ファラフェル - 2
しばらくは全員黙々と食事に向かい合っていた。優子が食べきれるかどうか逡巡しつつ三つ目のピタパンに手を伸ばしたとき、エリさんが口を開いた。
「結局そのきつねは生物学上の狐なの? それとも妖怪なの? 」
優子と同じ疑問、荒次郎の件である。優子は質問を受け取ったことを示すために頷きつつ口の中のものを咀嚼した。
「正直、遠野さんの言っていたことを私がきちんと理解できているとは思えないんですが」
前置きをして説明する。狐が年を経て九尾になる。これが可能性その一。もしくは九つの尾は狐が複数いたことの名残である。たくさんの狐を狩り、たくさん埋葬してきた。個々の狐に関する記憶は薄れて、九尾だけが残る。こちらが可能性その二。云々。
「害獣として駆除された狐がたくさんいて、それらの慰霊のために九尾のきつねっていう話が後から生まれたと。一匹一匹の狐は忘れ去られる運命にある、最後には大きな物語しか残らないんだっていうのがあのきつねマンの見立てなわけね。若いのにずいぶん諦めたものの見方するんだなあ」
エリさんの言葉に優子は目を丸くした。要約が悪かったわけではない。むしろ全体やら概念やら個やらという話を聞いて「大きな物語」とはよくまとめたものだと思った。問題は遠野のあだ名である。
「きつねマンって何だよ」
ゲンさんも同じことを思ったらしい。エリさんがそのあだ名を口にした瞬間にくぐもった咳が聞こえた。むせたのだろう。
「いやどう考えてもきつねマンでしょ。普通知り合ったばかりの他人とご飯食べながら狐を殺す話するか? しかも相手はペット可アパートのオーナーだよ? おかしいでしょ」
「お前が常識を語るな」
苦言を呈するゲンさんは未だに何回か咳払いを繰り返している。優子は手に持ったコーヒーを見て危ないところであったと思った。口に含んでいたら優子も似たようなことになったかもしれなかった。
「そのあだ名は……私もちょっとどうかと思いますけど」
心に残りすぎるのである。もうすでに忘れるのが難しそうなのが最も深刻な問題だった。
なんだよー、と不満げなエリさんを半ば無視して優子は尋ねた。
「エリさんの言い方だと、遠野さんとは意見が違いそうですね」
エリさんはえー無視すんなよ、いいじゃんきつねマン、などとぶつくさ言っていたが優子の言葉には頷きを返した。
「そもそも狐ってあっちの世界の生き物って感じするじゃん」
「あっちの世界」
「妖怪とか幽霊とかさ。化かしたり化かされたり、お稲荷さんになったり人を陥れたり」
「ごんぎつねも悪者だと勘違いされて殺されるんだもんな」
ゲンさんも同調した。優子は小学校の教科書で読んだごんぎつねの話を思い出すためにしばし考え込んだ。孤児の狐が人間に貢ぎ物をする話だったように思う。
「ごん、おまえだったのか」
エリさんがゲンさんをまっすぐに見て言った。視線を上げた優子の顔に疑問符が浮かんでいるのを認めたらしく解説が続いた。
「最後の台詞がそんなんだったでしょ、ごんぎつねって。お土産持って来てたのはお前だったのか、知ってたら殺さなかったのに、っていう」
未だ思い出せない優子はそうだったかと曖昧に頷いた。自分にとって都合が良ければ殺さないというのも何だか身勝手なような気がした。
「そういえば」
優子はふと思い出して言った。
「私もさっき化かされたかと思ったんです、エリさんがきつね浜だって言ったのに行き止まりになってたとき。昔話の狐のお家みたいで」
「現代で狐に化かされるには相当才能がいると思うよ」
「才能」
エリさんの言葉をオウム返しした優子を見てゲンさんが笑った。
「優子ちゃんならいけるかもしれない」
優子は眉間にしわを寄せながらゲンさんを見た。
「いや、悪い意味じゃないんだけどさ。エっさんが言いたいのは信じる力みたいなもんでしょ」
「そうそう、我々疑うじゃん。狐火を見たらリンが燃えてるんだって言うし、幻覚を見たら具合が悪いのかな、憑依された人は精神疾患なんだろうな、幽霊を見てもたぶん人だったんだろうなって」
そう言いながらエリさんは優子に向かって片目をつぶった。さっきの腹切り松の話だろう。
「別に昔の人が迷信深かったとかそういう話じゃなくてさ、現代はよりそれっぽい選択肢がどっさりあんのよ。だから普通はみんな狐を選ばないわけ、選択肢の中からね」
「だから現代では狐は人を化かさない」
いや、化かせないのかもしれない。
「あとそもそもさあ、ここ人里なんだろうか」
エリさんがさらに指摘を追加した。そういえば遠野は狐を「人里に降りてきた子育て期の害獣」と表現していたのだった。
そうであったという顔をする優子にゲンさんが尋ねた。
「遠野くんは人里って言ってたわけね」
「人里に降りてきて田畑を荒らすから害獣として駆除されたんだろうと」
頷いた優子はほのかな違和感を抱いた。それがなんであるかはエリさんがすぐに解明してくれた。
「遠野くんっていつの間にそんな仲良くなったんあんたらは」
容赦ない突っ込みである。
「何回か店に来てくれたんだよ」
ゲンさんは悪びれる様子もなく答えた。
ちゃーを見つけたお礼に菓子折を持って遠野の会社を訪れたゲンさんだったが、遠野は不在だった。そこまでは優子も聞いている。その後今度は菓子折のお礼にと遠野がゲンさんを数度尋ねていたらしい。
「二、三度飯食って、一度ダックワーズも買ってったよ」
どうやら遠野もダックワーズが気に入ったようであった。
遠野とゲンさんの関係性が思っていた以上に広がっていたことに優子は動揺した。動揺して、そんな自分に少なからず苛々した。
「まあ、それはそうと。小規模ながら人里、ではあるかもしれないけど畑はないな」
ゲンさんが話を戻して頷いた。
坂の上なら畑があった。畑を荒らす狐を海辺まで追ってくるのは非現実的なような気がした。そんなに長い間追跡していたら野生の獣は人間から姿を容易にくらませてしまうだろう。優子は今しばし動揺から立ち直るのに時間が必要なように感じたが、とりあえず話についていくために頷いた。
「個と全体、ねえ」
エリさんが呟いた。
「せっかくみんな必死に生きてるのにさ、忘れ去られて大きな物語に吸収されてしまうんだとしたらやりきれないやね」
優子はエリさんの言いたいことが分かるような分からないような、何とも言えない心持ちになった。背中がかゆいのに掻いてみると本当にかゆいのはそこではないことが分かる、そんなようなもどかしさだった。
「荒次郎のきつねは妖怪だったんだと思いますか」
「まあ何せ空飛んでる説を提唱してるからね、あたし」
エリさんは笑った。弓矢で射る、上空から落下する。「浜に落ちる」という言い回しには、空飛ぶ生き物がふさわしいように思われた。鳥のように。
鋭い鳴き声が宙を切った。優子が見上げると、翼を広げた鳥が曇天を背に大きく円を描いていた。
「そら、いらっしゃったぞ」
ゲンさんが言って、慌てずしかしてきぱきと容器を重ねはじめた。鳶である。
優子には殆ど経験のないことだが、海辺で食事をしていると文字通り鳶に油揚げをさらわれる経験をするらしい。
「たとえば手にハンバーガー持って歩いてるでしょ、しゅって風を切る音がしてぱしーん、次の瞬間右手の中には空の包み紙しかないわけ」
若き日におけるエリさんの実体験であるらしい。部活帰りの高校生にとってはさぞかし腹立たしいことであったろうと優子は聞いて思った記憶がある。
鳶にさらわれそうなものをすべてテントの中に格納したところで人心地が付いた。鳴き声がやかましくなっていると思った優子がもう一度空を見上げると、鳶の数は三羽に増えていた。
「仲間呼んできたねー」
そう言いながらエリさんがミニトマトを頬張って外に出てきた。右手には三人が使った割り箸を持っている。優子がどうするのかと思って見ていると、エリさんはそれをソロストーブの中に放り込んだ。食事道具兼燃料というわけだった。
ぱちぱちと燃える火を見ながら、優子はふとエリさんの最初の質問にずっと答えていなかったことに気づいた。
「きつね浜のお話には続きがあるんです。エリさんの言っていた祟り、と同じ話だと思うんですけど」
狐塚が走り回る話である。優子は簡単に遠野に聞いた続きを説明した。
「なるほどねえ。しかし狐塚とは馬頭観音みたいだな」
エリさんは狐塚そのものに興味を持ったらしい。
「ばとうかんのん」
「この辺りはどこも坂が酷かったって言ったでしょ。坂の上り下りで死んじゃう馬も多くて、そういう事故が多かったところには馬を供養する専門の観音が建ってんのよ」
「専門の観音」
響きがすごい。
「そう考えると個と全体、って話もあながち信憑性がないわけでもないのかもしれないねえ」
「飲食でも包丁慰霊碑とか、魚の慰霊碑とかあるからな」
ゲンさんも頷いた。そういえば動物園にも慰霊碑があるんだったな、と優子は思い出した。
エリさんはテントに頭を突っ込んで、もうひとつミニトマトを頬張って出てきた。湿度の高い薄曇りの中で、赤い球形が優子の視界に強く残った。
優子は三つ、エリさんも三つ、ゲンさんは五つ。平らげたピタパンの数である。食事を終えて胃を休めていると、先ほどの鳶が一羽波打ち際に降り立った。優子たちのテントからは十メートル以上離れている。辺りを睥睨する様はそれなりに威厳が感じられた。
「ララがいると安心ですね」
そう優子が言ったのはララが立ち上がって鳶を睨みつけていたからである。しかしエリさんはどうかなあ、と言った。
「翼を広げるとでかいからねえ、鳶。お嬢は負けてしまうのではなかろうか」
ララが不満げに飼い主を振り返ったので優子は思わず鼻から息を小さく吹き出した。どこまで会話の内容を理解しているかは人間には分からない。しかし恐らく犬は犬で自分が過小評価されたように感じたのだろう。
「いやだって一メートルくらいある上にかぎ爪が付いてるんですよお嬢様。あんたじゃ話にならないでしょ」
エリさんはそう言いながらララのお尻を軽く叩いた。
鳶はしばらくの間テントの隙を伺っていたが、守りが固いと見て諦めたようだった。翼を数回強く羽ばたかせると、あっという間に小さな点になってしまう。仲間の鳶も撤収したようだった。
「鳶は一羽でも孤独に見えませんね」
思わず独り言のように呟いたのはこの間見かけた季節外れの鷗のことが頭にあったせいである。海岸沿いの遊歩道をずっと歩くと、若山牧水の歌碑がある。有名な歌が刻んである。「しら鳥は かなしからずや そらの青 海のあをにも そまずたゞよふ」である。白い鷗を見たとき、優子は真っ先にこの歌のことを思い出したのだった。
「いっぱいいるとくるくる回ってる間に衝突事故起こしそうだしね」
ゲンさんがのんびり答えた。
しばらく休むとゲンさんはシュノーケルを持って海へと戻っていった。戻っていくというのは人間には似つかわしくないのだが、なぜかゲンさんにはぴったりなように思われた。
お腹もいっぱいになり、ゲンさんも出かけ、本格的に暇になってしまった。ララもつまらないようであちらへうろうろこちらへふらふらしている。ときたま優子たちのほうをちらりと見やる。何かが伝わってくる。
「エリさん」
優子はとうとう根負けして声を発した。当のエリさんはというとテントの中でごろごろしている。
「私ララと散歩に行ってきても良いですか」
「まじで、助かる」
エリさんも飼い主の義務については薄々承知していたようであった。
「あたしゃちょっと寝ますわ。昨日の〆切がやばくて今日ちょっと寝不足なんだよね」
そういうことは先に言ってくれと優子が思うような発言が続いた。エリさんの「ちょっと寝不足」は優子に言わせれば「殆ど寝ていない」である。これまでの経験から知っている。
優子はゲンさんが泳いでいった海を見やった。シュノーケルを付けてゆっくりと湾を巡ると言っていたので、一、二時間は帰ってこないだろうと見当を付ける。それであれば優子も行ってみたいところがあった。
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