大家代行 - 2
だいたいが木浦の入れ知恵で始まった会社経営の中で、唯一優子が自分の発案ではじめたのがシッター業であった。動物を扱うにはそれなりの資格がいるのかと思いきや、預かり業務程度なら通信講座で民間資格をひとつ取れば十分なのだった。こちらに引っ越してきてから半年ほど黙々と勉強し、すんなり動物取扱業者になることができた。
そんな経緯で、優子は現在入居者限定のペットシッターでもあるのだった。これほどまでにあっさり業として動物に関わることができることに優子はやや戦慄したが、とはいえシッターとして優子がやるべきことはただひとつである。飼い主の帰宅までペットの安全をしっかり守ることだ。
さて、今日安全を守られるべきラブラドールの名前はノエルという。クリスマス、という名前をもらいつつも体色が真っ黒なのは少し不思議だった。名前の由来は、誕生日が十二月二十四日だからなのだという。前回のクリスマスでようやく満一歳を数えたばかりの、まだまだやんちゃ盛りの大型犬であった。
掃除道具を片付けた優子は着替えて母屋へと向かった。母屋の和室でノエルが散歩の時間を心待ちにしている。
アパートの敷地から道を一本隔てた母屋は、一見しただけで祖父の逡巡が分かるような造りになっている。優子が生まれてすぐくらいの時期に、もともとの古い農家屋を取り壊して建てた。ツーバイフォーの建物なのでそこまで目立つ外観ではない。ただし周囲の建売住宅よりは一回り以上大きいという印象を受ける。
室内に入ると間取りの独特さが目立つ。毎日優子が雨戸を開け閉めしている和室は南側の最も日当たりのいい場所に十二畳ものスペースを占めている。南側は全て掃き出し窓である。つまり、日本家屋でいうところの座敷なのだった。
西側に玄関があり、本来はそちらから出入りする。北側にはダイニングキッチンや風呂場などがまとまっている。ダイニングキッチンから和室への出入りができる。東側には大きめの納戸があった。
二階はぐっとセットバックした造りになっていて、あるのは祖父の部屋・祖母の部屋・客間の三室のみである。優子の記憶にあるかぎり祖父母はずっと別室でやすんでいた。客間に最も頻繁に宿泊したのは、きっと優子だっただろう。
そんな間取りだったから、一階の和室は常時リビングルームのような役割を果たしていた。祖母が編み物をするのも、祖父がテレビを見るのも和室であった。それならダイニングキッチンとつなげてリビングルームにしてしまえば良いようなものだが、祖父は座敷様の部屋を残すことにこだわったそうだ。優子が父から聞いた話では「自分たちの葬式で使うから」と言っていたという。
しかし祖母も祖父も、葬儀は結局葬儀場で行った。現代社会ではそのほうが手間がないのだ。だいいち弔問客が車で乗り付けたら、いくら広いとはいえ母屋の敷地などすぐにいっぱいになってしまう。モータリゼーションがどうの、と喧伝されていた時分、優子の父が幼かったころならまだしも、母屋を建て替えていた時期ならそんなことくらい予想できただろうに、と優子は思う。
なので、葬式云々は言い訳だったのだろう。母屋をきれいさっぱり取り壊して建て替え、それまでの家業というものから一切合切手を引きたいという思い。そして実際に畑を潰し、アパートを建て、これまでの土地の姿をすっかり変えてしまった。ひとり自分勝手な行動をしているのではなかろうかという罪悪感。それらが祖父の中では常にせめぎあっていたのではないだろうか。座敷というのはある意味、祖父が本当は捨て去りたかった「家」を象徴するものだったのだろうと優子は思う。本当のところはもう分からないが。
さて、そんな揺れる思いも今は昔で、優子が玄関側の入り口から和室に入ると燦々と日光が降り注ぐ最も日当たりの良い場所を黒くつやつやした大きな生き物が占領していた。足音に反応して振り返った若い顔には少し白目が見えている。非常に分かりやすく「あ、やべ」と言っている顔だった。
優子は知らんぷりをしてノエルの前に回り込んだ。廊下のどこかで脱いだはずのスリッパの、片方が消滅していた。間違いなくこの黒い毛皮の生き物はその行方を知っているはずだ。
果たしてスリッパはノエルの前足の間で無残な姿をさらしていた。優子は感心してそれを眺めた。スリッパの中は底部から始まっていくつかのクッション材を重ねて作られている。ノエルはそれを非常に丁寧に一枚一枚剥がしていた。なかなか器用である。
このようなときに叱るべきなのかどうかが優子には分からない。自分自身のためにペットを迎える気にならないのは、こういった子育て的責務を負える自信があまりないからだった。とりあえず預かって運動させておけば良いシッターと、四六時中その生に関与しなければならない飼い主では責任のあり方というものが異なる。そして優子にとって後者は非常に繊細で難しいものに思われた。
スリッパには不憫なことをしたが、今回はどちらかというと遊ばれたくないものを犬の口が届く範囲に放置してしまった人間側に問題があるような気がする。しかし通信講座のテキストには「だめなことはきちんと叱りましょう」とあった。だめなこととは何だろうかと優子は思う。スリッパを解体するのはだめなことではなく、優子がしてほしくないことである。叱るのではなく、頼むからやめてくれと犬に伝達する手段が欲しい。
そんなことを考えながら優子がスリッパをずっと見つめていたので犬は非常にばつが悪くなってきたらしい。最初は顔を背けて知らないふりをしていたが、そのうち口をぴちゃぴちゃさせながら姿勢良く正座した。「おすわり」の体勢である。一応反省らしきものはしているらしい。しかし機会があればまた同じことをやるのだろうなと思うと少し可笑しかった。
「ノエルさん、散歩行こうか」
緊張して待っている犬にかける言葉としては少々間抜けなことしか、結局優子は言えなかった。
ノエルは業界用語で言うところのいわゆるハイパーアクティブな犬なのだと優子は理解している。「お散歩」という言葉への反応がすごい。お散歩と聞いた瞬間に尻尾は最高速度で運動して四肢は辺りを跳ね回る。小型犬なら可愛いものなのだが、ノエルの体重は現在三十キログラムを超えた。どすんどすんとなかなか貫禄のある音が和室に響き渡る。
優子はノエルが喜びの踊りを舞っている間首をかしげて待っていた。右手にはリードがあり、ノエルの体には常にハーネスが付いている。後は金具をナスカンに通せば散歩に行けるようになるはずなのだが、なかなかそこまで辿り着けない。
優子が無反応なことに気づいたのか、ふと犬が動きを止めた。優子は素早くナスカンをハーネスに通した。優子とノエルとでは体重が僅差なので、リードを手で持つと危険である。肩を壊す恐れがある。そのため優子は片側がベルトになっていて自分の腰に回せるタイプのリードを愛用している。
今日も何となくぐいぐいと引っ張られながら散歩に出かけた。引っ張られたら優子は立ち止まる。立ち止まると犬はさらに曳こうと頑張るが、ふと人間の動かなさに気づいて動きを止める。そうしたら優子は再び動く。犬も人間が動いたことを感じて歩きはじめる。少し行くとまた犬が早足になる。引っ張られたら止まる。それを繰り返す。
ノエルの飼い主はしののめの一〇二号室に住んでいる長沢さんという。カップルで住んでいるがふたりの苗字は別々である。長沢さんのほうがノエルの主な飼い主だった。アパレルで正社員をしているらしく、仕事は長時間になりがちである。責任ある立場だということで出張などもあるようだった。今回は昨夜から今夜までの予定で出張である。そういうときは優子が預かることが多い。優子の自室だとその辺りに転がっているケーブル類を噛んで遊んでしまう恐れがあるため、母屋の和室を片付けてそちらで待機してもらっていたのだった。
犬に引きずられそうになりながら二車線道路を渡って砂浜に下りた。犬はとても楽しそうに尻尾を振りながら鼻で砂をほじくり返している。
ノエルの祖先は海沿いで猟や漁を手伝っていたはずだ。獲物を回収してくるという役割からレトリバーという名前が付けられた。つまり彼らの血は、仕事をしたがっている。
優子はリードを十メートルほどある長いものに付け替えた。そうして辺りに落ちている手近な石を拾って投げた。
放物線を描いて飛んでいく石に気づいて、犬は尻尾を振ったまま駆けだした。波打ち際にしぶきを立てて落ちた石を鼻で特定して加えて持ってくる。優子の前まで来るとぽとりと落としてにっこり笑った。
「うん、大正解」
ノエルが持って来た石は正しく優子が投げたものであった。毎度のことながら犬の嗅覚には舌を巻く。ほんのわずかな間優子が触っていた、その匂いを嗅ぎ当ててくるのである。
石を投げ投げ、優子と犬は一時間ほど海岸を歩いた。良い天気だった。犬は人と違って会話をする必要がないので気が楽だ。身ぶりと顔の表情だけでコミュニケーションが取れる。興奮を隠しきれなかったノエルも、匂いを取り取り歩き続けて少し落ち着いてきたようだった。
ひとりと一頭は砂浜と海岸沿いの遊歩道を結ぶコンクリート製の階段に腰を下ろした。すべすべとした体毛を撫でながら、優子は平和だな、と思った。そう思える機会が、ここ最近は随分増えてきていた。
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