ライバル

誰かに支払いをしてもらった店を後から出るのはいつも気まずい。後ろ暗いところはなくとも食い逃げ! と追いかけられるのではないかという気がしてしまう。それだけでもおごりおごられは勘弁してもらいたいと思う優子であった。


今日は出口に向かった優子を見るなり愛想のいい店員がお会計お済みのお客様でーす、と高らかに宣言してくれたおかげで助かった。小さくごちそうさまです、と呟きながら頭を下げて店を出た。


ビルの階段を降りて地上に戻ると五月であった。湿度の低さは秋のようでもあるが日差しの陽気さが違う。夏を目前にそわそわしているような空気がする。海辺の街だからよけいそうなのだろうか。優子は無意識のうちに両手のひらで頬を揉みながら歩き出した。なんだかやたらと顔が疲れた気がするが理由がよく分からなかった。


現代ではたいていのことをウィキペディアが教えてくれる。もちろん信頼性の低い情報も多く混じっている。各項目の参考リンクと注のほうをまず読むべきである。しかし、調べたい物事を概観するには本文も役に立つことがままある。


そう思って優子は電車を待つホームで検索を開始した。新井城、という城の名前は漢字が分からなかったから、ひとまず「みうらあらじろう」とひらがなで入力した。


三浦荒次郎義意とは果たして実在した武将であった。十六世紀初頭、戦国時代の初めころに北条氏によって滅亡した一族の、最後の当主であったという。遠野の言っていたとおり、身長は二メートルを超える巨漢。二十歳そこそこで戦死した。彼らの名前はこの辺りの地名に残った。


北条氏と言われれば鎌倉幕府の執権政治しか思い浮かばない優子であったが、十六世紀の北条氏は後北条とも呼ばれる遠縁の一族であるらしい。北条氏について検索すると小田原城と出た。小田原城には梅を見に行ったことがある。四百年ほど前にあちらとこちらで壮絶な殺し合いをしていたとは、優子は思いもよらなかった。


もう一度「みうらあらじろう」の検索結果一覧に戻ると江戸時代の浮世絵が見つかった。歌舞伎役者の市川蝦十郎が三浦荒次郎に扮している。江戸時代には人気のある演目の主人公だったのだろうか。今で言えば時代劇のようなものなのかもしれない。


そのままいくつかめぼしいサイトを閲覧していると電車が来た。スマートフォンを見ながら電車に乗り込む。


『北条五代記』という戦記物に脚色めいた荒次郎の逸話があるようだった。曰く、北条早雲に攻められ荒次郎は父親の道寸とともに新井城に籠城する。三年が経ち、兵糧も尽きかけたところで最後に捨て身の戦いに出る。敵を五百名以上葬った後で自ら首を刎ねて自害した。


優子は視界が赤くなったように感じてほんの少しだけよろめいた。平日の昼ひなかであるのに電車の席は埋まっている。こういうところが南関東の苦手なところだ、と優子は思った。人口が多すぎる。


もしかしたら少し体調が悪いのかもしれないと思って横向きに並んだ座席の脇に寄りかかった。スマートフォンをスクロールして続きを読む。


自ら刎ねた荒次郎の首級は空を飛び、北条氏のお膝元である小田原で松の木に噛みついて止まった。そのままなんと三年間、腐りもせずにその場にとどまったという。最後は僧侶に供養の歌を詠まれ、成仏して髑髏になったと書いてあった。


優子は引っかかるものを感じて眉をひそめた。あまりにも坂東太郎に似ている。


優子の地元で、この辺りで有名な歴史上の人物は? と尋ねたとしよう。多くの子どもが坂東太郎、つまり平将門と答えるだろう。平安時代中期に朝廷に反旗を翻した豪族である。学校でも学ぶし博物館などでもよく見かける名前である。ある意味地元の英雄なのである。彼の名前を冠した会社などもあるくらいだった。


似ているのはその首である。平将門の首級は京都でさらし首にされた。「俺の体を持ってこい、もう一戦だ」とわめいたとか、関東に向かって自分で飛んでいったとか、供養の歌を詠まれて笑って事切れたとか様々な伝承が残っている。まさに小田原に飛んでいった荒次郎の首と瓜ふたつだった。


荒次郎は三年間籠城し、三年間松の木に噛みついた。ここに語り手の意図が透けて見える。三年間苦しめられ、三年間怖がらせた。目には目を、歯には歯を。非業の死を遂げた荒次郎に、せめて恨みを晴らす場を与えたかったのだろう。


気づけば優子が降りる駅に電車が滑り込むところだった。優子は座席の脇から慎重に身を起こし、ホームに降り立った。


改札を出ながら、そういえば今検索した中に狐の話などひとつも出てこなかったなと優子は考えた。遠野に担がれたかもしれないという思いがまずよぎった。しかしそもそもあまり有名な話でもないのかもしれない。だとしたらどこでどう仕入れてきたのか。そしてなぜ優子にそんな話をしたのか。まさか個と全体の概念について、「ふたりはおなじ焼き鯖定食を食べたのです」という結論を言うための説得材料としたかったわけでもないだろう。


そんなことを考えながらゆっくりと駅前のバスロータリーを歩いていると、ふと左手に濡れた感触がした。思わず身体をすくめて振り返ると、ばつが悪そうな表情をした見知った顔があった。


「花輪さん」

「すみません、ハナが」


優子が下を向くと大型犬が輝く瞳で見上げてきた。ハナである。花輪さんが飼っている犬だが名前は「花」ではなく「Hanna」なのだそうだ。


花輪さんはしののめの入居者である。四十代くらいの夫婦と小学生の子ども、そしてハナという家族構成で、優子が管理を引き受ける前から住んでいる。ゲンさんと同じパターンで、アパートがペット可になったのがきっかけでハナを引き取った。もともと犬が飼いたくて、と一家三人興奮気味に話すもので、優子も思わずその熱気に当てられて嬉しい気持ちになったものだった。ハナは保護犬で現在推定五歳くらいだと言われている。優子の手を鼻でつつくようないたずら気もありつつ、成犬としては随分落ち着いてきた頃合いであった。


「ハナちゃんやっぱり賢いですね、後ろから分かるなんて」


優子は言いながらハナの額のあたりをなでた。顔の印象は垂れ耳になったジャーマンシェパードのように見えるハナは、よくよく観察すると臀部まで平らながっしりとした肉付きをしている。尻尾も太く長毛で、体格はゴールデンレトリバーのほうが似ていた。優子が毛をくすぐるとくすぐったそうに目を細めて尻尾を振った。


「お出かけですか」


ハナが歩きはじめたので人間たちも続く。優子は花輪さんの問いに頷いた。


「税務署まで」

「自営業の方は大変ですねえ」


本当に勘弁してほしい、という顔で花輪さんが頷く。


「花輪さんは確定申告されないんですか」

「うちは主人の会社で年末調整してもらって、それで終わりです」


今優子が会っているほうの花輪さんは専業主婦なのである。


「でも家を買ったらしなきゃいけないって聞いたんですけど、そういうものなんですか? 」


「住宅ローン控除というものがありまして」

優子は頷いた。


「新築で家を建てるのであればだいたい税金が控除になります。馬鹿にならない額なのでみなさん確定申告をすると思いますよ。年末調整の対象ではないですし」


こういうときには何とか経営者としての面子を保てる。


「ハナもいますし、子どもも中学生になったらやっぱり戸建てがいいんじゃないかと考えていて」


そこまで話してから、花輪さんは優子が大家代行であることを思いだしたようだった。


「すみません、退居みたいな話をしてしまって」

「いえいえ」


優子は本心から首を振った。


「動物と暮らすなら、やっぱり戸建ての持ち家が一番安心だと思います。アパートは入退居があるのが前提ですし」


「すみませんねえ」

それでも花輪さんは謝っている。


交差点を渡って少し進むと海が見えてきた。このまま海沿いの道を歩くとアパートの近くまで辿り着く。


「そういえば近くにペット可賃貸ができるみたいじゃないですか」


花輪さんが思い出したようにまた話し出した。優子は目を瞬かせた。


「そうなんですか」

「あ、ご存じありませんでした? 最近こっち側の坂の途中に建ててる黒い建物がそうらしいんですけど」


それは遠野の会社の物件ではないか。


「ペット可なんですね。そこまで把握していませんでした」


優子は思いきり眉間にしわを寄せそうになって思いとどまった。全く知らない人や、逆に親しい人の前であれば遠慮する必要はない。しかし普段あまり交流のない、大家と入居者、という間柄の人に無愛想な顔を見せるのはあまり良くないだろう。


しかし眉をしかめたくなっても仕方ないのである。木浦のリサーチによると、これまでこの辺りには大型犬も爬虫類も飼える頭数制限のない賃貸がまるでなかった。しかしペットを飼う人は増えている。需要はあると踏んでいた。結果的には業界紙に取り上げられるほどの稼働率を達成したわけだが、競合の物件が近所に登場するとなるとわけが違う。しかも相手は賃貸業界では人気の高い新築である。



優子の思いを知らずに花輪さんは頷いた。


「この間チラシが入っていて。おしゃれな感じでいいなあって主人が言うから見たんですけど、個室がひとつしかなくて家賃がすっごく高いんです」


すっごく、を強調する。金銭感覚がシビアなのである。


「1LDKってことですか」

優子の確認に花輪さんがうんうんと首を縦に振る。


「1LDKに、何か大きな収納みたいなものがついていて。お金持ちのひとり暮らしが住むみたいなお部屋だねえって笑って終わりました」

花輪さんは人が良さそうに笑っている。


優子は各入居者の収入状況をよく知らない。実際には入居時の申し込みで年収を申請する欄があるのだが、あまり記憶に残さないようにしている。申込書自体は内容を確認した後、仲介をする近所の不動産屋に保管してもらっている。


ペット可物件は家賃が相場よりやや高額になりがちである。ペットが汚す可能性が高いからだ。あけぼのとしののめもその例には漏れないのだが、ゲンさんや花輪さんのように昔から住んでもらっている部屋は家賃を上げていない。優子が手を入れる前、二棟の家賃は相場より少し安いくらいだった。


ひとり暮らしのゲンさんはともかく、花輪さんのような家庭は家賃を抑えて貯蓄に回しているのだろうと優子は考えている。恐らくそのうち頭金を貯め終わって住宅を購入するのだ。


そうこう考えているうちにくだんの建物が見えるところにさしかかった。聞いていたとおり、木々と住宅の間から見える外壁は黒っぽかった。モダンな雰囲気で流行のスタイルであることは分かった。しかし色合いや形がどことなく威圧的だと優子は思った。


「ここですね」


「そうですそうです。黒って夏暑くないんでしょうかね」

花輪さんは未来の入居者の心配をしている。


「暑いでしょうね」


先ほど初めて認識したが、これはペット可という意味でライバル物件なのである。夏は暑くあれ、光熱費はうちの二倍であれと、密かに心の中で優子は念を込めた。


花輪さんと別れて帰宅したときには西日が差しはじめていた。そのまま母屋に向かって修正申告作業を始めた。母屋の和室は優子の事務作業部屋としても機能している。念のため父に断って仕事部屋と住居を分けてみたのだが、これは正解だった。アパートで仕事をしていたらさらに自堕落な生活が自分を待っていただろうと優子は思う。


修正申告にはてこずった。勝手が分からない。厳密に言うと、書類の書き方が分からない。なぜ確定申告と修正申告では書類の書き方がまるきり違うのか。色々調べ回って今日はここまでにしよう、と思ったときにはどういうわけか二十一時を回っていた。


優子が自らの事務処理能力に不安を覚えていると腹が鳴った。この時間になってから困るのは食事である。あけぼのとしののめは駅からまあまあ離れている。ゆっくり歩いて三十分はかかる。近所に飲食店はあるがコンビニはない。歩いて十分強かかる。スーパーも駅前にしかない。料理をする気力もない。そこまで考えて、優子はここ数日母屋でトイレ以外の水道を流していなかったことを思い出した。給排水管のメンテナンスは必要である。そう嘯いて、母屋で湯を沸かしてカップ麺を食べることにした。


ゲンさんと違い、自分の食がどうでも良くなってしまうことが優子にはある。かといって食べないのが良くないのは知っている。そんなときのためにカップ麺は常備しているのである。仕事場がこちらである以上、優子の生活は自然とアパート・母屋の二拠点体制となる。電気ポットやらは祖父母が使っていたものをそのままにすぐ使えるようこの家の中に備えてあった。


湯を沸かしながら狐について考えた。午後中仕事をしながらもずっと頭の片隅に狐がいた。子どもの狐。大人の狐。年老いてしなびた狐。尻尾がぼろのように分かれた狐。群れなして走る狐。いつしか狐は後ろ足で立ち上がり歩きはじめた。きつね浜に向かうのだろうかと優子はぼんやり考えた。湯が沸いて電気ポットがピーピー騒いだ。条件反射のように手に取ったカップ麺はきつねうどんだった。

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