五つ星 - 1

夢を見た。見たことのないほどの大男が薙刀らしき武具を振り回している。お城の天守閣に飾ってあるような鎧兜を身につけていた。たまに何か重さのあるものに食い込んだような鈍い音がずん、と響くが周りの様子はよく見えない。目をつぶって太陽のほうに顔を向けたときのように、見渡すかぎり一面の赤が広がっていた。


男は非常に大きかった。ゲンさんを見上げるときいつも優子は大きいなあ、と思う。しかし武具を四方八方突き回しているこの男はゲンさんよりもまた頭ひとつほど大きそうだった。男の肢体とのバランスを見るなら、優子が薙刀と思ったものは大太刀なのかもしれなかった。


これは良くない、と優子は思った。これは良くない、このままでは……。そう考えて我に返った。このままでは何だ? 


視界の右端を白いものがよぎった。鳥のようだったが鳥にしては翼が小さすぎる。よくよく目をこらすと翼だと思ったものが前足だということが分かった。きつねだった。白い九尾のきつねが空を飛んだ。ぐんぐんとこちらに近づいている。年月を経て霊力を増したにしてはくたびれたところがない。毛並みがつやつやと光っていた。男が大太刀を振り上げた。きつねのものらしき甲高い鳴き声が耳をついた。優子は思わず深く目をつぶり、しばらくしてからまぶたを上げた。光は白かった。


明け方の白々とした光がカーテンを開けっぱなしの窓から差し込んでいた。どうやら昨夜この状態で寝てしまっていたらしい。優子は乱暴にカーテンを引くともう一度布団の中に潜り込んだ。夢にたたき起こされたせいで心臓がどきどきしていた。


結局、まだぎりぎり朝と主張すれば通してもらえるかもしれないくらいの時間に優子は再び目を覚ました。何とも言えず寝覚めが悪かった。内容は思い出せないが、何だか後味の悪い夢を見たような気がする。どうにも疲れているのかもしれなかった。


その日はそのまま母屋に行く気になれずに自室で過ごしてしまった。体調が悪くてもやらなければならないものはやらなければならない。床に這いつくばった格好でパソコンを開いて作業をした。こちらに引っ越してから一度だけ、前職の仲間の飲み会を横浜でやるというので出て行ったことがあった。


「大家さんって実質不労所得でしょ? 最高に楽だよね!」


臆面もなく言い放った同期のおかげで食事がまずかった。それ以来前職関係の誘いには全く乗っていない。


仕事を辞めた直接のきっかけは公共の場で倒れたことである。バスの中でいきなりばたんと倒れたらしい。記憶がないので伝聞である。優子はその日まで職場に毎日十五時間以上滞在するような日が一週間ほど続いていた。自宅に帰れない日もあった。元はと言えば営業がいい笑顔で現実的に不可能な工数を引き受けてきたからだった。本来ディレクション業務を行うはずの優子まで単純作業に参加しても納期に間に合うか分からなかった。


そんななか、別の取引先に打ち合わせに出かけた。定期的に先方に出向いて行わなくてはいけないものだった。いつものように田園都市線は止まっていた。いつものように理由はよく分からなかった。そのまま急いでバスに駆け込んだところまでは覚えている。次に優子が気づいたときには病院の天井が見えていた。


倒れた原因は過労による貧血だった。ただし昏倒したときの打ちどころが悪く脳震盪で丸一日以上意識がなかった。その間に病院に呼ばれた両親がスマートフォンのロック画面を見てしまったことがいけなかった。優子が打ち合わせをすっぽかしたと思った直属の上司がありとあらゆる脅しや罵詈雑言を用いたテキストを延々とメッセージアプリに送ってきていたのだった。もとからそういう人間だったし、営業が無理な案件を引き受けてきてしまうくらいには事業部の成績も悪かった。


優子が目覚めてしばらく経つと難しい顔をした父親からメッセージアプリのスクリーンショットを取るように言われた。その後数枚の書類とともに弁護士が一名やってきて、数ヶ月後には新卒六年目の退職にはいささか多すぎるようなまとまった金額が優子の口座に振り込まれた。表向きは退職金と見せかけた、弁護士の注力の賜物である。示談金であった。


示談の条件として、退職の原因を同僚に伝えないという希望を会社側が出してきたとき、弁護士は少々腹立たしげにしていた。しかし倒れる前より表情が乏しくなっていた優子はそれをあっさり飲んだ。正確には、そのときはいろいろなことがもうどうでも良くなっていた。会社都合退職だったのですぐに労災認定が出た。


それで一件落着かというとそうでもなかった。一度過労によりバランスを崩した体調はなかなか元には戻ってくれなかったし、優子からはそもそも気力というものが失われていた。バスに駆け込んだときには初夏のはずだった季節は夏の終わりになっていた。そしてその間に祖父も他界した。


退院してからも都内でしばらくぼうっとしていた優子がわざわざ思い立って木浦に連絡を取ったのは、自身の忙しさと不調でろくろく見舞いにもいけなかった祖父への穴埋め行為なのかもしれなかった。結果的にはそれが優子の新しい進路ともつながった。


両親はやや心配げにしていたが、完全に無職をしているよりは収入が合ったほうがまだ良い。加えて優子には退職金に対する執着もなかった。資本金としてさっさと自分の口座からいなくなってくれるのであればそちらのほうがよほどすっきりするのではないかと思われた。そんなわけで、優子は三宿の部屋を引き払って海沿いの町に引っ越してきたのだった。


このころのことを思い出すと優子はまだ鬱々とした気持ちになる。気分を変えるために外食しようと思った。ランチタイムはとっくに過ぎているがこの時間にも開いている店の心当たりはいくつかあった。簡単に着替え、財布を外出用の小さなバッグに入れて外に出た。


太陽がさんさんと降り注ぐ、雲の少ない晴れた五月の日だった。まだ湿度がそこまで上がっていないのだろう、日差しの強さは感じるものの動きたくないと思うようなものではなかった。しかしながら優子は少し目眩がするように感じた。やはり体調があまり良くない。


息を整えようと二階の共用廊下から下を眺めると黒い犬がフリースペースを走り回っているのが見えた。リードが付いていない。周りに人影もない。優子は思わず眉間のしわを深くしながら階段へと向かう足を早めた。フリースペースと公道との間には境目がない。そのまま犬が飛び出したら一大事である。


走り回っている犬はノエルだった。飼い主の長沢さんは日差しを避けるようにして一階の共用廊下に立っていた。ちょうど目の前にはあけぼのに来ている工事業者のバンが停めてある。辺りは完全な日陰になっていた。共用廊下からでは死角になっていて見えなかった優子はほんの少しだけ安堵した。長沢さんはこれから仕事にでも行くのかと思うほどの格好をしていた。


グレーのパンプスにワイドパンツを合わせて、上は柔らかな素材のブラウスを身につけている。しかし昼間から犬の相手をしているのだから、今日は休日なのだろう。


大人ふたりと大型犬一頭では、2DKのアパートは少々手狭だろうと優子は思う。しかも相手は散歩と知った瞬間に喜びの舞を始めるラブラドールだ。人間の側にかなりの辛抱強さが求められる。幸いにして優子はそれを自覚なしに持ち合わせている。しかし長沢さんはどうも気が短いほうらしく、いまいちノエルとの相性が良くないように優子は察していた。


早足で階段を下りてきた優子の顔を見て、長沢さんは明らかに表情を変えた。めんどくさいものが来てしまったという顔である。思わず優子の仏頂面も険しくなった。長沢さんは現状で優子のシッター利用頻度が最も高い。お得意様なのだから少し料金を負けてはくれないかとそれとなく聞かれて断ったことがあった。それ以来何となくぎくしゃくしているのだった。


「リードを」


一言だけ発すると優子は走り回っている犬のほうに向かった。ノエルさん、と呼ぶと急カーブを描きながら優子のほうへと突進してきた。よくもまあ足がもつれて転ばないものだと出不精の優子は感心する。しかし犬を褒めている場合ではない。勢いのまま抱きつかれることを覚悟して膝をついてしゃがんだ。


三十キログラムほどの柔らかくてどっしりとした物体が突進してきた。覚悟していたものの衝撃でよろけて尻餅をついた。そのまま座り込んだ形になる優子に鼻面をふんふん近づけてくる音がする。衝撃で思わずつぶっていた目を開けると黒くて太い尻尾が勢いよく宙を舞っていた。


ぐりぐりと頭を押しつけてくるのをなんとか躱しつつ右手で犬のハーネスを掴んだ。空いた左手で頭をなでようとすると舌でべろべろ舐められた。それを適当にいなしつつ優子は振り返る。もう一度同じことを言った。


「リードをお願いします」


長沢さんが散歩用バッグから伸縮性のあるリードを取り出しながら近づいてきた。だいぶ疲れたような顔をしている。優子はよけいなことを言わないようにぎゅっと口を結んだ。


飼い主がリードのナスカンを首輪に取り付ける。それをしっかり確認して優子はハーネスを押さえていた右手を離した。


「たびたび同じことで恐縮なのですが」


優子は事務的な話のみすることにした。口調が平坦なのは自覚があるが直す気にもならなかった。


「お部屋を出るときは必ずリードの装着をお願いします。そのまま走り去ってしまうことがないとは言えないですし、仮に咬傷事故が起こったら大型犬は最悪殺処分です」


優子に取り押さえられてから少々おとなしくしていたノエルがぱっと走り出そうとした。パンプス姿の長沢さんが思わずよろけたので優子は再度ハーネスを掴んだ。強い力で引かれて右肩が小さく嫌な音を立てた。なぜ散歩のときにヒールを履くのだと優子は心の中で悪態をついた。


「走らせないと収拾がつかないんです」


飼い主は言う。それは優子も良く知っている。一歳の大型犬は人間で言えばまだ未成年である。体力も気力も有りあまっているに違いない。


「ここをドッグランみたいにはしてもらえないんですか?」


そうしない大家のほうが悪いとでも言いたげな口ぶりだった。優子はむっとした。


「そうしたいのはやまやまですが緊急車両が入るスペースがなくなりますので」


事実であった。本当はフリースペースを柵で囲おうと予算のやりくりを考えていた。しかし木浦に止められた。法律の壁は厚い。しかも今日のように業者の車が来ることもある。余分なスペースは犬たち以外も必要としているのである。


「走らせるのはかまいません。安全が確保できる状態でやっていただきたいんです」


首輪を握りしめていた右手がじんじんした。肩も嫌な感じの痛みかたをする。体の奥のほうが引き攣れるようにピリピリと痛んだ。


長沢さんは何か言いたげに口を開いたが何も言わなかった。代わりにリードのスイッチを解除した。そうするとリードが巻き取り式の機構からするすると伸びる仕組みになっている。以前ゲンさんが釣り糸みたいだなあ、と言っていた。犬が足下から飛び出した。リードを伸ばしたり縮めたりしながらフリースペース中を走り回る。見事な体力である。


「これ、どうすればいいんですか」


長沢さんがぼそりと呟いた。長沢さんは優子とノエルの組み合わせならもっと落ち着いて散歩ができることを見て知っている。自分に対する無力感と、何となく感じてしまっている引け目を匂わせる口調だった。


優子は黙っていた。答えるとすれば「もっとノエルのペースに合わせろ」と言いたかった。しかし、長沢さんはこれでもノエルにかなり譲歩しているつもりなのだ。これ以上やれと言われても無理難題だと思うだけだろう。


そもそもがペットショップでの衝動買いのような出会いだったと聞いている。ふたりはノエルの購入を予約してからしののめの内見に来た。十分な準備も知識もないまま、犬の中でも特に賢くて体力もあり、退屈な日常生活に不満を抱きやすい種類のワーキングドッグを迎え入れてしまったのだ。


「ノエルは長沢さんを困らせたいわけじゃないんです」


何とかそれだけ言った。長沢さんは形良くリップを塗った唇をきゅっと引き結んで頷くと俯いた。しゅるしゅるとリードが引き戻る音がして、犬が枯れ枝を咥えながら駆け戻ってきた。フリースペースの端ででも見つけたのだろう。


「それじゃあ、失礼します」


ふたりはあいまいに挨拶をして別れた。優子は坂を下って当初の目的である昼食をとりに出かけた。

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