ファラフェル - 1

寄せては返す波の音とは違う、不規則なばしゃばしゃという水音がして優子は海のほうに目を向けた。ゲンさんも帰ってきたのだった。


「腹時計が正確な人たちがふたりとも戻ってきたってことはお昼だな」


エリさんの言葉にスマートフォンを見ると、確かにもう正午にさしかかるところだった。


ゲンさんがずんずんとこちらに向かってきた。


「ここの海やばいわ」


開口一番である。九尾のきつねと荒次郎と腹切りについて考えていた優子はとうとう海坊主でも出現したかと思った。


「めっちゃきれい」

しかしゲンさんの「やばい」は褒め言葉であったらしい。


「そう言ったであろう」

エリさんは満足気である。


「午後はシュノーケルで泳ぐわ。絶対ウミウシとかいた、よく見えなかったけどいた」


こういうときのゲンさんは生き物に対してどういうスタンスで応対しているのだろうかと優子は思った。食材だろうか。しかしゲンさんだって猫飼いである。ちゃーが食材になるわけがないからやはり目で見て楽しむという視点になるのだろうか。


「楽しみたまえ」


あたしゃこんな寒い日は海水浴なんか勘弁だけどねえ、とエリさんは続ける。晴れていれば日はが十分高くなる時間帯だが、優子は相変わらず長袖の上にカーディガンを着たままだった。筋肉もウェットスーツも装備していない一般人にとっては確かに泳ぐに寒い。


「でもなんか俺ばっかり泳いでて悪いな」


一緒に泳ぐ? とでも言い出しかねないゲンさんに向かって優子は全力でかぶりを振った。


「大丈夫です、見てるだけで十分。傷も治ってないですし」


蒼に引っかかれたところはようやくふさがったように見えてきたところだった。抜糸のいらない糸なのであとは放置、破傷風の注射だけもう一回受けに行かなくてはならない。ありがたいことに猫ひっかき病にも罹らなかった。そういえばそうだったとゲンさんが眉を下げると、エリさんが笑った。



「しかしふたりとも午前中何してたわけ? 暇じゃない? 」

ゲンさんがウェットスーツの上からタオルで身体を拭きながら尋ねた。


「そうね、コーヒー飲んで、空飛ぶきつねと幽霊の話してた」

「なんだよそれ」


ゲンさんが怪訝そうにしている横で優子も首をかしげた。狐と幽霊はともかく、空を飛ぶとは一体何の話なのか。


「この浜にきつねがおりました。あるときお殿様がやってきてきつねを矢で射ました。きつねは浜に落ちました。それ以来この浜をきつね浜と呼ぶようになったそうです。ちゃんちゃん」


あまりにも簡略化しすぎている気がするが遠野が語って優子がエリさんに伝えたきつね浜の由来である。やはり飛ぶ要素はどこにもない。エリさんが昔看板で読んだ知識も混ざっているのだろうか。


「何それ」

「この浜に伝わるお話らしいです」


優子は簡潔に説明した。遠野の名前を出すことがどうにも憚られたのは猜疑心からである。長沢さんと津久井さんの次に遠野と接点がありそうなのは、やはり脱走したちゃーを確保してもらったゲンさんだろう。


「昔話のきつねが空を飛んだ?」

ゲンさんの疑問ももっともである。


「だって矢で射て、落ちたんでしょ。どこから落ちたよ」

エリさんが右手を振った。周りを見てみろという仕草である。


優子は視線で周囲を改めた。崖というよりは小山といったほうが良さそうな高台が連なっている。小山と小山の間に、午前中に三人が通ってきた笹藪があった。小山の木々の合間には、いくつか別荘のような洒落た家が建っている。急斜面ではないのだろう。


優子は「道路改修記念碑」の手前にあった下り坂を思い出した。緩やかとはいっても、海岸近くまで下りて来るまでに高低差はそれなりにあったはずだ。切り通しのなかった時代は崖伝いに海岸まで下りてきたのだろう、とエリさんも言っていた。


「その辺の上から射落としたんじゃだめですか」


優子は曖昧に小山の頂上辺りを指さして尋ねた。エリさんは首を横に振っている。


「あんなに木がもさもさ生えてるところで飛び道具なんか使ったら死人が出ますよ。視界が悪すぎる」


もっともであった。優子はほかにどこか高いところはないかと見回したが、あるのはせいぜい灯台くらいのものだった。さすがに中世に灯台は存在しないだろう。



「砂浜からちょっと上の岩場にいるきつねに向かって矢を射てさ、たまたまきつねがよろめいて落ちてきたっていうのはどうよ」


ゲンさんの推理である。その程度の落下をあえて「浜に落ちた」と表現するかどうかという問題はあるが現実的な解答だった。


「それはありうるよね。でも下から射るなら、あたしゃこっちじゃなくてあっちからだと思うよ。ふだんからあっちに住んでた可能性があるわけでしょ」


エリさんは対岸を指した。例の幽霊が出る、荒次郎が果てた現場かもしれない城址である。不思議そうな顔をしているゲンさんに優子は三浦氏のこと、城のこと、笠懸のことを簡単に説明した。


なるほどねえ、と腕を組むゲンさんを見ながらエリさんはケトルに再度水を注いだ。


「まあそれも微妙だけどね。あっちからこっちまで矢が届くかねえ。笠懸だって安全だから海に向かってやってるんだろうし」


優子は学校の部活にあった弓道を思い出した。五十メートル、百メートルならまだ分かる。しかし優子が立っている場所から対岸までは軽く見積もって数百メートルあるように思われた。エリさんの言葉に頷きかけて、遠野の言葉が脳裏をよぎった。


「荒次郎さん、身長が二メートルくらいある巨漢だったみたいなんです。大きくて力がある人が大きい弓を引いたら、あるいは」

あちらの浜からこちらの浜まで矢が届くかもしれない。


エリさんはほう、と言った。

「だとすればやっぱきつねは空を飛んでたんじゃないかね。あっちから弓をつがえる、射る、空を飛んでるきつねを射落とす、勢いでこっちの浜にどさん」


「問題は空を飛んだ瞬間もろにファンタジーになっちゃうとこだな」


大きなバスタオルで身体を包みながらゲンさんが言った。ウェットスーツを着替える手間を省いて食事を摂りたいらしい。そういうことなら、と優子はクーラーボックスを取りにテントへ入った。


「まあそもそも九尾のきつねですし、史実かどうかも分からない言い伝えですし、ファンタジーと言えばそうなのかもしれません」


クーラーボックスは意外と重かった。よっこいしょとテント前の砂浜に置く。ゲンさん特製ランチが詰まっていると噂のクーラーボックスなのである。


「それでは」

ゲンさんがクーラーボックスのふたを開けた。


まず出てきたのは大量の鶏ハムである。これとそれ、好きなほう使って。そう言ってゲンさんは二種類のソースを出してきた。優子がのぞき込もうとすると隣から黒い鼻面が出てきた。


「乳製品だね」


それを見たエリさんが言った。お嬢様は乳製品に目がないのである。


「ヨーグルト使ってるけどしょっぱいからララはだめだぞ」


ゲンさんはそう言いながら次の容器を出している。


ふたを開けると丸いコロッケのようなものがぎっしり並んでいる。優子には見覚えのない食べ物であった。


「む、ファラフェル? 」

エリさんの問いにゲンさんは笑顔で頷いた。


「どこの食べ物ですか? 」

「中東かな。ひよこ豆のコロッケ。今日食べてもらって旨かったら店でも出したい」

ゲンさんが解説してくれる。優子は頷いた。すでにもう美味しそうである。


「ピタパンもあるよー」

丸いのを半分に切ったピタパンが登場した。


「あと、ここにサラダがあるので適当に一緒に入れて、食べる。以上! 」

最後に出てきた大きな容器にはこんもりと生野菜のサラダが入っていた。


ケトルがかたかたと音を立てる。エリさんが再びコーヒーを淹れる準備をしはじめた。


渡された割り箸でピタパンの中に食べたいものを放り込んでいく。最後に好きなソースをかける。ピタパンごとかぶりつく。取り皿すら必要ない簡便さと食材の豊かさが両立する見事な昼食であった。ひよこ豆のペーストを丸めて揚げたのだというファラフェルは優子の予想よりも柔らかい食感で、しかし噛むとぎっしりと豆の味がする。


「鳶が来たらテントの中に避難するからよろしく」


エリさんが上空を見ながら言った。優子も釣られて空を見上げた。一面の曇り空で視界はあまり良くなかったが、動くものはないように思われた。


ララはと言えばゲンさんから別容器に盛った特製弁当を貰っていた。ファラフェルもある。容器が地面に置かれるまでのララが非常に良い姿勢を保ってゲンさんを見上げていたのが可笑しかった。


「ララのはスパイス抜きなんですか」


ファラフェルを咀嚼すると辛くないインドカレーのような風味がする。スパイスなのだろうと優子は思った。


「そう、タマネギもニンニクも塩こしょうも入ってない、犬猫用特製ファラフェル。人間にはちょっと味気ない」


ゲンさんが笑った。犬猫、ということはきっとちゃーも自宅でできたてを頂いたのだろう。


「旨いな」


ピタパンとコーヒーカップの間を行ったり来たりしながらエリさんの口が呟いた。優子も深く頷いた。

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