きつね浜 - 1
予想通り、五月が終わる前に長沢さんの、そして数日後に津久井さんの退居申し込みがあった。優子はさして驚きもせずにその連絡を受けた。ただ、これから一緒に散歩に行けなくなるノエルのことだけは少し心配だった。
退居の連絡は坂下さんを経由して来た。坂下さんは祖父の代からあけぼのとしののめの仲介を手がけている近所の不動産屋である。付き合いがあるので、優子が管理を引き受けてからも契約は坂下さんに任せきりだった。
この町に来て一年半ほどが経った。そろそろ覚悟の決めどきなのだろう、二度の電話を受けて優子はそう思った。何の覚悟なのかから考えてなくてはならないことだけが面倒ではあるが。
そうして六月とともに梅雨が訪れた。ここ数年は梅雨入りした途端晴れ上がる日が続いていたが、今年の梅雨はしとしととよく降るようだった。梅雨入りしてしばらくして、なんとか雨が降らずに重たい雲が持ちこたえている朝が訪れた。以前から約束していた海行きの日だった。
アパートの駐車場を出てからずっと海沿いを南下していた車が三叉路を右手に進んだ。左手に広がっていた海が遠ざかっていく。ゲンさんがボランティアでライフセーバーをしている海水浴場である。この辺りは海開きがやや早い。平年であればそろそろ海水浴客が波間に浮かんでいるような時期だが今日の浜辺に人影はまばらだった。
優子にとっては肌寒い日が続いている。母屋で作業する日は灯油ストーブを焚くこともあった。
薄く開けた車窓から湿った冷たい風が流れ込んできて優子の首筋をくすぐった。後部座席に座る優子の隣にはおとなしくララお嬢様が座っている。この天候だから犬でも大丈夫、そう言ってエリさんが連れてきた。毛のない人間には少々堪える曇天の日だったが犬には快適だろう。意外と細くてこしのない茶色の毛皮を見ながら優子はそんなことを考えた。
だらだらとした上り坂が続く国道である。建物が少なくなってきたころに左手にまた海が見えた。さっきよりも遠い。さらに続く坂を登り切ると、左右に西瓜畑が広がった。
「今年の西瓜はどうだかねえ」
運転席でエリさんが言った。西瓜は夏にかっと暑くならないと甘みが出ない。今年は長梅雨になると予報されていた。そろそろ太陽の存在を忘れてしまいそうな中では夏が暑いという当たり前の事実さえ絵空事のように思われた。
「あんまり雨が続くと腐っちゃうこともあるっていうしなあ」
助手席のゲンさんが呟く。大きな体が軽自動車の座席にぎゅっと納まっている。頭と天井が近い。
そんなこともあるのかと優子は思いながら窓の外に目をやった。海沿いに住みながらわざわざ違う浜に向かっている。贅沢な話である。海岸を離れて畑の中に突入してきたが、この先また坂を下って半島の反対側に出る予定である。
坂をぐんぐん下ると丁字路に出た。交差点にかかった信号には「引橋」とある。見渡しても海も川も池もない。優子は思ったことをそのまま口に出した。
「橋もないのに橋って、不思議ですね」
ああ、とエリさんが答えた。
「もうちょっと先に崖と崖をつなぐような橋があったらしいのよ、むかーしね」
その言葉通り、信号を左折してしばらく進むと道が陸橋になった。そしてまたすぐに地面の上に戻る。木が生い茂っているため注意深く見ていなければ気づかない。言われなければ陸橋があることすら分からなかっただろう。
「昔は行き来も大変だったんでしょうか。そんなに大きい半島じゃないのに高低差がすごいですよね」
北関東の真っ平らなところに育った優子は高低差がある道が苦手である。東京も坂が多くてなかなかきつかった。
「そうねえ、このへん切り通しが多いでしょ。通れる場所は限られてたんじゃないかな、うちの近くなんかも江戸時代は下っててお尻をこするほどの急坂だったとかいうところがあるし」
切り通しとは文字通り崖を削り切って道を通すことである。エリさんの言葉に優子は顔をしかめた。尻をこする角度とは崖ではないのか。坂と呼んで良いのだろうか。
「海岸も崖が多いから天然の要塞だったとか何とか言ってたねえ」
エリさんはこの辺りの産なので地誌に詳しいのである。優子はふうん、と頷いた。
道はまた下り坂になった。下りはじめると民家や商店が増えてきた。海沿いの市街地は海岸線に沿って発展する。上が畑で下が町中、その先に港である。町中に近づいたということは海にもまた近づいてきているのだろう。
しかし車が右折するとまた畑が見えてきたので、優子の方向感覚は完全に狂ってしまった。人影も車も少ない道をぐんぐん進む。しばらくするとまた陸橋にさしかかった。
今度は陸橋であることがちゃんと分かる。十メートルほど下で道路が直角に立体交差していた。交差する道は海岸沿いを走らせるために崖を切り通して作ったらしい。道路の両側にある切り立った斜面が擁壁で覆われていた。優子の位置からだと全体が凹字にへこんで見える道だった。
「ほんとにかなり崖を削って道を作っているんですね、道」
優子の感嘆にでしょー、とエリさんが言う。
「こっちの道はきっとずっと新しいんだよね。この道ができる前は下の切り通しをうねうね通うのが日常で、それより前の時代は崖伝いに降りていくしかなかったんじゃないかな」
車はさらに坂を下った。下りきると幅員が急に減少した。気づけば目の前が海だった。行き止まりかと思いきや細い道が左方向に直角に曲がっている。そこでエリさんはしっかりと減速した。曲がり角に風雨にさらされた石碑が建っていた。「道路改修記念碑」と読める。
そのまましばらく進むと古びた自治体の施設があった。二階の窓に大きく「駐車場一日五〇〇円」と掲出してある。エリさんは迷うことなく駐車場に乗り入れてエンジンを切った。
「あたしお金払ってくるからちょっと待ってて」
エリさんの声にはあい、と返事をしてとりあえず身一つで車外に出た。ゲンさんもそそくさと車を降りて体を伸ばしている。ララお嬢様を下ろすのは飼い主にやってもらったほうがいいだろう。
施設の先にはまた別の浜があった。唐突に道路が終わってその先が砂浜になっている。優子はだんだんこの辺りの地形が分かってきた。ところどころそびえる崖に海岸線が分断されて小さな浜が点在しているのである。崖はさっき通ってきた畑のある丘陵地帯から放射線状に分かれてまっすぐ海へと続いている。崖のない落ちくぼんだところに浜が形成される。
優子はふらふらと浜辺に足を踏み入れてみた。幅数十メートル、砂浜の奥行き数メートルほどのささやかな海岸である。砂浜の先に岩場が点々と続いて波に洗われていた。砂浜には小さなテントがひとつ張ってあった。岩場には釣り人の姿が散見される。浜の両脇は崖が海中まで突き出ている。そのため水平線の見通しはあまり良くなかった。この浜を上空から見たら馬蹄形をしているだろうと優子は思った。
優子がひとりでそんなことを考えていると後ろからゲンさんののんびりとした声が聞こえた。
「釣り人、多いなあ」
大きめの荷物を両肩から下げたゲンさんが眉を下げていた。いつの間にかエリさんも戻ってきていて、ララを連れて後ろに立っている。こんな梅雨寒の日に水に入るなどとんでもないと優子は思うが、ゲンさんは泳ぎに来たのである。釣り人がいるということはすなわち海中に釣り針があるということだ。そんな中泳いだらたしかに危険だろう。
「ちょっと移動しようか。徒歩圏内の別の浜に行ってみよう、そっちのほうが穴場だよ」
エリさんが言った。ふたりに異論はなかった。ララも澄ました様子で歩き出した。車で来た道を少し戻ると木製の大きな鳥居があった。その脇に木がうっそうと茂った細い道が伸びている。そちらへ進む。軽自動車同士であってもすれ違うのが難しそうな道幅だった。路肩の空き地には車が何台か停まっていた。
「この辺ってなんて言うんだっけ、浜、ええと」
歩きながらゲンさんが言った。車内で地名について教えてもらったのだが優子もすでに覚えていない。覚えにくい名前だった。
「浜諸磯」
「ああ、それそれ。なんか不思議な名前だよね、浜が後じゃなくて先に来るの」
「確かに言われてみればそうだなあ」
エリさんが同意した。
「でもね、今から行くとこにはまた別の名前が付いてるよ」
「なんていうんですか」
そう優子が尋ねたのは話の流れに乗っただけだった。なので返ってきた答えに驚いた。
「きつね浜」
「え?」
優子は思わず驚いて立ち止まった。後ろを歩いていたゲンさんが慌てた声を出した。ぶつかりそうになったらしい。ちょうど三方に笹藪が生い茂る行き止まりにたどり着いたところだった。波の音は聞こえるものの人間が浜に降りられそうな道がない。まさかエリさんも遠野とぐるなのか、悪い冗談を言っているのではないかと思った優子は険しい顔になった。
「海ねえじゃん、って思ったでしょ」
優子の心の中を半分だけ見透かしたエリさんがにいっと笑った。
「いやーその顔が見たかった、あはは」
ケラケラと笑いながら笹藪のほうへずんずん進んでいく。どうするのだ、と思ったところでエリさんの姿が消えた。道に迷った旅人が這々の体で辿り着いたひなびた民家にはひとりの老婆がいた。それは実は狐だったのだ……。どこかで聞いた昔話が脳裏をよぎった。しかし優子は二十一世紀の常識人としての判断を何とか取り戻して後を追った。
遠目にはまったく分からなかったが、笹藪の中に大人ひとりがようやく通れる細い道があった。少し進んだところでエリさんとララがなんということもなさそうな顔をして待っていた。
「ほい、行くよ」
そう言ってエリさんはどんどん先を歩いていってしまう。優子は自分の周りを見回してみた。ゲンさんの背丈よりも高い笹藪がびっしり生い茂っていて、笹と空しか視界に入らない。道は曲がりくねっているので後も先も見通しが良くない。まるで異世界に続いているような道だと、そんな経験もないのに優子は思った。
「こりゃすげえなあ」
ゲンさんも感銘を受けたように呟いた。
少し進むと笹と空しかなかった視界に別のものがぽっかりと現れた。白くて細長い塔のようなものである。笹藪の向こうにそびえ立っているのを見るにそれなりの高さがあるようである。優子は数メートル先を歩くエリさんに声をかけた。
「エリさん、あれなんですか」
振り返ったエリさんは優子の指さすほうを認めて答えた。
「ああ、あれね、灯台」
「とうだい」
思い描く灯台の形とあまりにもかけ離れているため瞬時に漢字を変換できなかった優子が繰り返す。
「海の灯台。おもーえよ、とうーだい、まもーるひーとのー、の灯台」
いきなり歌い出すエリさんであった。何ですかそれ、と眉間にしわを寄せた優子に対して大げさに驚いてみせる。
「文部省唱歌も知らないとは大卒の片隅にも置けないな君は」
余計なお世話である。優子がむっとしたところで久しぶりに視界がわっと開けた。目の前に海が広がっていた。
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