五つ星 - 2

優子は結局アパートから一番近いレストラン、トワニーに入った。本当はゲンさんの働く店まで足を伸ばそうと思っていたのだが、歩きはじめて数秒後に出かけたことを後悔しはじめたのだった。熱はなさそうだがとにかく具合が悪い。昨日からの様子だと、また貧血になっているのかもしれなかった。首輪をつかんだときに痛みはじめた右肩も相変わらず変な様子だった。


ランチタイムは終わっていたがパスタを頼めた。海に面した窓からは白い鳥が青空を舞っているのが見えた。ふと優子はその姿を狐と見た。目を瞬いて再度凝らすと、それは渡りを逃してしまった鷗だった。どうして狐だなどと思ったのかと優子は首をかしげながら筍のペペロンチーノを食べた。


食事を終えた優子はぼんやりとしながらアパートに戻ってきた。西日がきつい時間帯にさしかかっていた。オレンジ色の日差しを浴びた白いアパートはなんとなくもの悲しく見えた。


古式ゆかしいアパートなので建物の脇に集合ポストがある。ポストには入居者の名前を出さず部屋番号のみ表示している。チラシがたまりやすいので撤去しようかとも思っているが、各住戸にポストを設置する方法について逡巡して結局そのままになっていた。そういえば連休明けからポストを見ていないのでは、そんな気がして優子は足を向けた。


西日が眩しいので下を向いて歩いていた。ふと視界の端に茶色のふさふさしたものが見えて顔を上げると至近距離にエリさんが立っていた。ちょうどポストの中身を開けてきたようだった。茶色いのはもちろんララお嬢様である。


「イケメン見たよ」


第一声がこれである。何のことやらと眉間にしわを寄せていると紺色のぺらぺらしたチラシを突き出された。


「見たっつうか会ったっつうか出くわした。これ」


突き出されたチラシを受け取ろうと手を伸ばすとまた肩が痛んだ。顔をしかめながらチラシを眺めた。下部には「Five Star Estate」とある。遠野が働いている会社である。即物的な会社名だと優子は思ったが不動産業というものがそもそも即物的なのだから適切な命名なのかもしれなかった。


「不動産営業ってポスティングも自分でやるもんなのかね。暇なのか、仕事がないのか、あ、同じ意味か」


よく分からないがエリさんはひとりで納得している。遠野がチラシを入れて回っていたところにちょうど居合わせたということなのだろう。


「しかし例の新しいとこ、ペットOKなんだね。おゆう聞いてた? 」


エリさんがチラシのある部分を指さしながら言った。つられて目をそちらに向けると紺地に目立つ黄色のゴシック体でこうあった。




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先日来存在を認識するようになった、遠野が担当する物件のようだ。入居者募集に力を入れているのだろう。


「昨日花輪さんから伺いました」


優子は答えた。初対面のとき遠野は単身者用マンションとしか言っていなかった。エリさんの情報もアップデートされていなくて当然である。


「よろしければご検討ください、にこーって言われたわ」


エリさんの声に違和感を覚えて顔を上げた。目が据わっている。


「確かにイケメンだけどさ、ごめん前言撤回しておゆうに同意するわ。あれは得体が知れないっつうかうさんくさいわ」


人でなし扱いは撤回してもらえるらしい。美しく微笑む遠野となんだこいつという顔をするエリさんの様子が目に浮かんで口がむずむずした。


「長沢さんをめっちゃ勧誘してたよ」


エリさんの解説が続いた。


「長沢さん」


「ちょうど散歩から帰ってきたとこで」


「なるほど」


優子は頷いた。何とか無事に散歩には行けたらしい。


「あのふたりは馬が合うみたい。なんかすごい盛り上がってたよ」


「そうでしたか」


優子は眉をしかめた。遠野は一体何の話をしていたのだろうか。まさかあの華やかな人相手にきつねの昔話をしたわけでもあるまい。


「しかし話してる間ノエルがずっとノーリードなんだよなあ、ほんと危ないよねえあの人」


続いたエリさんの言葉に優子は思わず眉間のしわを深くした。せっかくリードを付けたのに、外したのか外れたのか。いずれにしてもそのうち事故に遭うか事故を起こすかしそうである。他人ながら何とかしなければならないと感じるのは、自分の物件に面倒な噂を立てられたくないという気持ちが多分に混じっているからだった。


しかしそれでは遠野も不快だったのではないだろうか。ふと優子は考えた。子どもの頃に散歩させていた犬が逃げて帰ってこなかったと聞いた。リードを付けずに犬をその辺りに放している飼い主は遠野の心の中の何かに触れてしまうはずだ。


「遠野さん、何か言ってませんでしたか。リードのこと」


優子は聞いてみた。エリさんはちょっとだけきょとんとしてからああ、と頷いた。


「あのイケメン遠野さんっていうのね。ううん、特には。長沢さんと話しながらにこにこしてノエルのこと見てたよ」


優子は難しい表情をしたまま考え込んだ。この間の遠野には、確かにいなくなった犬を悲しむ気持ちがあったと優子は思った。優子には世話をしていた自分のペットを失った経験はない。しかし想像することはできる。その原因が自分の不手際にあるのであれば、似たようなことをやっている飼い主にはあまり良い印象を抱けないのではないだろうか。


遠野がにこにこしていたのは、あくまでも営業用の顔なのだろうか。それとももしかして、本当に気にしていなかったりするのだろうか。ノエルのノーリードも、自分の飼っていた犬が行方不明になったことも。


「おーゆーうーさーん、怖い顔してるよー」


間延びしたエリさんの言葉で我に返った。ちょっと顔をしかめたような変な表情でエリさんがこちらを見ていた。その後ろでララが退屈そうにあくびをしていた。


「すみません、ちょっと考えごとを」


細かく瞬きをしながら優子は謝った。エリさんはふざけたようにしてくれている。しかしその目には明らかに心配の色があって申し訳なかった。


「このチラシもらっていってもいいですか」


優子は聞いた。


「いいけどおゆうのところにも入ってるんじゃない? 」


エリさんはまだ怪訝そうだった。


「ただの勘なんですけど、私のところには入っていない気がするんです」


遠野はどういうわけか誰がどこに住んでいるか知っているようだった。ゲンさんのところも正確に当てて名刺を入れていた。どうしてそんなことを知っているのかについてはあまり考えたくない。しかし仮に優子の部屋をも知っているのであれば避けてチラシを入れるだろうと考えた。ただの直感である。


そこまで考えてふとあることに気づいた。


「エリさん」

「ん」


「チラシ二枚入っていたりはしませんでしたよね」

「ううん、それだけ。なんで? 」


優子は盛大に眉をしかめた。そういえば花輪さんは昨日「この間チラシが入っていた」と言っていた。優子はそんなものを見た覚えはない。そして今日遠野がチラシを配りに来たという。それを受け取ってエリさんも初めてペット可賃貸だと知った。なぜ、花輪さんだけほかよりも早くチラシを手にしていたのか。


「いえ、何でもないです」


明らかに「何でもある」顔をしながら、しかし優子はそうとしか言えなかった。これはただの猜疑心である。つまり、遠野があけぼのとしののめの入居者を引き抜くために値踏みしているかもしれないという疑惑だ。全入居者の住戸を知っていて、人を選んで情報を流しているかもしれない。そんな陰謀論めいたことを軽率には口に出せなかった。


エリさんは何か言いたげな顔をしていた。わりと何でもすぐに口にする人にしては言いよどむなど珍しいことだった。優子は申し訳なく思ったが何も言わなかった。それにチラシが気になっていた。自室でゆっくり内容を確認したかった。


エリさんと別れてポストを覗く。いくつかダイレクトメールが入っていたが重要な郵便物はなかった。宅配ピザや寿司のチラシが数枚。不動産関連のものはない。やはり優子のポストへ遠野はチラシを入れていなかった。


優子は非常に不快な気分だった。遠野が入居者を引き抜こうとしているからなのか、長沢さんとノエルについてのしっくりこない気持ちが原因なのか、遠野がノーリードの犬について注意を向けなかったからなのか、誰がどこに住んでいるのか把握されているらしいようなことが気味悪いのか、それともそのどれでもないのかさっぱり分からなかった。

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