猫再び逃げる - 2
猫用のキャリーは昨晩下浦さんに貸したままなので手元にない。ゲンさんが自分の部屋からちゃー用のを持って来てくれた。さきほどの大暴れから打って変わって、蒼はキャリーの中でおとなしくしている。
優子はゲンさんの指示に従い、左腕を心臓より高い位置に上げて突っ立っていた。まっすぐ上げると血が腕を伝って垂れ落ちてくるので、前ならえを頭の横でやっているような姿勢になる。ゲンさんが脱脂綿で傷口を拭くとずきりと痛んだ。
「これたぶん縫うよ」
ゲンさんが眉をしかめながら言った。優子より痛そうな顔をしている。
そうですか、と返事をしながら優子は面倒なことになったと考えていた。血まみれの腕を抱えて近くの外科まで歩いて行くのか。
「大丈夫? エッさんに送ってってもらう?」
ゲンさんはエリさんのことをエッさんと呼ぶ。ちなみにこの三人の中で車を持っているのはエリさんだけである。
「あ、大丈夫です。タクシーで行きます」
優子は心を決めて言った。贅沢だがやむを得ない。
「ほんとに大丈夫?」
眉を下げているがそもそもゲンさんだって予定があったのではないか。そう優子が尋ねるとまた大丈夫大丈夫、と返ってきた。
「ちょっとくらい遅れても大丈夫」
優子は眉根を寄せた。「ちょっと」くらいはすでに過ぎてしまっている。予定があるならこれ以上遅らせるのは気が引ける。そもそも優子の過失に付き合わせている時点で申し訳ない。
「ありがとうございます、でも申し訳ないので自分でなんとかします」
優子の返答にゲンさんは渋々といった様子で頷いた。とりあえず猫を室内にしまわなくてはならない。優子の部屋に入れ、キャリーの中に水飲みを用意するところまでゲンさんに手伝ってもらった。その間に優子はタクシーを呼んだ。
結局三針縫った。破傷風の注射もされた。リンパが腫れてくるようなら内科を受診せよとのことだった。「猫ひっかき病」という冗談のような名前の感染症があるのだという。待合室で津久井さんと下浦さんにメッセージを送った。ふたりとも恐らく仕事中だろうから返信が来るのは遅くなるだろう。
帰りは歩いて帰ってきた。そういえば自分の血が地面にぽたぽた垂れていたのであった、と思い出してアパートの南側に回った。それなりに出血したように思っていたが、アスファルトを見るとぽつりぽつりと小さな血痕が付いているだけだった。事情を知らない人が遠目で見たくらいでは分からないだろう。洗い流したかったが明日以降にすることにした。何しろ今は傷口を縫合したばかりである。
そのまま一〇一号と一〇二号室のベランダも覗いた。下浦さんのベランダは再び窓が薄く開いていた。やはりやってしまった、と優子は反省する。両宅とも朝からずっと不在だったようで人影がなかった。
優子は少々重たい気持ちを抱えて自室に戻った。キャリーから蒼を出してやりたく思ったがもしまた脱走されたら困る。しかし何も食べていないのもかわいそうである。ストックしてあるおやつからパウチに入ったペースト状のをひとつあげた。猫は狭いケージの中でも嬉しそうに舐めていた。
津久井さんからも下浦さんからも返信がないまま夜になった。優子の左腕はやや熱を持ってきて痛んだ。気だるさが食欲に勝って外食する気にもならない。かといって二日連続でカップ麺なのも気持ちが沈む。仕方なく優子はパスタを茹でようと湯を沸かしていた。
ふと、外からトーンが高い声が聞こえた。思わず耳を澄ました優子はそれが長沢さんの声だと判別した。火と換気扇を止めると他の人の声もする。もう少し低いが女性だろう。優子はそっと音を立てないように玄関ドアを開けた。
共用廊下に首を出すと、階下にいるらしいふたりの声がよく聞こえた。津久井さん宅の玄関前で話しているのだろう。優子の今いる場所の真下である。下手に音を立てたら気づかれる、そう思って優子はその場に立ち尽くした。
「だからね、もう契約しちゃっても損はしないわけ。一ヶ月分無料になるんだから、その間にゆっくりお引っ越ししてもいいんですし」
長沢さんの声だった。優子は眉をしかめた。
「でも家賃高いんでしょう? そっちは」
やや落ち着いた声は津久井さんだった。
「まあでもせいぜい二万だし。間取りはイケてるし、海もよく見えるし、新築ですよ? あと二重サッシだって。良くないですか?」
そうですねえ、と考え込むような相づちが続いた。優子はますます眉間のしわを深くした。家賃が高い、間取りがイケてる、海が見える、新築。その物件を優子は知っている。最近ずっと心の隅にかかっている、遠野の担当している新築マンションだ。
「今月中に申し込めば一ヶ月無料ですからね。ぜったいおすすめですって! 小鳥ちゃんの日光浴もおうちの中でできるし、いいと思うけどなあ」
あとね、担当の子若いけどシュッとしてていい感じですよ! イケメン! はしゃいだ声が聞こえて優子はいたたまれなくなってきた。出歯亀なんかするんじゃなかった、そう後悔して玄関ドアをそろそろと閉じかけたところに重めの足跡が聞こえた。
「あ、こんばんはー」
穏やかな声はゲンさんである。優子は思わず身を固くした。この調子であれば長沢さんはゲンさんも勧誘するのではないだろうか。ふと昨日あけぼのの共用廊下にいた遠野のことを思い出した。あれはもしかしたらゲンさんの部屋に何かを届けに行ったのではないだろうかと、嫌な想像ばかりが頭を巡った。
こんばんは、とゲンさんの挨拶に返すふたりの声が揃った。
「原元さんも大変ですね」
さっそく長沢さんが言っている。
「ん? 何がですか?」
「昨日も今日もでしょ、お隣。男の子同士とはいえ迷惑じゃないですか?」
ああ、とゲンさんは笑いを含んだ声で答えた。
「俺もこないだ脱走させてますからね、人のことは言えません。お互い様ですよ」
じゃあ失礼します、そう言うゲンさんの声に続いて玄関ドアが開いて閉まる音がした。
優子は鼻から細くゆっくりと息を吸って吐いた。ゲンさんが振られた話題に取り合わなかった。それだけでどういうわけだかものすごく安心している。
「……いい人だねー、原元さん」
なんとなく「いい人」の部分に引っかかりを覚えるような会話が下ではまだ続いていた。しかし優子は頭を振ってドアを静かに閉めた。
再び換気扇を回してガス火を付ける。うっすらと熱を帯びた水底が蜃気楼のようにゆらゆらする鍋の中を見つめながら優子は先ほど盗み聞きした会話の内容を思い返していた。
エリさんはこう言っていた。遠野と長沢さんはとても気が合っているようだったと。そして今長沢さんは「海がよく見える」とも言っていた。「見えるらしい」ではなく。これは実際に現地を見なければ断言できない情報だ。つまり、長沢さんは、すでに遠野のマンションを内見している。
鍋底からぷつぷつと気泡が上がっている。優子はそれを見ながら先ほどより重たいため息をひとつついた 。もうすぐ、まず間違いなく、長沢さんは退居の申し込みをしてくるだろう。そしてもしかしたら津久井さんも。心のどこかでいつか起こるだろうと予感していたことが始まった。誰も目を付けていなかったが故に寡占状態だった市場にライバルが登場したのだ。遠野の物件が成功したら、間違いなくさらにペット可物件が増えるだろう。その中で、果たしてこれからも優子はやっていけるだろうか。
契約上、あけぼのとしののめは申し込みから一ヶ月経たないと退居できない。即時退居しても一ヶ月分の家賃は支払ってもらう。しかし転居先の家賃が一ヶ月無料になっているのなら、こちらの家賃を払いながらあちらに無料で住むことができる。できるだけ早く入居者を集めたいと遠野が考えてフリーレントを持ち出したのなら先見の明があったと言わざるを得ない。少なくとも長沢さんの心をしっかりと掴んでしまった。
湯が沸いたのでパスタをパラパラと広げて投げ込んだ。菜箸でつつきながら湯の中に埋め、袋の指定通りにスマートフォンのアラームをセットした。そのままぶくぶくと泡を吹く鍋を見下ろしていた。
と、突然玄関チャイムの音が響き渡ったので優子は文字通り飛び上がった。宅配便以外で自室まで尋ねてくる人はめったにいない。特に夜はいない。優子が恐る恐るドアスコープを覗き込むと、ドアの前にはゲンさんが立っていた。
無言でドアを開けた優子に向かってゲンさんは眉毛を下げて笑った。
「夜にごめん」
「いえ、どうかしましたか? 」
優子は答えて、随分つっけんどんな言い方だなと自分に対して思った。先ほど盗み聞きしたことの罪悪感から自然に振る舞えないのであった。
「怪我、どうだった」
優子は軽く袖をまくって左腕を見せた。縫った傷口にはガーゼがかぶせてある。
「三針縫いました」
「やっぱり」
ゲンさんはまた痛そうな顔をする。スポーツ好きで怪我には慣れているだろうに、と優子は思った。
「ご迷惑をおかけしました」
優子が再び謝罪するとゲンさんはいやいや、と顔の前で手を振った。
「全く何も迷惑じゃない。結局予定にも遅れなかったし、本当に俺には何の影響もなかった」
真面目な顔で言われたので信じることにした。
「下浦さんまだ帰ってきてないでしょ」
ゲンさんの確認に優子は黙って頷いた。
「蒼、俺が預かるよ。優子ちゃん二日もこんなので疲れたでしょ、今日はもうさっさと寝るといい」
「え、でも」
優子は大家代行なのでこういうときにペットを預かる義務がある。仕事のうちである。ゲンさんはただの隣人で、巻き込まれただけである。これ以上何かをお願いするわけにはいかない。そういうようなことを言おうと思ったのだがその前に大きな手がずい、と出てきた。行動がキャリーをよこせと言っている。
「下浦さん、さすがに二日連続で落ち込んでるんじゃないかな」
続くゲンさんの言葉にまじまじと顔を見つめてしまった。言われてみればそうだった。優子は優子で脇の甘さを嘆いていたが、下浦さんだってびっくりするだろうし、もしかしたら自分に失望するかもしれない。朝の優子のように、衝動的に猫に腹を立てることだってあるだろう。どんなに気をつけようと思っても、昨日の今日では二重ロックだって間に合わない。
「そこで大家にまた頭下げに行くの、ちょっとハードル高いと思うんだよね。優子ちゃんが何かするって言うわけではなくて、単純に下浦さんの気持ち的にね」
「確かにそうかもしれません」
「だから俺が預かるよ。優子ちゃん全く気にしてないって伝えておくから」
優子は少しだけ眉をひそめ、しかし最終的には頷いた。全く気にしていないのか? という問いに正直に答えるなら否、である。でも今の優子の感情は脱走やら怪我やら入居者の密談やらによってもたらされたものがぐちゃぐちゃに入り混じっている。公平な目で蒼の脱走のみについて検討することは、正直に言って難しい。
「ありがとうございます、じゃあ、お言葉に甘えます」
「そうこなくちゃ」
ゲンさんは笑って、キャリーを受け取って帰って行った。このお礼は必ずどこかで、優子はその後ろ姿に向かって心の中で呟いた。スマートフォンのアラームが鳴った。パスタが茹で上がったのだ。優子は玄関ドアを閉めるとガスコンロに向かって踵を返した。
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