今のエリさんの説明のどこに納得できる要素があったんですか」
「いえ、あまり容姿を褒められたことがなかったもので」
「へ」
三人とも間抜けな声が出た。人によって好みはあるだろう。しかし顔のパーツのバランスがよく対称であることを顔立ちが整っているとするのであれば、遠野のそれは間違いなく是であった。
それで容姿を褒められたことがないとはどういう環境に身を置いてきたのだという無言の疑問を三人から一身に受けているはずの男はいつも通りにっこりと微笑んだだけだった。これ以上話す気はない、と優子は受け取った。
しばしの間沈黙が降りた。優子は小さく咳払いをした。
「エリさん、お酒飲みます?」
「飲みまーす!」
元気な声に苦笑した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます