笠懸

遠野がチラシを配って回った午後からしばらく、優子の日々は慌ただしく過ぎた。ちょうどあけぼのの空室に入っていた業者と細かくやりとりをしたり、工事が終わった後に来ることが決まった入居者と契約するための事務作業をしたり、経理の書類をまとめて税理士に送ったりしていた。


ノエルに引かれた肩も痛いままだったので数回整骨院に通った。習慣のようにリハビリに訪れる高齢者にまみれて整骨院の待合に座っていると世界から取り残されたような気持ちになった。その傲慢な世界とは何なのかと優子は帰宅してから反省した。整骨院の高齢者を含まない世界。体調が安定しない優子を含まない世界。それは果たして世界と言えるのか。むしろそちらのほうが世界から取り残された檻の中なのではないか。


以前同期に言われたことがしこりとなって残っているのかもしれなかった。同期の言うとおり、不動産収入とは基本的に不労所得である。実際には毎日共用部の清掃をしたり金勘定をしたり事務仕事をしたり条件の似た物件との差別化を図る方法を考えたりごくたまに取材を受けたりしているので労働はしている。しかしそこに物件があり入居者がいるかぎりにおいて家賃収入は定期的に自動発生する。


家賃が自動発生する物件を手に入れるには資本がいる。自ら得た収入で購入するならともかく相続によって手に入れたのであればそれは完全に門地によるものである。本人の功績ではない。つまり祖父が残したアパートの家賃収入によって生活している優子は自助努力を怠っていると、そう言われたも同然であった。


もちろん優子にも言い分はある。過労と退職の因果関係は明確である。就職先を選んだのは優子だし会社の言うままに働いたのも優子である。だからといって会社は従業員を使い潰していいわけではない。たとえそれが先に同僚が使い潰されるのを横目で見ているだけだった人間であっても。


いつまでもこの大家代行という微妙な立場でいて良いと思っているわけでもない。木造アパート二棟の家賃収入はそれだけで生活するには非常に中途半端な額である。決して少なくはないがしっかりと将来に備えができるほどではない。たとえば明日突然竜巻が現れて屋根を剥いでいったらどうなるか。保険で賄えない損害はどうやって穴埋めするのか。


最終的には物件を増やして収益を大きくするなり、大家業とは別に仕事をするなりしなくてはならないと優子は考えていた。少なくとも祖父の遺産に全身で寄りかかっているだけの状態では自分を生涯養うことは難しい。不況の時代に生まれ育った優子にはその程度の分別くらい付いている。ただしいつ、何を始めるか。それだけが問題であった。


この町に住みはじめてから何度目か、そんなことを悶々と考えながら五月も後半を迎えた。ぐずぐずとした天気の日が続き、梅雨が早く訪れそうだった。


この日優子は新しく入居したばかりの下浦さんから猫を預かっていた。下浦さんは優子の部屋の真下、あけぼのの一〇一号室に引っ越してきた。生活用品を扱う量販店で働いていて、全国に転勤があるのだという。荷物だけ引っ越し業者に任せて、本人と猫は西日本から元気に車中泊で移動してきた。


引っ越してきた翌週には出張が入った。人員が足りないと泊まりでもヘルプに行かなければならないことがあるのだという。ハードな職場にたまげながら優子はアメリカンショートヘアを預かった。「青が似合うので」蒼、という名前のオスだった。


優子の住む一号室はアパートの西の端にあたり、どちらも出窓がある。今蒼は優子の部屋の出窓に座って丸い目を皿に丸くしながら外を眺めていた。猫は環境を変えると嫌がるのではと身構えていた優子であったが、蒼に関しては杞憂であった。優子が下浦さんからキャリーを預かって三十分後には室内を探検していた。人に対する警戒心が薄いのは、生まれたときから人に大切に扱われていたということである。良いことだと優子は思った。



スマートフォンが震え、猫が驚いて振り返った。優子はベッドの上に放り投げたままのスマートフォンを手に取った。エリさんから唐突に動画が届いていた。ゲンさんと優子が同報である。この三人はなんだかんだと一緒に食事をすることが多いのでエリさんがいつの間にかグループチャットを作成していた。家主と店子の関係を越えて友人になったということだろうか、そう考えた優子はなんとなく不思議な心持ちがするのを自覚した。


動画を開くといきなり人間を乗せた馬が走っていたので優子は眉間にしわを寄せた。しかも撮影時は風が吹いていたらしい。ごうごうという音が普段着信音を鳴らす音量で再生されたので、優子は慌てて音量ボタンを連打した。うるさい。音に興味を持ったらしく、出窓から飛び降りた蒼が顔を寄せてきた。せっかくなので一緒に動画を眺める。


エリさんは海岸にいて、砂浜の上から海のほうを見て撮影しているようだった。馬が走る。人が乗っているが、服装がおかしい。和装のようだ。しかし現代の和装ではない。そして、馬を走らせながら何かを放った。優子が目を凝らしている間にぱしん、ぱしんと音を立てて、連続して何かが放たれた。周囲に人がいるのだろう。歓声が上がった。


人は馬に乗りながら弓を射ているのであった。優子は再度動画を再生してそれを認識した。烏帽子をかぶった男性である。文化史には弱かったが、少なくとも中世以前の服装だろうと優子は思った。


何回か繰り返し動画を再生して優子は納得した。これはいわゆる流鏑馬(やぶさめ)というものだろう。長弓を使った武士のトレーニングである。現代ではイベントのときしか見られないと聞く。そう考えたとき、ふと三浦荒次郎、と思った。遠野のお殿様の名前だ。自慢の弓を用いて、きつねを射落とした。


——笠懸見てきた!  


スマートフォンが震えて優子は思考を引き戻された。表示されたエリさんからのテキストメッセージを読んで優子は眉を寄せた。流鏑馬ではないらしい。


——すげー


のんびりした返信はゲンさんである。ゲンさんは仕事中ではなかったかと首をかしげた優子は時計の針が十六時を指しているのに気づいた。飲食店の貴重な休憩時間帯である。あと一時間もすればディナータイムが始まる。


——流鏑馬とどう違うんですか? 


優子はというと風情のない返事を返してしまった。


——笠懸のほうがむずいらしい


エリさんもエリさんである。ざっくりした返事が返ってきた。なるほど、と一瞬だけ納得しかけたが全く分からない。


——まあ笠懸はどうでもいいんだ


続く言葉が酷い。ではなぜ動画を送りつけてきたのか。


——げんたろうそろそろ海行きたいのでは


季節性の移動をする生き物のような扱いを受けているが、ゲンさんはそもそも海のそばに住むためにこの町にやってきたのだった。ライフセーバーの訓練を受けていて、海水浴場設置期間は休みの日をわざわざ潰してボランティアをしている。釣りも好きだし、ダイビングの資格も持っていると聞いている。


そこまで徹底しているのに、運転免許だけは持っていない。普段は自転車か公共交通機関で移動できる範囲で活動している。そのためここ一年ほど、数ヶ月に一度車持ちのエリさんが運転して適当な浜に行くのが恒例となっていた。そのうち数回は優子も連行されている。


海のそばに住んでいるのになぜそんな回りくどいことをするのかというと、近くの海岸は遊泳禁止なのであった。


「急に深くなって潮が強いよ。まじで流されるから泳いじゃだめ」


普段へらへらしているエリさんがしごく真面目な顔でゲンさんに念を押しているのを見たことがある。言われる前はきっとゲンさんは泳いでいたんだろうな、そのとき優子はこっそり考えた。


——行きてえなあ


前回三人で海に行ったのはいつだったかと優子は考えた。二月であった。とても寒い祝日で、さすがに海水浴場に行ってもどうしようもない。ゲンさんはマグロ漁港のあたりで釣りをした。釣りなら近所でも良かろうと優子は思ったが、場所を変えると釣れる魚が変わるらしい。


ゲンさんは平気な顔で釣り竿を垂れていたが、港は風が吹きすさんで白々と寒かった。耐えかねた優子とエリさんは近くをぶらぶら歩いてドーナツを食べた。途中からゲンさんも釣りを終わらせて合流した。ドーナツはふわふわで美味しかった。


そこから三ヶ月、気候は随分暖かくなった。そろそろ海辺に長時間滞在しても辛くないだろう。


——きょう笠懸見に来てこの近くに穴場の浜があるの思い出したんだよね。めっちゃ水がきれいで生き物が多い。行く? 

——最高! 行く! でもちょっと待って


優子を置いてふたりの会話が進んでいく。


——すまん、色々予定があって次に行けるとしたら来月頭だわ

——梅雨入ってるかなあ。まあいいか。どうせげんたろうは濡れるんだし問題ないべ


優子はエリさんのメッセージに思わず眉間のしわを深くした。仮にゲンさんが気にしないとして、優子は海に入るつもりはない。泳げないのである。小中高、水泳の時間はずっとビート板にしがみついてぷかぷかしていた。五月雨の中浜辺でどうしろというのか。


——おゆうさんぶすくれてないかい

追い打ちを掛けるようにエリさんの失礼な問いかけが飛んできた。


——我々はテントで旨いものでも食おう

——あ、俺弁当作るよ


うまいこと食べ物で釣られた気がする。優子は思わずため息をついたが、たしかにゲンさんのお弁当に興味をそそられた。どんなものを作ってきてくれるのかとても気になる。


——分かりました


簡潔に返事をするとエリさんがスタンプを飛ばしてきた。垂れ耳の犬が親指を立てている。優子はゲンさんが送ってきた日付を確認してカレンダーに予定を入力した。


海とお弁当について考えながらスマートフォンをベッドに放り投げて、優子はふと違和感に気づいた。さっきまで一緒にスマートフォンを覗き込んでいた蒼がいない。慌てて周囲を見回すと、ベランダに面した掃き出し窓に掛けたカーテンが不自然にもこもこ動いていた。果たして猫であった。カーテンクライミングを楽しんでいたらしい。


優子はため息をつきながら猫を降ろそうとしたが断固反対された。爪が鋭く、カーテンにしっかり食い込んでいる。蒼は優子のほうを見て「にゃあ」と抗議の声を上げた。優子は再度ため息をついて猫の引き剥がしを諦めた。優子の部屋は全窓に後付けの二重ロックを設置してある。今日のように、小型の生き物は母屋でなく自室で預かることがあるためだった。一応目を離さずにいれば、勝手に窓を開けて出ていくこともないだろう。


猫はカーテンの流れに逆らってカーテンレール上まで到達した。普通の金属製の細いカーテンレールである。猫の重みで少ししなった。蒼は優子のほうを見て再度鳴いた。降ろせと言っているらしい。だったら最初から下りてくれればいいのに、と思いながら、優子は猫の要求を通すために立ち上がった。


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