タコの唐揚げ - 2
室内は湿気がむわっと立ちこめていた。タコを茹でた匂いがする。それに加えて油で何かを揚げる音もした。
「ごめん、ちょっと準備遅れててもう食えるのとまだ食えないのがある」
そう言いながらゲンさんは包丁を持ってまな板に向かっている。
「いいえ、いつもありがとうございます」
そう言いながら室内を見渡した優子は、ガスレンジの前にいる人物に気づいて言葉を失った。
水色のボタンダウンシャツの袖をまくって菜箸を握っているのは遠野だった。ベージュ色のツイルパンツを履いている。スーツを着ていないところから見て、今日は休日のようだった。
「お、やっぱりきつねマンじゃん」
背後から聞こえたエリさんの元気すぎる声に優子は思わず手に持った日本酒を取り落としそうになった。優子たちが玄関に入ってきたときからこちらを見ていたのであろう遠野の目が細くなった。怒らせたかと優子は思ったが、次の瞬間遠野はいつもの笑みを浮かべていた。
「お邪魔しております」
会社員時代も、大家業を始めてからも、目の前の相手に思いもかけない言動を取られることはある。こちらの動揺をうまいこと取り繕って何事もなかったかのようなそぶりをすることもある。しかしそれにも限度というものがあるだろう。今回のこれは優子にとって限度を超えていた。
ゲンさんの部屋に遠野がいることも、エリさんがそれを予想していたらしいことも、遠野に向かってエリさんが直接あだ名で呼びかけたことも、何もかもが優子の想定範囲外だった。遠野を視界に収めたときの姿勢のまま、優子は目を丸くして突っ立っていた。
「え、ちょっと待ってせっかく渾身のあだ名披露したのに全員スルーはなくない?」
エリさんがむくれる声でようやく我を取り戻した。取り戻した結果、優子は再度ビニール袋を取り落としそうになった。今度は脱力のためである。
「あの、さすがにちょっと失礼だと思います」
なんとか言葉を発した優子の苦言にゲンさんが吹き出した。笑いながら遠野に声をかける。
「何か言ってやったほうがいいぞ」
遠野はエリさんのほうを見てにっこりと微笑んだ。
「いえ、特に問題ありません」
その一言だけでまた鍋に向き合ってしまった。衣を付けたタコらしきものをぽとりぽとりと菜箸で鍋に落としている。
「あ、そのへんで。それ以上入れると油の温度下がっちゃう」
ゲンさんが指示を出す。むくれていたエリさんが気を取り直したのか鼻をくんくんと動かした。犬に似ている。
「唐揚げ?」
「そうそう。タコ唐、たこわさ、生タコ刺身、サラダにタコ飯。タコづくしでそれでもちょっと余りそうだからお土産に茹でタコ持って帰って貰えるとありがたい」
優子は思わず眉をしかめた。一体何匹釣ったのか。
遠野が小さなダイニングテーブルの上に置かれた皿に菜箸を置いた。そのまま無言でまくった袖を下ろしはじめる。色白の肌に赤い斑点が点々とついていた。
優子がそれを思わず目で追っていると、ゲンさんが小さくよっしゃ、と呟いた。
「生タコ皮むき完了」
ゲンさんは生タコの足を捌いていたのだった。小さなボウルの中に吸盤のついたタコの皮が入っている。まな板の上には白い棒のようなタコの足が並んでいた。
「タコのお刺身って皮ごと切るんじゃないの?」
エリさんがまな板のほうに近寄りながら言うとゲンさんが頷いた。
「寿司屋とかね。あれは水タコだと思うんだけど」
「水タコ」
「でかい、柔らかい、味が薄い。対して今日のは真ダコなんだけど、国産の真ダコは身が締まってて硬いのよ。先の細いところ以外は皮を剥いたほうが旨い」
「なるほど、確かにこの辺のタコって旨味あるけど歯ごたえもすごいよね」
エリさんが納得している。
「みなさんご経験があるんですね、タコ釣り」
袖を戻しおわった遠野が微笑みながら言った。
「タコ漁と言えば蛸壺の印象しかありませんでした」
「あたしは自分でやるわけじゃないよ。子どものころにも何度か茹でタコのお裾分けもらったことがある。この辺の釣り好きはわりとやってると思うよ。なんかおもちゃみたいなカニ使うんだよね」
後半はゲンさんへの確認である。
「ビニールのルアーな。なんだかんだあれがよく釣れる気がするよ」
ビニールのカニというのがどういうものなのか優子は全く想像がつかなかった。もちろんタコ釣りの経験などない。遠野の「みなさん」に自分は含まれないのだという拗ねた気持ちが強く心に残った。
「というわけであっちにサラダとたこわさあるから。とりあえず座って待ってて」
続くゲンさんの言葉に曖昧に頷いた。
「あたしおゆうの日本酒飲みたい」
「それはせめて料理が終わってからにしませんか」
エリさん相手にならなんとか言葉が出た。優子が眉を寄せると奥でタコを揚げている遠野がちらりと視線を寄越した。ゲンさんがまた笑った。
「唐揚げも刺身ももうすぐ終わるから。すまんけどちょっと待ってて」
そう言いながらゲンさんはまくった袖をさらに折っている。その肘の内側が遠野と同じように赤くなっていた。
ゲンさんの和室は万年炬燵である。炬燵の前に座った優子が炬燵布団をめくるといつも通りちゃーがひっくり返って熟睡していた。
優子はちゃーの姿を見ながら眉間にしわを寄せた。猫が悪いのではない。猫は何も悪くない。ずっとそうやって幸せに寝ていてほしい。そうではなくて、この猫が本当に脱走などするのだろうかという疑問がふと再び浮かんだのであった。
「どうした」
エリさんが優子を見た。
「いえ、何でも」
優子の素っ気ない返事にエリさんは食い下がった。
「さっきから様子おかしいじゃん。大丈夫?」
大丈夫ではなかった。どこもかしこも大丈夫なところなどなかった。なぜ近所のライバル物件に引っ越していった元入居者の部屋を掃除していたその日に、このアパートの中で一番仲の良いふたりと食事をするその場で、入居者を甘い条件で引き抜いていった当の本人と顔を合わせなくてはならないのか。なぜエリさんもゲンさんもそれに違和感がないのか。むしろゲンさんは積極的に親しくしているようではないか。裏切られた。簡単に言うならそういう気持ちだった。
しかし実際に優子がしたのは、俯き加減に首を振ることだけだった。無言のまま炬燵の前のいつもの場所に座った。左隣がエリさん、右隣の入り口に近いところにいつもゲンさんが座る。優子は嫌なことに気づいて眉間のしわを深くした。このままでは優子の向かいに遠野が座ることになる。
エリさんは腕を組んで優子の様子を見ていた。
「うむ」
短い声を残して掃き出し窓を開けるとベランダに出て行った。少しすると加熱式たばこの独特な香りが流れてきた。
エリさんはお前に呆れて出て行ったんだ、優子の心の中の何かがそう囁いた。ゲンさんだってそうだ。そうと知っていてライバル会社の営業と仲良くしている。お前がいないところで何を言われているのか分かったものではない。
そのまま心の中の声に耳を傾けそうになって優子は思わず頭を振った。こういうふうに人を疑う気持ちになるのはいつにないことだった。疑問や不満や不安があったらそうと言えば良い。言う必要を感じなかったら黙って離れれば良い。そう思ってこれまで生きてきた。黙っていることのほうが結果的に多かったようにも思うが、それは遠慮から出たものではなかった。単に口に出すほどの興味がなかったのである。
優子は声の正体が気になった。離職後これまで何とか持ちこたえてきたメンタルがここに来て限界を迎えたのか。エリさんの言っていた呪い、という言葉が頭から離れなかった。
「優子ちゃん大丈夫? 」
また「大丈夫」か、と少々荒んだ気持ちで目を開いた優子はなぜそんな声かけをされたのかをすぐに理解した。炬燵の天板に両肘をついて頭を抱えた姿勢で背中を丸めていた。両肘と天板が近くに見える。この視界には覚えがある。前職で熱を出したまま出勤して働いていたとき、意識が飛んで気づけばこういう姿勢になっていた。「私は体調が悪いです」と自己主張しているようなものだ。
まためまいが起こってはいけないと、優子は念のためそろりと頭を持ち上げた。特に違和感はなかった。「大丈夫」である。
「すみません、ちょっと考え事を」
山盛りの唐揚げを持ったまま突っ立っているゲンさんに真顔で伝えた。こんな言い訳で通じるかどうかは自信がなかったが、ほかにどうとも言いようがなかった。
「何か顔白いけど」
そう言いながら炬燵の上に唐揚げを置くゲンさんの後ろから遠野が入ってきた。こちらは重ねたお猪口と刺身の皿を手に持っている。
顔が白い、で優子は夢の中のきつねを思い出した。あの空飛ぶきつねの瞳は何色だっただろうか。優子が再び思考の海に陥りそうになった優子を引き戻したのはエリさんの声だった。
「あたしが原因を当ててやろう」
偉そうである。掃き出し窓の外から登場したエリさんに思わず優子が眉をしかめるとへへんと笑われた。
「おゆう、今日の飯はいつ何をどのくらい食った」
一応疑問文のようである。思い出すために優子は首をかしげた。
「十一時くらいに朝昼兼用で、パンと目玉焼きを」
「だけ?!」
ゲンさんがややひっくり返った声を出した。この人も意外と高い声が出るんだな、と優子は的外れなことを考えながら頷いた。
「昼寝をしてしまったのでその後食べ損ねました」
「思考がマイナスになってるとき、無駄に腹が立ったり悲しくなったりするときの原因はだいたいシンプルだ」
相変わらず偉そうなエリさんである。
「食事が足りてないか睡眠が足りてないか。昼寝した後ならどう考えても食事でしょ。タコを食え、タコを」
優子は眉根をさらに寄せた。それではまるで優子がふてくされていたのを知っているようではないか。
「なんか機嫌悪そうだったからね、この人。げんたろう、まずは酒の前にタコ飯出してやろうぜ」
不満げな優子には構わずエリさんはダイニングキッチンに向かっている。しゃもじを寄越せー、と言う声に笑いながらため息をついてゲンさんも部屋を出て行った。
ことり、という音に目を向けると、遠野が皿とお猪口を炬燵の上に置いていた。すでにサラダとたこわさがあるところに唐揚げと刺身が加わったので、天板は大入り満員であった。そのまま遠野は静かに膝を折って座った。正座である。
「今日は原元さんに叱られました」
スーツに比べるとカジュアルな服装なのにこの人が着るとぴしっとして見えるなあ、などとぼんやり考えていた優子は突然の告白に目を瞬かせた。
「叱られた」
「はい。こちらのアパートに集中的に営業をかけすぎだ、プロなら知人から客を奪うなと」
「それは長沢さんと津久井さんのことですか」
優子は思わず、そこまでしないと入居者が集まらないんですかとも聞きそうになったがなんとか堪えた。単純に意地悪だし、言外に肯定を求める質問である。なぜ肯定を求めるのかというと自己の優越感のためである。
「あのお三方もですが、ほかにもお声がけしたりチラシを配ったりしていますので」
「そうみたいですね」
優子は花輪さんとエリさんのポストに時間差でチラシが入っていたことを思い出した。エリさんは遠野に声もかけられたと言っていた。もしかしなくとも、ゲンさんにだって何かしらのアクションがあったはずだ。
遠野はその場で姿勢を正すと畳に手のひらを置き、そのまま深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
優子は思いきり顔をしかめた。
「やめてください」
思ったより厳しい声が出て自分でも驚いた。ダイニングキッチンにも聞こえただろうかと目線で様子を窺ったが向こうは向こうで何やら話し込んでいるようだった。ゲンさんの低い声が聞こえる。
優子は視線を戻したが遠野は微動だにしていなかった。釣りをしたり料理をしたり、それなりに動いた後だろうにシャツの背中にはしわひとつなかった。
「顔を、上げてください」
努力して声のトーンを少し和らげることに成功した。遠野がゆっくりと姿勢を戻して向き直った。
「入居者さんを引き抜いていくことで、結果的にうちが不利益を被ることは最初からご承知だったはずです」
優子は眉根を寄せたまま遠野を見た。遠野は表情の読めない平坦な顔で頷いた。
「分かっていてやったのにゲンさんに言われて形ばかり謝罪するんですか。どうせお止めになる気はないんでしょう」
このままだと言いすぎる。それは分かっていたが遠野の無表情に感情が刺激された。優子はボタンダウンシャツの胸元に付いた刺繍を睨みつけた。黒い羊にリボンが結んである。
「申し訳ありません」
遠野は表情を変えずに再度謝罪した。それは一聴すると従前の詰問を肯定するように響いたが、優子は顔を上げ、違和感に首をかしげた。
「遠野さん、もしかして今後はもうしないとおっしゃるんですか」
ほぼ勘だったが尋ねてみた。きついことを言ってしまった罪悪感も手伝った。
「どうしてそう思われましたか」
遠野は少しだけ眉を上げた。まじまじと見ていないと気づかないほどの変化だったが、優子には分かった。この人は今一瞬だけ、心底驚いた。
「笑わないからです」
そう指摘する優子も仏頂面だった。
「遠野さん、結論を出さないとき、煙に巻きたいときににこにこするんじゃないですか。今はそうではないようでしたので」
優子の言葉を聞いた遠野は俯いて少し表情を緩めた。その様子はどことなく寂しそうに優子には思われた。
「そうですね」
遠野は静かな声で肯定した。
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