狐狩り

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むかし、むかしある海辺にきつねが暮らしておりました。豊かに緑が生い茂った小道の上の空はどこまでも青く、茂みの先の海は澄んでいました。きつねはいつも空を見上げ、海を見下ろして、その美しさを眺めるのが好きでした。


あるとき領主のお殿様がやってきました。お殿様はきつねを狙って自慢の弓を引きました。矢は見事に的を射て、きつねは浜に落ちました。それ以来、その浜のことを「きつね浜」と呼ぶようになったということです。


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何とも後味の悪い話である。思わず優子は味噌汁椀から口を離して眉をしかめた。どうも生き物が死ぬ、生き物を殺す話は気分が良くない。今まさに生き物の命をいただいている身だとしても。


それにしても本当に何の脈絡もない話である。優子は少々呆れた。初対面からこのかたこの男の考えていることが全く分からない。


鯖の身をほぐしはじめる。鯖の群れは春の終わり頃に東京湾に入り込み、秋口になると海岸のすぐそばまで回遊してくる。秋の鯖はこの地域の名物である。捕れたその日であれば刺身で食べることもできる。産地の醍醐味である。もしかしたらきつねも秋になると鯖の群れを眺めていたのかもしれないと優子は思った。海に入れないので崖の上から眺めるきつね。悠々と光りながら泳ぐ鯖。抜けるように青い秋の空。


「この昔話には続きがあるんですが、少し前後関係が不思議です」


遠野は丁寧におしぼりをたたみながら話し続けた。手持ち無沙汰らしい。




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お殿様は九尾のきつねを少し離れた高台に埋めました。しかし、次の日の朝になるとその塚が移動しているというのです。村人は夜中に塚があちらこちらに走り回っているのを見たと言います。そしてその塚に触ったものは、必ず病気になるというのでした。


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優子は鯖を噛みしめながら思わず首をかしげた。旬がはじまったばかりの鯖とはいえ脂がのっていて美味しい。いや、そうではなくて。


「九尾のきつねって妖怪ですよね?」


優子は尋ねた。生き物を殺す話かと思ったら妖怪退治であった。塚が動くとは不気味だが、妖怪の仕業だというのならどうということもないだろう。


「それがこのお話の不思議なところです」


遠野は頷いた。その手がおしぼりと湯呑みをカウンターの奥に並べると、タイミング良くもう一膳の鯖がやってきた。かぐわしくじゅうじゅうと音を立てる焼きたてである。


「言葉通りに聞くと、矢に射られたのはきつねであり塚に葬られたのは九尾のきつねです。それぞれ別のお話が合体したようにも思えます。ただ流れを考えるとこれは同一個体と考えるのが妥当かと思います」


ぱちん、と割り箸を割る音が響いた。いただきます、と遠野が呟く。優子は眉間にしわを寄せた。それは少し無理があるのではないだろうか。


「狐は自然の生き物ですが九尾は妖怪でしょう。ただの狩りと妖怪退治では物語の文脈が変わってしまいます」


もぐもぐしながら遠野がこちらを見た。食事をしていると表情を取り繕うことができないためか少し無防備に見えた。


「……化けだぬき、化け猫、化けぎつね。日本では生き物が年を取るとすべからく妖怪になるという考え方がありますね」


咀嚼を終わった遠野が言う。優子は頷いた。


「狐は特に年を取って霊力が増すと九尾になると言われています。猫又も似たようなもので、老いた猫の尻尾が二股に裂けてくると飼い主の元を離れて妖怪になります」


話しながら男は丁寧に鯖の骨を取りはじめた。


「そういう意味では、きつね浜のきつねは元はただの野生の狐であったが年月を経て九尾に変化したと言うことができなくもないかもしれません。人々は九尾が狐であったころから馴染んでいたのできつねと呼び習わしていた。長い年月が凝縮して短い昔話になったのかもしれません」


優子は何年もの間連日浜を訪れる狐について考えた。子どもたちが大きくなってその子どもたちが生まれても、狐はまだそこにいる。しかしその尾の先は少しずつ裂けはじめている。


「人間には尻尾がありませんから、なんとなく着物の房飾りのような、そんな印象を抱きがちなのかもしれません。年月を経て分かれていくというイメージはまるでぼろのようです。一方で尻尾の反対側が複数に分かれていたらどうでしょう。たとえば八岐大蛇など」


そう言うと鯖の身を大きく取って口に入れた。もぐもぐ。沈黙を埋めるためには優子が何か言うべき番である。しかし解せない。


「八岐大蛇」


唐突な話題に次いだ話題がさらに突飛すぎる。


「多頭の例ですのでお気になさらず」


気にするか気にしないかは自分で決める。そう思ったが優子は渋々口を開いた。


「……頭が複数ある生き物と言えばそれぞれに脳を持っているという印象があります」


双頭の爬虫類はときたま発見される。


「それぞれの頭に意思がある。双頭の蛇が喧嘩する映像を見たことがあります。確かに付属品扱いの尻尾に比べると印象が大分違いますね」


優子の言葉に男は頷いた。


「頭を増やすと個としての同一性が揺らぎます。しかし尻尾を増やしても同じような印象は受けません。頭が複数あると複数の生き物のような気がするのに、尻尾はいくつあっても問題ないのです。これは尻尾だけでなく、たとえば千手観音の腕などでも同じように言えると思います」


何やら男の思うがままに話題を誘導されているような気がする。そう思って優子は疑問を口にした。


「でも、そもそも仮に百歩譲って生き物の尻尾が裂けうるとして、普通は寿命のほうが先に尽きますよね。そこが妖怪の妖怪たる……つまり想像の産物たる所以ではないかと思うんですが」


遠野は漬物をぽりぽりとかじっていた。漬物に続いて米を口に入れて咀嚼する。十分に味わった後でにっこりと微笑んだ。


「今現在存在が確認されてない、かつ過去に存在したことも判明していないことをもって想像上の存在だと定義することにしましょう。しかし想像上の存在としてはそのものは『ある』のです。先ほど鈴木さんは九尾のことを妖怪だとおっしゃった。実在は認めないものの、九尾という妖怪が人口に膾炙していることは受け入れているわけです」


優子は眉間のしわを深くした。


「それはそれこそ概念じゃないですか」


優子の言葉に遠野は微笑んだだけだった。


「九尾という概念があって、そこには何らかの意味づけや文脈があるわけです。『封神演義』とか」


優子が九尾のきつねについて知ったのは小学生のとき、当時流行っていた『封神演義』のアニメを通してだった。傾国の美女、妲己である。


「それをむりやりただの狐に読み替えたら、そのお話が伝えようとしていることは失われてしまうんじゃないでしょうか」


逆もまた然りである。


「そう、概念です。そこが重要なところです」


そう言った遠野の食事は優子よりも遅く食べはじめたくせに終わっていた。魚の食べ方がきれいである。


「そもそもです。狐は果たして一匹だけ狩って終わるものでしょうか」


遠野の目がこちらを見ていた。切れ長の、少し細い、ちょっと吊り気味の。この男は何を言っているのか。今日何度目かの自問であるが未だに答えはない。素直に伝えた。


「すみません、ちょっとおっしゃる意味が分かりません」


問いかけた割に答えを期待していたわけではないらしい。優子の返事に続いてすらすらと説明が続いた。


「鼠害、鼠の害ですね。鼠害を防ぐという意味では狐は益獣です。しかし田畑を荒らすので駆除の対象になることもあります。イギリスであれば狐狩りは娯楽でしょうが、日本にはそのような文化はありませんでした。殺してそのまま埋めたのだとしたら毛皮目当てとも考えにくい。つまりきつね浜のきつねが生物学上の狐なのだとしたら、害獣として駆除されたという線が妥当でしょう」


遠野は茶を一口飲んで話を続ける。


「狐は何匹かのコロニーのようなものを形成して子育てすることが知られています。子育て中は餌のために人里に降りてくることも多いでしょう。それが人間にとって害となるのであれば、一匹程度駆除しただけでは問題は解決しない」


「昔話では一匹のように伝えられているけれども、実際にはお殿様はたくさん狐を殺していた」


優子の言葉に遠野は頷いた。


「埋められたのはなぜ九尾だったのか。それは駆除した狐の全体のようなものだと考えるといいかもしれません。人間でも親が死に、子が死に、いつかは孫も死にますが後の代からは『ご先祖様』とまとめて呼ばれます。その呼ぶ人もいつかはご先祖様になるわけです。同じように駆除された狐はいつしかまとめて九尾のきつねと呼ばれるようになった。尻尾が複数なのは元が複数の個体だった名残なのかもしれません」


「先ほどおっしゃっていた個と全体、個と概念のお話ですか」


ようやく目の前の人物が何を目的として昔話を始めたのか手がかりが現れた。優子は最後に残った味噌汁を飲み干した。結局ずっと食べながら話してしまった。


「はい。個はいつかは全体に収斂されていく。人間はいつまでも数を数え続けられるわけではない。ひとつ、ふたつ、みっつ、たくさん。そうやって個は忘れられていくのでしょう。だから僕たちは焼き鯖の話を共有できるのです。今日は鈴木さんも僕も同じもの、つまり焼き魚定食を食べたというように」


長話にお付き合いいただいてしまいました、と言いながら遠野は立ち上がった。話の切り方があまりにも唐突である。ちゃっかり優子の分の伝票まで持ち去ろうとするので慌てて止めるが間近でにっこりと微笑まれて思わず身を引いた。やはり苦手である。


「そういえばご挨拶もしておりませんでした」


そう言って背広の内ポケットに手をやる。名刺を出そうとしているのであろう顔面に向かって制止するように右手の平を向けた。


「遠野さん。ゲンさん、原元さんから伺いました」


そして何の気なしに付け加えてしまった。


「『遠野物語』と同じお名前ですね」


その瞬間、遠野の顔から表情が抜け落ちた。柔らかい印象を与えている笑みがないと、思ったより鋭利な顔立ちである。犬猫のような家畜よりは野生動物だと失礼なことを考えてから自分が相手の気に障ることを言ったのではないかと思い至った。


「すみません、何かお気に障ることでも言ってしまったでしょうか」


そう優子が言うと遠野は再起動した。小首をかしげてにっこりする。相変わらず何を考えているのか分からない顔だった。


「いえ、何でもありません。原元さんにもよろしくお伝えください。今日は名乗りもせずにお付き合いをお願いしてしまいまして申し訳ありませんでした。やはりここはお支払いしますので」


そう言って軽く礼をすると出口に向かって歩き出す。もはや伝票を取り返すのは不可能に近いだろう。ひとつ気にかかることがあった。あの、と声をかける。


「お殿様は実在の人物なんでしょうか。それとも概念ですか」


きつねの話は荒唐無稽だと思った。しかしそんな昔話に付き合わされたお殿様という人物がなぜか気にかかった。遠野はああ、と言って振り向いた。


「新井城主、三浦荒次郎。身長二メートルもある巨漢の豪傑だったと伝えられています」


にっこり微笑んで、今度こそすたすたと歩み去って行った。

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