猫再び逃げる - 1
蒼を預かってから数日後の日曜日、優子は最後の整骨院へと出かけた。ついうっかり週末に予約してしまったので、院内はいつもよりも若い人たちで混み合っていた。思ったよりも待ち時間も長く、帰宅する頃には優子はげっそりと疲れ切った気分だった。
アパートの敷地に入ると、あけぼのの一階廊下前から歩いてくる人がいた。スーツ姿がまず目に付き、続いて顔が目に入った。遠野だった。
「あ、どうも」
予想していなかった人影に間抜けな挨拶が出た。遠野は優子の姿を認めるとにっこりして頭を下げた。
「ご無沙汰しております」
そしてそのまま歩み去って行った。何をしに来たのだろうかと優子は眉根を寄せたが後ろ姿はもうだいぶ遠ざかっている。ふと、また入居者募集のチラシでも蒔きに来たのかと思い当たって優子はポストへ急いだ。自分の部屋のを覗いたが空であった。金属のポスト蓋には小さな細い縦穴が三つ空いている。優子は隣の住戸のポストを穴越しにこっそり覗いた。暗くてよく見えないがやはりチラシは入っていないように思えた。
と、突然アパートの裏手あたりから騒がしい音がしたので優子は思わず罪悪感から肩をすくめた。しかしそれは優子を断罪するものではなかった。興奮した鳥の声である。優子は嫌な予感がしてあけぼのの南側に走った。
このアパートで鳥を飼っているのは津久井さんだけだ。優子の部屋の真下に住んでいて、インコ類を中心に多頭飼いしている。特にトラブルがあるわけでもないので何羽いるのかは把握していないが、少なくとも数えるのに片手では足りないだろうと優子は考えていた。
問題は日光浴なのである。ごく稀に、津久井さんは鳥たちをベランダで日光浴させたまま外出してしまうことがある。外出と言っても買い物程度らしく、暗くなるまでそのまま放置されていることはない。しかしぴよぴよと賑やかで色鮮やかな鳥が跳ねていたら、野生動物としては気になるだろう。海が近いと自然が多い。捕食者はたくさんいるのである。
蛇だったらどうしよう、アオダイショウは毒がない、猛毒のマムシは茶色いんだっけ黒いんだっけ、などと考えながら優子が駆けつけた先には意外な光景が広がっていた。緑と朱色が鮮やかなインコが、物干し竿に下げられたかごの中で憤激している。大変けたたましい怒り声が優子の耳を突く。ばたばたと羽を広げて威嚇するその先には、目を丸くしたマーブル模様の猫がいた。隣の一〇二号室のベランダから飛び移ってきたらしく、手すりの上にちょこんと座っている。
「蒼くん」
優子は驚いていいものやらほっとしていいものやら判断がつかずに小さく声を上げた。下浦さんの猫である。名前を呼ばれた猫は優子のほうを見て、両耳に力を入れた。そのまま少し腰を上げて後ずさった。まずい、逃げられる。咄嗟にそう思った優子は目をぎゅっとつぶった。焦る気持ちを抑えてその場にしゃがむ。
「おいで」
できるだけ低い声で柔らかく言った。猫はしばらくの間インコを見、優子を見して逡巡していたが、意を決したのかベランダから飛び降りて優子が差し出した右手までやってきた。少しの間首元をかいてやって、隙を見て抱き上げた。爪を立てられるかと思ったが大丈夫だった。
このときほどペットたちと面識があって良かったと思ったことはない。暖かい猫を両腕の中に収めたまま優子は細く長い息をついた。肺の中の空気をだいたい吐きおわったころにようやく、それまで呼吸を止めていたことに気づいた。猫の毛皮に触れた手のひらの感触が気持ち悪い。手汗をたくさんかいていた。
とりあえず一難去った、そう思った途端耳に音が戻ってきた。インコはまだ不満げに鋭い声を立てていたが、間が空いて飛び飛びになっている。かしゃん、と音がしたので優子が上を見上げるとケージの金網に止まって丸い目でこちらを覗き込んでいた。
鳥たちをまじまじと見ると、優子はいつも恐竜だ、と思う。姿を変え、形を変えて現代に生き残った恐竜たちだ。さぞ哺乳類のことを愚かしく思っているだろう。翼を捨てて、くちばしもかぎ爪も捨てて、地面を這い回る図体ばかりは大きく弱々しい生き物となって。
とはいえ、野生の鳥と目が合うことはあまりない。カラスや鳶など大型の鳥類の場合、喧嘩を売っていると思われたらこちらのほうが危険ですらある。そのため優子とまじまじ視線を交わすことになるのはだいたい家畜化された鳥である。古くは祖父の飼っていた鶏をしばしば観察していた。
インコと見つめ合いながらそんなことを考えていると、急にアパートの中からがたがたと音がしてベランダの掃き出し窓ががらりと開いた。
「鈴木さん」
津久井さんが目を丸くして優子を見下ろしていた。インコによく似ている、優子は思った。
「こんにちは」
猫を抱いて地面にへたり込んだ情けない格好のまま優子は挨拶を返した。
「何かありましたか」
「この子がベランダに出ていて」
優子はこの子、と言いながら視線を蒼のほうに向けた。
「お隣の」
猫か、という問いかけである。優子は黙って頷いた。
津久井さんは駅前のスーパーまで出かけていたという。優子は蒼を抱えたまま手短に状況を説明した。津久井さんはケージを確認したが、外観に損傷はなかった。インコも無傷そうだった。しかし優子が辿り着くまでに何があったかは分からない。下浦さんは仕事のようで不在だった。
「防犯カメラを確認しましょうか」
優子は下浦さんのベランダを覗き込みながら津久井さんに尋ねた。防犯カメラを見るのは猫が鳥に危害を加えていないか確認するためである。防犯カメラは公道から見て死角になりやすい東側に設置してある。一号室からは真反対の位置にあたるため役に立つか分からないが、見てみる分にはそこまで手間がかかるわけでもない。
「いえ、そこまでしていただかなくても。とりあえず様子を見ます」
津久井さんは西日に眼鏡を光らせながら言った。その言葉に頷きながら優子は眉間にしわを寄せた。下浦さんの掃き出し窓が開いている。網戸が閉めてあるのと反対側が、十センチほど引いてあった。
「窓が開いてますね。下浦さんが鍵を閉め忘れたのか、開け方を覚えてしまったか」
優子は呟きながら明るくて素直な雰囲気の下浦さんのことを思い浮かべた。偏見でものを考えるのは良くないと分かってはいる。しかしのんびりとした彼女はいかにも窓の鍵を閉め忘れそうなタイプに思われた。
「とりあえず下浦さんに連絡を取ります。その上でまた注意喚起をさせていただきますので」
そこで優子はいったん言葉を切った。日光浴について言及するか迷ったのだった。できれば外出中に鳥を出しっぱなしにするのはやめてください、というだけである。だけなのだが、何となく言いそびれてしまった。
「よろしくお願いします。隣が猫だとちょっと怖いですね」
津久井さんの言葉に優子は曖昧に首を振ってその場を離れた。一番怖いのは猫でも蛇でもなく、人間の甘い判断なのではないか。大丈夫だと思い込んでノエルにリードを付けない長沢さんのように。そう思ったのに、やはり何となく口に出せずに終った。
下浦さんとの連絡は夜遅くになるまでつかなかった。優子はペットを預かるときのために備えてあるキャリーに蒼を入れたまま、落ち着かない気持ちで自室にいた。猫は不満げににゃあにゃあと抗議の声を上げていたがやむをえない。この間のようにのんきにカーテン登りをさせておく気分にはどうしてもなれなかった。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
いつもの溌剌とした雰囲気を失いつつ下浦さんが現れたのは日付が変わる三十分ほど前だった。週末なのにアルバイトが病欠で、ほんとは早番なのに上がれませんでした。そう言う下浦さんは、優子と同じくらいげっそりしているように見えた。
「先ほど蒼くんを確保したときに見たんですが、ベランダの窓が開いているようでした」
優子はキャリーをそのまま下浦さんに渡しながら伝えた。キャリーは後で返してもらえば良い。再度脱走されることだけは防ぎたかった。
「え、ほんとですか?」
下浦さんは思ってもみないことを言われたという顔をしている。
「施錠の確認はされましたか」
優子の確認に下浦さんはもちろん、と頷いた。
「毎日鍵は指さし確認して出るんです。今日も間違いなく閉めました」
優子は眉をしかめそうになって軽く咳払いした。気を取り直して言う。
「だとすると蒼くん、鍵の開け方を学んでしまったかもしれません。できるだけ早めに二重ロックにしたほうが良いかと」
下浦さんは目をぱちぱちさせた。
「二重ロックってそんなに簡単にできるんですか? 」
優子は頷いた。素人でも扱えるので、可能であれば下浦さんのほうで付けてほしいと伝えた。インターネット通販のURLも教えた。
すぐに対応します、と頭を下げて帰って行った下浦さんを見送って、優子は大きくため息をついた。そのまま思わずベッドにへたりこんだ。猫を預かっている間は何となく気持ちが慌ただしく、夕食は再びカップ麺で済ませてしまった。目を離すのが恐ろしく思われて風呂にも入っていない。下浦さんが帰宅してこないので津久井さんへの報告も飼い主会への注意喚起もできないままだった。もう深夜だし明日で良いだろう、そう思ってごろりと転がったのがその日の最後の記憶だった。
目を覚ますと変な姿勢で寝ていた。スマートフォンで時刻を確認するために右手を動かそうとした優子は思いきり顔をしかめた。右手が自分の身体の下敷きになっている。曲げた肘が酷く痛んだ。
ぶつぶつと言語にならない怨嗟を上げながら優子は何とか起き上がった。時刻を見ると朝の九時である。猫を引き渡して安心したためか、だいぶぐっすり寝てしまったようだった。
トーストを焼きながら津久井さんにまずメッセージを送った。下浦さんの帰宅が遅くなったこと。鍵は閉めていたらしいこと。早急に二重ロックへの対処をお願いしたこと。メッセージを送ってから、優子はあることに気づいた。
「しまった」
思わず声に出してしまったのと、トースターがちん、と間抜けな音を立てたのが同時だった。優子は自分の隙の甘さ加減に頭を抱えた。下浦さんのことをどうこう言えた立場ではない。
今日の対策を忘れていたのである。下浦さんは恐らく今日も仕事だろう。蒼はひとりで留守番になる。いつも通りといえばその通りだが、一度鍵の開け方を覚えてしまった猫を放置しておくのは危険である。
優子は嫌な予感を抱いて玄関を開けた。できるだけ足音を立てないように外階段を駆け下りるとアパートの南側に回った。
西側から回り込むとすぐに一〇一号室のベランダがある。その手すりに立って掃き出し窓の中を覗き込んでいるのは、果たしてアメリカンショートヘアだった。
その姿を見て唐突に頭に血が上った。優子は思わず舌打ちして、猫の腹を両手ですくい上げた。衝動だった。突然のことに驚いた猫は身をくねらせて優子の左腕を前足で打った。
鋭い痛みが走って優子は思いきり顔をしかめた。猫を両手で掴んだまま自分の腕を見ると、内側の手首より少し高いところに赤い血の玉が膨らんできていた。みるみるうちに玉が大きくなって腕に筋が付く。長袖の部屋着をまくっていたせいでひっかき傷が付いてしまったのだった。
猫が強く身体を動かした。
「静かに!」
頭に血が上ったまま声を荒げて、その自分の声でふと我に返った。猫はいきなり巨大な人間に掴み掛かられて身体の自由を奪われたのである。抵抗して当然ではないだろうか。何をやっているのだ自分は、と思ったところで後ろから声を掛けられた。
「優子ちゃん?」
振り返るとゲンさんが目を丸くして立っていた。出かけるところだったようで右肩からトートバッグを下げている。今日は月曜日、ゲンさんは週に一度の店休日だ。当の本人は蒼を見て、優子の腕を見て、と視線があちこちに動いている。だいたいのところは把握してくれたようだった。
「すみません」
優子は何にかよく分からないまま謝ってしまった。
「……とりあえず傷の手当てしようか」
幾度かぱちぱちと瞬きをした後、ゲンさんは冷静な返答をよこした。
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