きつね浜 - 3

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むかし、むかしある海辺にきつねが暮らしておりました。豊かに緑が生い茂った小道の上の空はどこまでも青く、茂みの先の海は澄んでいました。きつねはいつも空を見上げ、海を見下ろして、その美しさを眺めるのが好きでした。


あるとき領主のお殿様がやってきました。お殿様はきつねを狙って自慢の弓を引きました。


矢は見事に的を射て、きつねは浜に落ちました。それ以来、その浜のことを「きつね浜」と呼ぶようになったということです。


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「このお殿様は三浦荒次郎という名前だったと遠野さんが言っていて」


優子が話を締めくくるとエリさんがふむ、と呟いた。

「あたしは細部を全く覚えてないことが分かった」


優子は少々残念に思ったがやむを得ないと思い直した。興味がなければ覚えているかどうかも分からないような話である。


「もともとこんなアクセスの悪い浜じゃん。昔は地元の人しか存在を知らなかったわけ」

エリさんの解説が続く。


「あたしは小学生のとき友達の親に連れてきてもらったんだけどね。ここは狐やら侍やらのお化けが出るところだから勝手に遠くまでうろつき回るなとか脅すわけ」


優子は辺りを見回してみた。海を背にして左手には別荘らしき建物が見え、その下には岩場に食い込むように擁壁が作られている。岩と擁壁には頻繁に波しぶきが上がっていた。海ぎりぎりまで擁壁がせり出しているわけで、水の中に入らずにその先へ進むのは不可能そうだった。反対側の右手はぐっとカーブを描いているのでよく見えない。しかしやはり崖に行く手を阻まれているように見えた。


「うろつくといってもそんなに遠くまで行けそうにも見えないですけど」

「さっきの浜あるでしょ、車停めたとこ」

優子は頷いた。


「潮が引いてるときならあっちのほうに抜けられる道があるんだよね。ただ満ちてくると海の真ん中で立ち往生する。子どもだけだと判断ができなくて危ないから」

「だからお化け」


侍が出てくるのがよく分からないがきつね浜の由来からの連想だろうか。しかしエリさんの意見は違うようだった。


「いや、お化けはたぶん別の話」

「ほう」

間抜けな相づちを優子は返した。


「あっちのほうの話だと思う」

エリさんが指さすのは灯台に向かって右手である。優子がいる位置からはよく見えないが、波しぶきを上げている別荘のさらに奥に大きめの湾が広がっているらしい。入り口が狭く、奥行き深い湾のちょうど入り口辺りに優子たちはいるようだった。その入り口の対岸をエリさんが指さしている。


これまで気に留めていなかったが、対岸にも砂浜があってその奥にこんもりとした森があった。崖に木々が生えて森になったのだろう。砂浜と木々の際に建物がいくつか建っているようだったが、優子の目を惹いたのは別のものだった。


「あれなんですか」


指さしたのは浜から離れたところにある、森の中に抱かれるようにして建っている茶色い建物だった。遠くからなので細部はよく分からない。しかし建築様式が普通の民家とは違うように思われた。どこか物々しい雰囲気がする。


「あれはね、東大」

「とうだい」


先ほどの話があったから灯台かと思った。しかしエリさんも誤解の可能性は十分に承知していたようでにやにやしている。気づけばケトルから湯気が出ている。エリさんはコーヒーを淹れる準備をしながら言った。


「灯台じゃなくて東大ね。東京大学」

「東京大学」


突然の帝国大学出現に優子は面食らった。そもそもここは東京都ですらない。


「なんたら実験所っていう施設だよ。ここから見えないんだけどあの森の先に水族館があってね。子どもの頃セットで行きました」

「何を実験してるんですか」

「よく分かんないけど海の生き物を採取してきてどうたらこうたらしてるみたいよ。生物系? の人たちがいるんじゃなかったかな」


実習施設も兼ねているのだろう。優子は頷きながら、自分が話を逸らせてしまったことに気づいた。


「すみません、お化けの話でした」

「あ、でもわりと関係あるのよ。あそこ一帯を東大が買えたのも、幽霊が出るって言って地元の人が寄りつかなかったせいだって聞いた」

「何があったんですか」


地元の人が寄りつかないほどに忌まれる場所をわざわざ買うのも酔狂だが、所詮迷信と言ってしまえばそれまでである。近代科学の牙城としての矜持もあったのだろうか。


「お城があったの。籠城に破れてみんなが討ち死にしたお城」

「荒次郎じゃないですか」


思わず声を荒げていた。先ほどの引橋のことを優子は思いだした。天然の要塞。この場所はまさに城そのものだったのだ。


エリさんはコーヒーを淹れながら気圧されたようにおう、と言った。

「確かに三浦さんちのだったけど、荒次郎って名前の人はいたかなあ」

近所の人の話でもしているかのようである。


「でも普通ほかに籠城して討ち死にする人いないですよね」

「それがいっぱいいんのよ、三浦さんち」


これが日常会話なのはおかしい。絶対におかしい。優子はそう思って眉間のしわを深くした。しかしエリさんは大変な時代だったんだろうねえ、などと言いながらステンレスのマグカップに入れたコーヒーを渡してくる。砂糖とミルクいる? と聞かれたが首を振った。


「それは荒次郎と同年代ってことですか」

「いや、年代は違うべ。平安時代の終わりから戦国時代にかけて、武士も貴族も皇族もあっちやこっちで揉めたり分裂したり裏切ったりして、その度に戦争になってたわけでしょ。で都度誰かが籠城したり討ち死にしたりすると」


優子は眉間のしわを深くした。言われてみれば確かにそうで、この国の歴史はおおよそ内戦の歴史と言える。きつねを狩ったのはその時代に生きた人々なのであった。


「こないだあたし笠懸見に行ったでしょ」

エリさんの言葉に優子は頷いた。そもそも今日海に来るきっかけになったのがエリさんの笠懸動画である。


「あれやってたのがそこの浜」

エリさんが再度指さした。浜と森の境にいくつか建物が建っている辺りだった。


「あたしはあの海の家、あ、今見えてる建物ね、あの辺りに立って海のほうを見て動画撮ったの。笠懸のプレイヤーはこう、こっちからあっちへ馬を走らせて、海のほうに矢を向けて射るわけ」


身ぶり手ぶりで説明してくれる。言葉だけでは何が何やら分からないが動作から概要が分かった。海岸で馬に乗る。馬と海との間に的が立っているので海のほうに矢を向けて射る。もし的を外れたら今優子たちがいるほうに矢が飛んでくることになる。


優子はコーヒーをすすった。暖かく、甘みがほのかにあって、そして苦かった。湯気が目前で揺れて対岸の浜が少し霞んだ。


「笠懸は慰霊のために行われたりするんですか」


「だと思うよ。あたしゃ笠懸見に行って辺りを冷やかすくらいしかしないから詳しくは知らないけど。ただ、お祭りの名前は道寸祭りだよ。荒次郎って名前は聞いたことないな」


優子はといえば、道寸という名に聞き覚えがあった。


「三浦道寸、荒次郎のお父さんですね」

優子は呟いた。ふたりとも、恐らくは志半ばで自害した。この場所で死んでいったのだ。



「三浦氏の話はあまりしたくないんですか」


ふと優子は尋ねた。ただの勘だった。エリさんはこの辺りのことに詳しいのに、きつね浜や三浦氏についてはいきなり話が雑になるように感じたのだった。エリさんは黙って加熱式たばこのスイッチを入れていた。しばらく待つとスイッチのそばに付いているLEDの点滅が点灯に変わる。エリさんはまず一服、そしてもう一服ほどして細長く水蒸気を吐き出した。


「うちの学区内に駄菓子屋があってね」

うち、とはエリさんの実家のことだろうと優子は見当を付けて答えた。

「はい」


「学校を挟んで反対方向にあるからあたしは普段は行かないの。ただ遠足のときは予算内でできるだけたくさんのお菓子を持って行きたいじゃん。だから前日、前々日くらいはクラス中全員っていって良いほどその駄菓子屋に集結すんだよね」


優子は頷いた。遠い記憶だが優子にも似たような覚えがあるから良く分かる。三百円程度でよくあれだけ色々買い込んだものだとも思う。消費税が三パーセントだった時代である。今思うとお店の人大変だっただろうなあとエリさんは呟いた。ひと学年百五十人やで。


「うちの学区にも三浦氏の墓やら城やらがあってね、やっぱり籠城して死んでる人がいるわけ。最後は城に火を付けて自害したっていうんだけど、それが駄菓子屋の目と鼻の先。腹切り松公園っていう児童公園になってんの」


「はらきりまつ」

独特な固有名詞ばかり飛び出す日である。それにしても子どもが遊ぶ公園に付ける名称だろうかと優子はセンスを疑った。


「しかもご丁寧に松の木が植わってんだよね。松の木の下で腹を切ったっていう伝承があるわけよ。低学年のころ帰りに鉄棒で遊んでたら、夜になるとここに腹を切った幽霊が出るんだぞって知らない上級生が脅してきた」


鉄棒を先に使われてご立腹だったのだろう。子どもらしいといえば子どもらしいが陰湿である。


「そんときは嫌な奴だなーって思って忘れてたんだけど、次の年かなんかにその近くに住んでる子と仲良くなって」

優子はうっすらと話が見えてきたように思って頷いた。


「その子んち遊びに行ってね。冬だったの。五時のチャイムで外に出たらもう真っ暗なわけ。急いでチャリンコこいでたら腹切り松公園のこと思い出してちょっと寄ってみた」


「出たんですね」

主語を除いた優子の言葉にエリさんは頷いた。


「チャリンコを停めて公園の入り口から覗き込んでね。街路灯が照らすとこ以外はもう真っ暗よ。ぐるっと見渡して、やっぱお化けなんかいないよねーって思って帰ろ帰ろって背中を向けた瞬間にね、ガタン! って大きな音がしたの」



「後ろは怖いですね」

優子は相づちを打った。見えないのも怖い、かといってわざわざ振り返って確認するのも怖い。


「しばらくフリーズしてたような気がするんだけど、音は続かない。そろりと動こうと思ったそのときよ。かさ、かさ、かさって音が近づいてくる」


冬のことである。風で落ち葉が動いただけかもしれない。そうでないかもしれない。人間は目で見ていないことを正確に知覚できない。


「ひえええって思ってまた動けなくなった瞬間にね、公園の向かいにあるアパートのドアが開いた。電球が眩しかった。それで我に返って、後のことはよく覚えてないけどすごい勢いでチャリンコこいで帰った。あれは怖かったな」


冷静に考えれば可能性はいくらでもある。もしかしたら変質者がいたのかもしれないが、野良猫だったのかもしれないし、誰かが忘れた野球バットが倒れただけかもしれない。しかし子ども心に恐ろしかった体験が三浦氏の切腹と重なったのだ。エリさんが良い印象を抱きにくいのもやむを得ないかもしれない。


「なんか呪いっぽくてね」

エリさんの言葉に優子は首をかしげた。

「呪いですか」


「どんなに栄華を極めても、努力して地位を手に入れても、最後はひとり寂しく戦って負けるしかないんだって、そう言われてる気がしちゃうんだよね。三浦氏の話聞いてると」


まあそんなこと言ってても笠懸面白がって見に行くんじゃ形無しよねー、と呟いたエリさんは手を伸ばしてララの顎をちょいちょいとくすぐった。犬は探索に飽きたのか、いつの間にかテントのところまで戻ってきていたのだった。

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