タコの唐揚げ - 1

降って降って降り続いた六月であった。インドア派を自認する身分ですら日差しを恋しく思いはじめた月の後半、優子は雨の中空き室二部屋分の大掃除をしていた。長沢さんと津久井さんが入居していた部屋である。優子の予想通り、どちらも月の最後を待たずに退居していった。先方のフリーレント期間に引っ越しを終わらせたかったのだろう。


津久井さんのほうが数ヶ月だけ入居期間が長かったが、どちらも居住期間は一年前後だった。優子は立ち会いで室内の状態を確認した。大きな損傷はないが壁と床がやや気にかかった。長沢さんが住んでいたしののめの一〇二号室は腰の高さくらいまでにところどころ汚れがあり、フローリングにも少し傷みがあった。あけぼのの一〇一号室は所々クロスの表面が薄く剥がれていた。優子は目をきらきら光らせたインコたちを思い出し、やられたな、と思った。


ある程度予算を取ってリフォームにかけるべきかと優子が検討しはじめた途端、不動産屋の坂下さんから電話が入った。それが昨日のことである。内見の申し込みであった。空室の入居者募集をかけているわけでもないのにペット可物件を探して問い合わせをしてきた人がいるのだと言う。一旦はあまり内装の状態が良くないことを伝えた優子であったが、すぐに折り返しの電話がかかってきた。「それでも構わないから見たい」というのである。「どうせある程度は自分たちも汚してしまうので」と言われてしまえばそれもそうではある。日取りは三日後というので優子はとりあえず掃除に取りかかった。昨日あけぼのの一〇一号室を終わらせ、今日はしののめである。


昨日の掃除は夜までかかってしまい、ドアを開けたら帰宅してきた下浦さんとばったり会った。自分のせいで、と申し訳なさそうにする下浦さんと少し話し込んでしまった。こういうものは誰のせいということでもないのだと優子は思う。いろいろな巡り合わせが、ただ単に悪かったというだけのことである。


そして今日である。しののめの二〇二号室にはエリさんが住んでいる。一〇二号室は真下に当たるので、一応一言断っておこうと優子は考えた。エリさんは自宅で仕事をしている。階下が騒がしいと気になるかもしれない。優子は掃除を始める前にメッセージアプリでその旨を伝えた。


午前遅めに朝食のような昼食のようなものを食べ、そのまま午後にかけてずっと掃除をしていた。玄関側にあるダイニングキッチンと水回りから始めて奥に進んでいく。南側の掃き出し窓を拭いていると、遠くでスマートフォンが不自然に震えた。優子は反射的に立ち上がろうとして、そのまま尻餅をついた。


「しまった」


独り言である。立ちくらみがしたのだった。長沢・津久井両家が退居していったのが先週半ばのことで、週末に内見の申し込みがあった。城址の浜で倒れて以来二、三日はおとなしくしていた優子であったが、その後は退居の立ち会いやら何やらで慌ただしかった。病院で血液検査はしてもらったが、結果はまだ聞きに行けていない。よく考えれば二日で大掃除を全て終わらせようという目論見自体が、体調を優先するならあまりよろしくなかった。


優子は身体の後ろで両手をついたまま目をつぶって、脳がぐるぐると回る感覚をやり過ごした。目をつぶると何か残像のようなものがまぶたの裏を舞った。白い。細長く、尾が豊かな、きつねであった。


思わず目を開けて残像を振り払うように頭を振った。ぐるん、と世界が回って優子はフローリングの上に倒れた。六月とはいえ雨の日の床は冷たかった。


自分でも何をやっているのかとは思ったが、思い出したことによる衝撃のほうが勝った。夢に見た九尾のきつねのことを、優子はまたしても忘れていたのだった。白い、鳥のような、飛ぶきつね。きつねがまっすぐ目指してくるのは、大太刀を振るう武将だった。


「悲劇の予兆としてのきつね」


エリさんがきつね浜からの帰りに言っていた言葉を優子は呟いた。大介は宮中時代の玉藻前と面識があっただろうか。荒次郎は城から何度きつねを見たのだろうか。いつ、狩ることを決めたのだろうか。


スマートフォンがもう一度震える音がした。中が空洞のものの上に置かれたような音だ、と優子は考えて、最初に掃除を終わらせた台所のシンクに置きっぱなしなのを思い出した。そろりそろりと起き上がるとめまいは治まっていた。ゆっくりと立ち上がってダイニングキッチンに向かう。今日の掃除はここまでにしておこうと心に決めた。


優子がスマートフォンを手に取るとまた震えてロック画面にメッセージが表示された。賑やかなのはグループチャットのせいだった。優子はアプリを開いて眉間にしわを寄せた。


——タコ!  


感嘆符とともに生きているらしい蛸が数匹入っている大きなクーラーボックスの写真を添付してきたのはゲンさんである。そういえば今日は店休日だと優子は気づいた。タコ釣りに行く、と言っていたのでそれのことだろう。


——喧嘩売ってんのかテメー


これはエリさんだ。


——食いに来るでしょ? 


ゲンさんはどこ吹く風である。


——夜、八時くらいなら行ける


スマートフォンがまた震えた。エリさんである。


——優子ちゃんは? 


ゲンさんが入力したので優子はしばし思案した。少し休みたかった。


——ありがとうございます、エリさんと同じくらいの時間帯に伺います


入力してからタコを捌くのは大変なのではないかと気づいた。


——お手伝いいりますか? 


——あ、今日は助っ人がいるから大丈夫よ


優子は眉間のしわを深くした。文面から察するに家で調理するときに助っ人が来るということだろうか。ゲンさんには仕事つながりなどで友人が多いようだったが、アパートに人が来ているのはあまり気づいたことがなかった。エリさんと優子に人を紹介してきたことも今までなかったように思う。


——珍しいな


エリさんも同じことを思ったようだった。


——お楽しみにー


クマのスタンプが踊っていた。助っ人の種明かしをする気はないようだった。


——楽しみにしてます


——おゆう、掃除無理すんなよ


エリさんが見通したように言ってきた。


——ちょっと疲れたので今日はこの辺りで終わりにします、お騒がせしました


優子は入力してスマートフォンをロックした。


スマートフォンのアラームが陽気に鳴り響く音で目が覚めた。帰宅したときは雨の中でも外がまだ明るかったのに、もうすっかり薄暗くなっていた。十九時である。少し休もうとアラームをかけて横になったが、思っていた以上によく寝てしまったようだった。


ベッドの上で伸び上がって、手探りで照明の紐を引いた。優子は出かける準備を始めた。



出かけるといっても同じアパートの二階から一階に移動するだけである。着替えて家を出るときに時計を見ると約束の時間までまだ四十分近く余裕があった。雨がいつの間にか止んでいた。


優子は地ダコについて考えた。酒をあわせるとしたら日本酒があれば間違いないだろう。ゲンさんが何かしら用意してくれているかもしれないが、小さな瓶の日本酒であればあまってもそう迷惑にはならない。優子は最寄りのコンビニに向かって歩き出した。


日本酒を買って戻ってくると、近くでドアを開閉する音がした。優子がアパート敷地の入り口でしばし立ち止まっているとしののめの北側からエリさんが現れた。


「おっす。どっか行ってたの? 」

「日本酒ちょっとだけ買ってきました」


手に持ったビニール袋を掲げてみせるとエリさんが快哉を上げた。


「和食じゃないかもしれないですけど」

「和洋中、なんでもタコなら日本酒に合うさ」

エリさんは上機嫌である。恐らく〆切がひとつ終わったのだろうと優子は考えた。


「調理何も手伝わずに日本酒一本なのも申し訳ないような気がします」

「でも今日は助っ人いるんだべ」


「助っ人って誰なんでしょう」優子の疑問にエリさんはにやっとした。


「あたしたちたぶん知ってるよ。勘だけど」


優子は顔をしかめた。共通の知人というわけだろうか。全く思い浮かばなかった。


「まあ行ってみりゃ分かるさ」

エリさんがあけぼのに向かって歩きはじめたので優子も後を追った。


ゲンさんの部屋はあけぼのの一〇三号室である。チャイムを鳴らすと玄関ドアの横にある窓ががらりと音を立てて開いた。窓の向こうは台所である。


「鍵開いてるから入って入ってー」

窓を開けたのはゲンさんである。優子は頷いて玄関ドアを引いた。

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