玉藻前

「ほんとに大丈夫? このまま病院寄っても良いんだよ? 」

「砂の上に倒れただけでどこも痛くないですし、めまいも少し休んだら治まったので大丈夫です」


助手席から振り向いたゲンさんに向かって優子は苦笑しながら頷いた。このやりとりは三度目である。最初の二回は優子の謝罪が付いたのでもう少し長かった。


案内された海の家は犬連れ入店が可能ということで、優子はありがたくホットココアを飲みながら店内で休んだ。ララには茹でササミと水を献上した。グループチャットに「一瞬昏倒したので休んでいます」というメッセージを送った。エリさんがまだ寝ているかもしれないと思ったのだった。三十分ほどで返信が返ってきた。優子は近くの車道まで出て拾ってもらおうと考えていたのだが、「また倒れられたら困るからそこにそのままいろ」と厳命された。結局一時間以上海の家に滞在してしまった。


「しかし最近元気だと思ってたけど、ちょっと長距離歩いただけでぱたりじゃ怖いね」


エリさんが運転しながら言った。優子も同感であった。


「早いうちに血液検査してもらいます」


そうしなー、とエリさんが言いながらブレーキを踏む。ゲンさんがシュノーケリングから帰ってきたところで荷物を片付け、優子を拾って帰路についた。なんだかんだでもう夕方である。道はどこもかしこも渋滞しはじめていた。優子は窓の外に広がる海を見ていた。灰色の夕方は砂も海も空も殆ど同じ色のように思われた。


「そういえばさ、さっきのきつねの話」


ゲンさんが思い出したように話しだした。


「なんか聞いたことがあるなーって引っかかってたんだけど、あれ、すごく那須の話に似てる」


「なす」


優子の脳内にすぐに思い浮かんだのは茄子であった。そういえばトマトもナス科だったよなと考えたがエリさんの相づちで打ち消された。


「那須塩原?」


那須塩原市は栃木県にある。ずいぶん遠い場所である。ここから優子の実家までの距離と、優子の実家から那須塩原までの距離とはさして変わらないだろうと思われた。


「そうそう、もう二十年くらい前かな、ずっとスノボばっかりやってた時期があるんだけど」


ゲンさんは高校を卒業してすぐに関東に来たと聞いた。そのころの話だろう。優子が子どものころ、たしかにスノーボードがとても流行っていた。


「あんたほんとに体育会系だよねえ」

エリさんが脱線しそうな相づちを打っている。


「むしろ家の中にこもってるだけでストレス解消できる人が羨ましいよ」


そう言いながらゲンさんはスマートフォンで何かを検索している。


「スノボで那須に行ったときね、やたらと狐の絵とかお土産とかを見かけたのを思い出した。伝説の話とかがガイドブックだか観光案内だかに載ってて知ったんだけど、あそこ九尾のきつねにゆかりがあるんだよね。しかも改めて読んだら似てるんだよ、話が」


ほい、と言いながら振り向いて優子にスマートフォンを渡してくる。受け取った優子はディスプレイを眺めた。ブラウザで何かのサイトを開いたらしい。


「たまものまえ」


ページのタイトルらしき文字列を読み上げる。「玉藻前」という漢字に読み仮名がふってあった。


「どんな話? 」

エリさんが尋ねるので優子は音読を始めた。


🦊


殷の紂王を破滅させた九尾のきつねは、あるとき遣唐使の船に乗り日本にやってきました。美しい女性に化けて朝廷に入り込んだきつねは、鳥羽上皇の寵妃となり「玉藻前」と呼ばれました。


しかし玉藻前がやってきてからというもの鳥羽上皇の体調が思わしくありません。とうとう病に伏せってしまいました。陰陽師の安倍泰成はこれを玉藻前の仕業と見抜きます。正体を見破られた玉藻前はきつねの姿に戻って那須野に逃げていきました。


那須野でもきつねは乱暴狼藉を働きます。人さらいの噂が頻繁に立ち、きっときつねのせいだとささやかれました。鳥羽上皇はきつねを討伐するように武士団を送ります。武士団はきつねを発見し、数日のうちに追い込みました。


武士団の中にいた


🦊


「みうらかいよしあき? 」

固有名詞が読めない。読み仮名もない。


「貝? シェル?」

ゲンさんののんびりとした問いに首を振った。


「紹介の介です」


「しょうかい、紹介。ああ、それ『みうらのすけよしあき』だよ」


エリさんが答える。優子は眉間にしわを寄せた。読めるわけがない。


「しかしなんで『殷の紂王』が読めて『三浦介』が読めないのさ」


「『封神演義』、流行ったじゃないですか。このきつねって妲己のことですよね」


優子が小学生のころにアニメをよく見ていたのだから、エリさんとゲンさんは世代ではないかもしれないと言ってから気づいた。


「俺本誌で読んでた」

「あたしコミックス派だった」


ふたりとも知っていたようで優子は安心した。


「あと、受験が世界史だったので日本史よく分からないんです」

ついでのように言い訳して続きを読んだ。


「武士団の中にいた三浦介義明が射た二本の矢がきつねをとらえました。じょうそうすけ……? 」


「かずさのすけ」

エリさんの無情な突っ込みが痛い。読めない。


🦊


武士団の中にいた三浦介義明が射た二本の矢がきつねをとらえました。上総介広常がその首を落として、とうとう大陸と日本を股にかけた九尾のきつねは斃れたのです。


きつねの霊はその場に凝り固まって石となりました。この石には毒があり、近づいたものは人でも動物でも全て殺したため「殺生石」と呼ばれて恐れられました。後日、玄翁というお坊様が殺生石を破壊し、その破片は日本各地へ飛び散っていったと言います。


🦊


ううむ、とエリさんが唸った。


「似てるでしょ」


振り返ったゲンさんにスマートフォンを返しながら優子は頷いた。今まであまり気に留めていなかった後半部分が特に似ている。きつね浜では狐塚が走り回って人を病気にした。那須の殺生石は近づくものを何でも殺して最後は各地へ散っていった。


「その三浦介? って人はきつね浜のお殿様と何か関係があるのかな」


ゲンさんの呟きにはエリさんが答えた。


「三浦介義明。あたしには大介義明のほうが馴染みがあるけど、それうちの学区で腹切ったおっさんだよ」


「へ」

優子の口から思わず間抜けな声が漏れた。


「ということはご親戚」


「どっちかっつうとご先祖かな。三浦大介義明は鎌倉幕府ができる直前に死んでる」


「荒次郎は戦国時代初期らしいので確かにご先祖様ですね」


優子は同意した。


「腹切ったおっさんって何?」


ゲンさんだけが話しについて行けず戸惑っている。優子は口を開きかけたが、エリさんが言った。


「ちょいと『三浦義明』で検索してくれ。正義の義に明るいね」


はいよ、と返事をしてゲンさんはスマートフォンに向かった。


エリさんはといえばぶつぶつと「殺生石、殺生石」と呟いている。呟きに合わせて足下でかたかた音がすると思ったらブレーキを軽く踏んでは離しを繰り返していた。気づけば海沿いの道で渋滞にはまったままだった。エリさんは車のギアをパーキングに入れている。優子が後部座席から振り返ると、さっき通りすぎたマクドナルドの看板がまだ見えた。


「殺生石。那須に行ったらわりと車で通るところに九尾のきつねの像がなかった?」


エリさんからゲンさんへの質問である。


「そうそう、なんか唐突にあるね。有料道路の近くとかじゃなかったかな」


「あと、殺生石って何かめっちゃ石がごろごろしてて温泉ー、って感じの場所になかったっけ」


「俺、殺生石のとこまでは行ったことないんだよねえ。分からん、すまん」


「それは残念」

そう言いながらそこまで残念そうでない声色のエリさんである。


「殺生石、今でも那須にあったと思うんだよなあ。しかし三浦一族が伝説に出てくるとは知らなんだ」


優子は自分のスマートフォンで殺生石を検索してみた。


「確かにありますね、殺生石。那須湯本温泉みたいです」

「やっぱそうか。毒って火山ガスとかだったりしたんだろうね」


エリさんは冷静な解釈を示す。優子はひとつ気にかかることがあった。


「荒次郎ときつねの話はもしかして大介さんと九尾の焼き直し、なんでしょうか」


どちらも弓矢で九尾のきつねを射て、かつその後に非業の死を遂げた武人である。玉藻前の伝説に倣ってきつね浜の伝説ができたのではないだろうか。それこそ首級の話が荒次郎と平将門で似通っているように。


「完全に伝説だとしたらそういう可能性もありうるけど、じゃあ何で? ってなるよねえ」


エリさんもうーむ、と唸っている。なぜ三浦一族はきつねと出会い、死んでいくのか。


「呪い、とか」


思わず呟いた。呪い。さきほどエリさんからも聞いた。嫌な言葉である。


「ふたりとも死んだ後にお話ができたんだとすればさ、きつね自体が不吉みたいな話があるかもしんないよ。黒猫みたいに。悲劇の予兆としてのきつね」


こちらはエリさんの思いつきである。


「猫が不吉なわけないだろ」

ゲンさんが猫飼いらしく憤慨しながら会話に戻ってきた。


「それはそうと義明さん死んだとき八十九歳とかだって。おっさんっていうかおじいちゃん、しかもご長寿なのに最後は戦いで命を落とすんだね。武士って過酷だな」


車が市境を越えた。優子は右手に広がる海を再びぼんやりと眺めた。巻き網に出かける小さな漁火が暮れなずむ海面を滑って遠ざかっていった。

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