油壺
ララとともに笹藪の道を戻る。行くときには現世から隔絶されたように感じたが、二度目はあっという間に通り過ぎてしまった。小さな漁港にある「道路改修記念碑」の前から坂を上る。実際に上ってみると急な坂であった。午前中に来た道を戻っているのである。ララは優子の腹づもりを心得たように前を歩いていた。もちろん先々に鼻を近づけて匂いを取ることは忘れない。
車の中から眼下に切り通しを望んだ陸橋まで辿り着いた。優子はここで地図アプリに行き先を入力した。切り通しの道に降りて北に向かえば良いようだった。
きつね浜の向かいにある城址に行ってみようと思ったのである。浜から浜へ直線距離で数百メートルだとすると、大回りしてもせいぜい二、三キロメートルであろうと優子は踏んだ。行って帰ることを考えると少々長い散歩になる。とはいえ連絡ならスマートフォンで簡単につく。少々ふらふら出歩いていても心配はされないだろうという腹づもりであった。
切り通しのある道をゆるゆる数分歩くと左手に海が見えた。きつね浜の奥にある入江である。しかしその様子は優子が思っていたのとは少々異なっていた。
初め優子は湾内に電柱のようなものが無数に立っているのかと思った。しかしそれにしては細すぎる。よくよく見ると下に船が付いていて海に浮かんでいる。優子は電柱のようなものがマスト、つまり帆柱であることに気がついた。湾内には無数のヨットが停泊しているのだった。
近所の浜へ小型のヨットが寄ってくることがごく稀にある。小型とはいっても発動機を備えている。船舶免許を持たないと航行できないものである。ヨットは頭から浜に乗り入れてそこで錨を下ろす。何のためにわざわざ海からやってくるのだろうと優子は不思議だったが、ゲンさんに解説してもらった。曰く、ドライブと同じ感覚である。セーリングを楽しみつつ、入りやすい浜に立ち寄って観光したり食事をしたりする。確かに浜でバーベキューをしている姿を見かけることもあった。ゲンさんの働いているレストランで食事をするような人もいるらしい。
そんなヨットが数え切れないほど浮かんでいるのであった。優子は眉間にしわを寄せた。中古で買っても数十万円は下らない上に、月々の保管料は駐車場よりもずっと高いとゲンさんに聞いた。
「お金持ちって実在するんだねえ」
思わずララに話しかけていた。前を歩くララは左耳を少しだけ優子のほうに向けた。「左様か」という返事である。
ヨットの大群がよく見える場所で足を止めた。湾の左手も右手も大きく岬が張り出している。ちょうど前ならえをした両腕の間に入江がすっぽり収まる塩梅であった。左手にある岬の先端にきつね浜があるはずであった。きつね浜には波が打ち寄せていたが、岬に抱かれて奥まっている入江はとても静かだった。
優子は左右を見渡した。左手にきつね浜があり、その向かいに城址があるはずだが場所が分からない。湾の中からでは見えないのである。
地図アプリは右手の岬を通り過ぎてさらに進めと指示してくる。先を見やると岬を垂直に切り開いて道が続いていた。優子は真面目な顔で海を見ているララに声をかけて再度歩き出した。
ふたつ目の切り通しが終わったところに細い脇道があった。その先にまたヨットのマストが見える。
今度は陸のヨット置き場であった。ヨット専用の台というものがあるらしく、ヨットは一艇ずつ優子の背よりも高いところに安置されている。ずらっと並ぶとまるで駐車場のようであった。
左手にヨットの駐車場、右手に崖が迫っている細い道を進むとまた入江に出た。先ほどの入江より道ばたに雑草が多い。雰囲気はよく似ている。なぜかというとこちらにも無数のヨットが停泊していたからだった。
今日だけでいったいいくつのヨットを見たのだろうと考えながら優子は湾に沿った道を進んだ。簡易舗装された道ぎりぎりまで海水を湛えている入江には波がほとんどない。見ようによっては穏やかだが、しかし本性はあの海なのだと思うとやや不気味だった。凪いだ夜の海に似ている。背を向けた瞬間にぺろりと飲み込まれたりしないだろうか。歩いているうちに幅員はだんだん狭くなり、そのうち軽自動車でも通れなそうな心細い砂利敷きに変わった。
頭上からは木が、足下からは雑草が迫ってくる。蚊が多そうな雰囲気に優子は少々顔をしかめた。しかし地図アプリはこちらに行けと言うしララもまったくお構いなしに進んでいる。諦めて犬について行くことにした。
鬱蒼とした木々の間を抜けると急な坂道になった。黙々と上ること数分、ぽっかりと広い道に出た。きつね浜から数えて北に三つ目の岬、その背骨部分に出たのだった。建物や木が邪魔して道路からは海が見えない。しかし海が近い証拠にぽつん、ぽつんとシュロの木が植えてある。
釣り船屋やら民家やら市営の駐車場やらが入り混じる中を優子とララは西に向かって歩いた。犬は言葉を発しないから、散歩中は必然的に無言になる。脇道から出てきた老人に「こんにちは」と挨拶されて一瞬戸惑った。「こんにちは」と挨拶を返したころには老人は背中姿になっていた。
数百メートル進むとまた細い脇道があった。私有地かと尻込みするような雰囲気だが大量の看板が出ている。レストラン、海の家と賑やかなので勇気を出して進んでみた。
地図アプリによると、この脇道の左手は崖になっていて海に続いているはずであった。木々がこんもりと茂っているのでよく見えない。右手は東大、つまり城址である。東大の敷地には柵が巡らしてあって自由に出入りができないようだった。しかし問題は城址そのものではない。城からきつねを射ることができるかどうかである。
優子は歩きながら柵の中をしげしげと眺めた。城址と言われなければただの森だと思ってしまいそうであった。優子にとっての城は堂々たる天守閣に高い石垣を備えている。しかし襲ったり襲われたり、焼いたり焼かれたりする城が必ずしもそのような形状をしていなかったのであろうことは何となく想像がついた。つまり優子のイメージする城は宮殿であり、ここにあったのはもっと実戦的な、要塞のようなものであったのだろう。
左手にある木々の隙間から海が見えるようになってきた。白い看板が立っている。優子は足を止めた。湾の名前についての解説であった。
「三浦一族が北条早雲の大軍を相手に、三年間にわたって奮戦しましたが空しくついに全滅し、一族の将三浦道寸義同(よしあつ)をはじめその子荒次郎義意(よしおき)は自刃、ほか将兵も討ち死、または油壺湾へ投身したと伝えられそのため湾一面が血潮で染まり、まるで油を流したような状態になったので後世『油壺』と言われるようになりました」
ここで何が起こったのかは知っていた。知ってはいたが由来を読んで優子は少々胸が悪くなった。覗いてみると湾内は穏やかに波一つなく、静かにヨットの群れが停泊していた。雲間からさっと弱々しい太陽光が差した。海は青かった。しかし一陣の風とともに光は閉ざされ、曇天のもと海もまた灰色味を増した。案内板の語るとおり、波のない海面は確かに油を流したようにぬるっとしていた。
優子はそのまましばらくぼんやりとしていた。荒次郎が弓を射る、狐が落ちる。北条早雲が三浦氏を攻める、城が落ちる。それぞれの先にあるのは冷たくて孤独な死であった。数多の死を静かに飲み込んだ入江には青々とした森が水際まで茂っていた。
ララがリードを引いたので我に返った。犬に引かれて少し進むとやや見晴らしの良い展望台があった。優子は当初の目的を思い出した。きつね浜はここから見える場所にあるのか。
優子はきつね浜があるであろう右手の方向に目を凝らした。しかし自分が立っている岬の先端が邪魔して見えない。一方湾内の見通しは悪くない。これでは外洋から攻められても気づかないのではないかと優子は思ったが、そもそも立地が文字通り背水の陣である。海については心配しなくても良い何らかの理由があったのだろう。そうでなければこのような場所に城を築くこと自体が自殺行為である。
優子はもう一度振り返って背後の城址を見た。仮にここから岬の先まで木を切り倒してあったとしても、きつね浜は遠くぼんやりとしか見えなかったのではないだろうか。岬の突端まで出て行ったとしても距離がある。きつね浜の波打ち際からさらに奥まったところに狐がいたら大弓を引いたとしても届かないのではないだろうか。
城の上から矢を射るのが非現実的なら、次は先ほどきつね浜から見た対岸、笠懸が行われるという海水浴場が候補である。優子はララに声をかけてまた歩きはじめた。しばらく崖と森に挟まれた道を行くと階段があり、その先に砂浜が広がっていた。地図アプリで確認したところどうやらここが対岸の浜のようである。優子は下に降りてみることにした。
長梅雨の中だったが浜にある海の家は営業していた。「ランチタイム」という文字がかかっているのが見えた。もしかしたらレストランとして通年営業しているのかもしれない。
きつね浜と異なり、こちらは人がちらほら遊んでいる。その砂浜を犬を連れて歩いた。波打ち際ぎりぎりのところで対岸を見やると、灯台が見えた。きつね浜である。
「ここからならいけるんじゃない?」
気づけば独りごちていた。やはり距離はかなりあるように感じられる。しかし灯台から手前の砂浜、別荘の建つ小山まで見えた。エリさんのテントが見えるかなと思ったが陰に隠れているようで場所がわからなかった。
そこではたと気づいた。テントほどの大きさがあるものですらよく見えないのに、すばしこく動き回るきつねを目視で確認できるだろうか。弓矢の達人の目をもってしても難しそうに思われた。エリさんが空飛ぶきつねと言い出したのも無理はない。どうやったら地表にいるきつねを射落とす方法があるのか、まったく思い浮かばなかった。
「きつねが空を飛ぶ」
呟いて優子は唐突に思い出した。それはこの間見た夢の内容であった。視界の右端を白いものがよぎった。鳥のようだったが鳥にしては翼が小さすぎる。よくよく目をこらすと翼だと思ったものが前足だということが分かった。きつねだった。白い九尾のきつねが空を飛んだ。ぐんぐんとこちらに近づいている。年月を経て霊力を増したにしてはくたびれたところがない。毛並みがつやつやと光っていた。男が大太刀を振り上げた。きつねのものらしき甲高い鳴き声が耳をついた。優子は思わず深く目をつぶり、
目を開けると曇り空が広がっていた。
「大丈夫ですか?」
知らない声である。優子は怪訝に思って首をひねり、そのときの違和感で自分が砂浜の上に仰向けになっていることに気づいた。
だいじょうぶです、とあやふやな声で答えながら上半身を起こした。頭がぐらぐらした。調子に乗って歩きすぎたに違いない。やってしまった、と思いながら左手で額を支える。声の主は海の家のスタッフであるようだった。
「急にぱたって倒れたんで走ってきたんですよー。よかったー、すぐ気がついて」
よく見ればだいぶ若い。大学生アルバイトかもしれなかった。
「すみません、たまにこういうことがあって」
とりあえず謝った。謝りながら右手が空なことに気づいて焦った。ララのリードがない。
「わんちゃんならいますよ、大丈夫」
わんちゃん、と優子はオウム返しに呟いた。ララという犬とわんちゃんという呼び方が頭の中でイコールになるのに少し時間がかかった。
「リード持てます? もう少し休みます?」
アルバイト氏はララのリードを持っていてくれていた。大変恐縮に思いながら優子は頷いた。少し休まなければまたどこかで倒れる。肘と膝が少し震えた。
「もしご迷惑でなければお店で休んでも良いですか? レストラン営業はなさってますか?」
喉の奥が貼り付いたようにひりひりしたが何とか声が出た。よく考えてみれば水分補給を怠っていた。
「あ、お食事でもお茶でも大丈夫ですよー! ご案内します!」
明るい声に引っ張られて優子はゆっくりと立ち上がった。
----
優子とララが歩いた地図はこちら↓
https://note.com/piggiesagogo/n/n4e6b9d26765
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます