鯖の塩焼き

じゅっ。じゅわっ。じりじりじり。炎が小さくぼっ、と上がる。大将が鯖をひっくり返す。じゅっ、じゅわっ。銀色の肌から脂が落ちる。


優子は調理場がよく見えるカウンターに陣取って鯖が焼き上がるのを見守っていた。今日の日替わり定食は近海で採れる鯖の塩焼きである。ランチの一回転目が終わったくらいの頃合いで、店内はまだ混み合っていた。数人の連れを伴ってやってくるビジネス客が多い店である。ひとり客向けのカウンター席は比較的空いていた。大将が今焼いている鯖たちはおそらく優子が入店するときに注文をしていた四人組のものだろうと思われた。優子の鯖はまだ焼きはじまってもいないだろう。


じりじりじり。この店の焼き魚は炭火で焼くのである。大将は細長い炭火用コンロの端から順にぷりぷりとした鯖をきっちり並べて手際よく焼き上げていく。鯖が皿に取られるとほかのスタッフが米と味噌汁を準備する。てきぱきとして清潔な台所ぶりであった。


五月の連休も終わりスケジュールは通常運行に戻っていた。今日優子は予約を取って税務署に足を運んでいたのである。税務署は平日しか窓口が開いていない上に税務相談は予約制になっている。連休明け早めにと思って連絡したら最短で予約を取れるのが今日の午前十一時であった。優子には少々堪える時間帯であったがやむを得ない、しっかりと目覚ましをかけてなんとか間に合った。


連休中の優子は書類などをはじめごたごたしたものを整理していた。アパートの自室には確定申告書類の書類が置きっぱなしになっていた。三月に郵送で提出して控えが返送されてきていたのである。何気なく手に取ってみてふと首をかしげた。どうも税額控除を勘違いしている気がする。


この身分になって四季はすでに巡っている。しかし二十八歳まで会社員だった人間には経理の負担が正直重かった。会社のほうは税理士がチェックしてくれるが、個人の確定申告まで頼む予算は捻出できなかった。なので自分で申告書を入力して郵送している。間違えている気がしたのは、その個人のほうだった。簡単に検索しても分からなかったので連休明けを待って税務署に電話したのである。相談してみたところやはり優子がミスをしていた。修正申告というものの洗礼をこれから受ける羽目になっている。考えてみると少々ならず憂鬱であった。


ふと優子の隣、空席の椅子が引かれる気配がした。ほかにも空いている席はあるのに運が悪いな、とは思ったが視線は向けなかった。できればゆったりとした空間で食事をしたかったがこの時間には贅沢な話だと分かっている。スマートフォンのディスプレイを指でなぞってスクロールする。先日取材を受けた不動産業界紙の担当者から掲載連絡が来ていた。念のため内容を確認して礼の言葉を入力する。鯖のことを考えていたら無意識で文末に魚の絵文字を入れていた。すぐに消した。


隣席に茶とおしぼりが出された。間髪入れずに焼き魚で、と注文が入る。優子はその声に聞き覚えがあったので思わず顔を上げてしまった。


「先日は」


きっちりとスーツを着込んだ人物が微笑んでいた。椅子の下に用意された荷物入れにビジネスバッグをしまっているところだったらしい。中腰になっていたので優子と目線の高さが変わらない。ばっちり目が合った。


ちゃーを神社で確保したこの営業マンは名前を遠野というらしかった。何をどう調べたのか、ゲンさんの部屋のポストだけにしっかり名刺が入っていた。先日優子はそのことをゲンさんから直接聞いた。珍しく多少早く起きられた朝のこと、出勤前のゲンさんとアパートの敷地内ですれ違ったのである。優子の想像通り、名刺は不動産会社のものだった。優子の記憶が正しければ、所在地は今いるこの店の近所のはずだ。


「……その節はお世話になりました」


頭の中が完全に焼き鯖一色になっていたため身構え損ねた。神社であれほど警戒していたのが冗談のように、当たり前に挨拶を返してしまった。


遠野はとんでもありません、と言いながら背広の前ボタンを外して椅子に座った。開いた隙間から共布のウェイストコートが見えた。二十一世紀に三つ揃いのスーツである。ズボンはサスペンダーで吊っているに違いない、と考えて優子の眉間にはまたしわが寄ってきた。とんでもない洒落者である。


スーツをじろじろ眺める目線に遠野が気づいた。微笑みながら小首をかしげるのは癖らしい。どうにも小癪だと優子は思ったが、他人の腹のあたりをじっくり舐め回すように見ているだけではこちらが不審者である。なんとか話題を探した。


「スーツ、大丈夫でしたか? どうも換毛期真っ盛りだったみたいで」


飼い主さんもちょっと気にされていました、と付け加える。名刺を受け取った後どうしたのだったかはゲンさんから聞いていないなと思い出した。


「いえ、特に問題ありません。仕事を放棄して猫と遊んできたのかと現場で職人さんたちにからかわれました」


男は澄ました顔で答えて茶をすすった。


「原元さんにはご丁寧にオフィスまでお越しいただいたようで。僕はあいにく不在だったのですがお仕事先のだというお菓子をいただきました」


「そうだったんですか」


ゲンさんが働いているレストランは目の前が海岸である。好立地だが気取らないカジュアルな店で、若いころに製菓学校を卒業した店長が作るスイーツも人気である。最近ではオリジナルの焼き菓子をインターネット通販もしている。その詰め合わせを持って行ったのだろう。


「美味しいですよね、とくにダックワーズ」


さくさくふわっとした食感を思わず頭の中でリプレイしてしまった。少しだけ表情が緩んだ。美味しいものは好きである。優子の顔を見た遠野は少しだけ眉を上げて、思い出したようにもう一度茶をすすった。そしてにっこりとして答える。


「いただきました。少し大きいサイズなのが満足感あって良いですね。内勤のスタッフにも好評で、これから積極的にペット探しに協力しろと言われました。どうせ営業なんて外で暇を潰しているんだろうなんて酷い話です」


迷子ペットを見つければ見つけるだけ美味しい菓子折が届くという算段だろうか。言っていることは分からなくもないが優子には少々不快だった。


「いなくなったペットが見つかれば飼い主や周りの人はみんな喜びます。でも見つかるペットがいる中で最後まで見つからない子もいるんです。彼らは菓子折の配給票じゃない」


猫を保護してくれた人に対する言い方でないことには言い出してから気づいたが遅かった。この男に対しては最初の警戒心からだいぶ失礼な態度を取っている自覚はあるがこれはさすがに酷い。目のやり場に困って炭火の上にで脂を垂らしている鯖を見つめた。じゅわっ。


「すみません、助けてくださった方に言うことじゃありませんでした」


鯖を睨みつけながら謝った。男は小さくはいきゅうひょう、と呟いた。それがあまりにも楽しげに聞こえたので優子は思わずその顔を見た。遠野は先ほどの優子と同じくコンロの上の鯖を眺めながらクスクスと笑っていた。今までの得体の知れない微笑みと違い、面白がって笑っているということがよく分かる笑い方だった。


ひとしきり笑い終わると遠野は失礼、と言いながら表情を改めた。


「仰るとおりだと思いますよ。情を持った人間にとっては犬だろうと猫だろうとコオロギだろうとそれはかけがえのない存在になります。しかし部外者にとってはそうではない」


遠野はおしぼりを持って広げた。丁寧に両手を拭いながら続ける。


「猫は猫という概念でしかありません。可愛い、とか、気まぐれ、とか、最近のはやりだと液体、なんてものもありますね。実態がない。概念を消費するだけです。ですからあっさりとダックワーズの配給票にもなりえます」


念入りすぎるほどの手の拭きようだった。まるで何か嫌な汚いものでも触ってしまった後のように思えた。


「動物を飼っていたことがおありなんですか? 」


そんな気がした。配給票の話をしていた遠野は今までよりもずっととっつきやすく思えた。


「子どものころに、トイプードルを。僕が散歩をさせている途中で逸走しまして、戻ってきませんでした」


優子は思わず顔を背けてすみません、と呟いていた。本日二度目の謝罪である。一分の隙もないくらいにきっちりとスタイル良くスーツを着こなしているくせに猫の毛だらけになっても気にしない男である。迷子のペットに対する思い入れが何かしらあってもおかしくなかった。もう少し考えてものを言うべきであったと優子は反省する。


遠野はいいえ、と答えた。


「ある意味この話題に誘導したのは僕のほうですよ。あれ以来さすがに動物を飼おうという気にはなれません。自分にはそんな資格がないんだと思って生きてきました。しかし動物と一緒に過ごすのは楽しいものです。いなくなってしまったうちのトイプーという個に固執しながら、概念としての動物と適当にふれあうことには何の違和感も覚えない。不思議なものです」


男の言う意味について優子はしばし考え込んだ。


「その場でもふもふはするんですね」


「はい」


もふもふ、と言う言葉に遠野がまた少し笑った。目が笑うといきなり印象が変わる人だと優子は思った。得体の知れないものから人間に戻ってきたような気がする。


「でもこの子はどこの子かな、とか、名前は何かな、とかは考えないんですね」


「そういうことです。ときたま周りの人間が概念にいきなり個別性を与えるので驚くことがあります。この間のあの猫のように」


遠野の微笑みはまた何を考えているのか分からないものに戻っていた。口元だけですっきりと笑うこの笑顔が苦手なんだなと優子は気づいた。


優子は頭を振った。概念やら個別性やらといった用語を持ち出して遠野が言いたいことはうっすらと理解できるような気がしたが、なぜそのように考えたがるのかはよく分からなかった。


「たとえ行きずりの関係だとしても動物にはそれぞれ個性があります。同じ個体は存在しないはずです」


行きずり、と男は再び呟いた。しかし今度の口調は硬かった。口元から微笑みを消し、視線をまっすぐ焼かれている鯖に向けると遠野は口を開いた。


「鈴木さんはすべての個体に個性があるとおっしゃる。それは僕も否定しません。しかしそれで概念が失われるわけでもありません。今日は鈴木さんも焼き魚定食をオーダーしたのだと思いますが」


さらさらとした髪の毛の下にある目がこちらを向いた。優子は頷く。


「ここの鯖は美味しいですね。美味しいと思ったら誰かに勧めたいと思う。しかし勧める僕と勧められた誰かの食べる鯖は同一個体ではありません。しかし互いの体験を持ち寄ってきっとこういう会話をするでしょう。『こないだ勧めてもらった店の焼き鯖、旨かった』『そうそう、あそこはいつ行っても旨いんだよね』と」


現在コンロの上に並んだ鯖はいち、にい、さん。少しオーダーが落ち着いたのかコンロの上に余裕がある。もうすぐ優子の定食が配膳されるだろうか。


「鯖がそれぞれに独立した個体であるということと、この店の焼き鯖がいつ食べても絶品であるということは互いを否定しません。鯖という概念、全体と言ってもいいかもしれません。個と全体、その違いと境界は果たしてどこにあるんでしょうか」


優子は面食らっていた。個は個であり種は種である。正直に言って男の話していることがよく分からなかった。


またしても眉間にしわを寄せていると、お待たせしました! という明るい声とともに優子の焼き魚定食が配膳された。遠野は軽く頷いた。


「冷めないうちにお召し上がりください。BGMとして昔話をお聞かせしましょう」


さっきからこいつは何を言っているのだ、というのが正直な感想であったが、じゅうじゅういう鯖のほうに注意力を向けることにした。いただきます、と手を合わせると、隣で男が静かに話し出した。

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