大家代行 - 1
翌日の午後早く、優子は週に一度と決めているアパートのごみステーション掃除をしていた。共用廊下の掃除も週に一度、それ以外の共用部も週に一度。管理会社が派遣する清掃員であれば一日で終わらせて帰るのだろう。優子も最初は一日にまとめようと考えていたのだが、二週目くらいで目眩がして昏倒しかけた。それ以来細切れに行うことにしている。
今週は放置ごみがなかったので掃除はすんなり終わった。酷いときには夜中にこっそり布団などが突っ込まれていることがある。布団は粗大ごみなのでごみステーションに出しても収集されない。「捨て方が間違っています」という黄色い紙が貼られるだけである。単に勘違いということもあるので、優子は一週間ほどそのままにして様子を見ることにしている。しかしだいたいは回収されないので確信犯である。仕方がないので優子が粗大ごみの手続きをして収集してもらう。ごみステーションがきれいになっていれば治安が良い。因果関係は不明だが相関関係はあるようだった。
優子は今の立場を大家代行と称することを好む。法的な立場を正確に言うと、優子はあけぼのとしののめを所有する資産管理法人の代表取締役、である。しかしその肩書きはあまりしっくりこなかった。
祖父が他界し、ひとりっ子だった優子の父が全ての資産を相続した。母屋と、アパートと、そして少なからぬ預貯金があった。相続税を払うところまでは問題がなかった。しかし、蓋を開けてみて困ったのがアパートだった。
素人の想像以上にアパートの経営状態は悪かった。収支は良くてとんとん、固定資産税まで合わせると赤字なのではないかと思われた。主な原因は稼働率だった。二棟で十六住戸あるうちの、半分以上が空室だったのである。
当時優子は退職したばかりでぶらぶらしていた。父からその話を聞いた優子はすぐに木浦のことを思い出した。優子にとっては数少ない大学時代の友人と呼べる間柄の人間で、ちょうど隣の市に当たる横浜にいるはずだった。実家は不動産会社で、「どうせ家を継がなきゃいけない」が学生時代からの口癖だった。新卒で不動産会社に就職した後何回かの転職を経て、現在は父の会社の関連会社社長という位置に納まっている。
優子が連絡を取ると木浦は一度現地を見ようと言ってくれた。優子と両親、木浦が揃ってアパートの見学会を行ったのは二年前の九月のことだった。
「確かにこのままだとちょっと厳しいですね」
リフォームをかければ入居者が集まるでしょうか。そう尋ねた優子の父に対する木浦の返答は辛めだった。
「海が目の前なのはめちゃくちゃ魅力的なんですけど、駅から歩いて三十分かかるし、線路が単線です。横須賀市自体人口が減ってるのに、この辺にも築浅のアパートが多いですしねえ」
木浦は頬を右手でこすりながら言った。
「やっぱ売却するしかないかな」
優子の頭には当初からそれしかなかった。どちらかというと、不動産のプロである木浦にそれを言わせて父を納得させることが優子の目的だった。
「そうねえ」
頬をこすりながら木浦は言った。そしてふと優子の顔を見てにやりと笑った。
「鈴木ちゃん、動物好きだよね?」
それが会議の始まりだった。母屋の和室で四人は木浦のパソコンを囲んだ。
「もともと賃貸物件ってペットが飼えないものっていう前提があったんですが」
木浦は不動産オーナー向けに情報を発信しているウェブサイトを開いていた。
「最近ペットフレンドリー物件っていうのが増えてるんです。たとえば猫用に室内に造作を追加してあげたり、大型犬も飼えるようにしてみたりとか」
「それはおもしろそうですね」
優子の父も興味を持ったようだった。
もともと優子の祖父が動物好きだった。優子が生まれる直前に農家を廃業して以来不動産経営のみで生活していた祖父は、時間に余裕があったためかたくさんの動物を飼っていた。犬、猫、鶏。優子は子どもの頃しばしば長期間母屋に滞在したが、祖父母だけが住む母屋はまったく静かではなかった。様々な生き物の声と気配に満ちていた。
祖父と、祖父に先立つこと三年前に他界した祖母の葬儀で、優子は成人してから久しぶりにこの町を訪れた。母屋は静まりかえっていた。さすがの祖父も数年前に最後の猫を見送って以来、動物と暮らすのを辞めていたのだった。気配の消えた母屋はがらんとしていた。
動物好きの血は祖父から父、父から優子と脈々と受け継がれている。高校生の途中まで長いこと官舎住まいだった優子は大学卒業後すぐにひとり暮らしに移行してしまった。そのためペットの飼育経験はないが、両親は今猫を飼っている。優子のいなくなった実家に間をおかずに居を構えた捨て猫二匹である。父が拾ってきたのだった。今では実家に帰るたびにしゃーしゃー威嚇されている優子であった。
「ここのアパートは間取りが古いのが難点ですが、その代わりまあまあ広いです。思い切って飼育制限なしのペット可物件にして、その代わり家賃を上げてみるのがいいんじゃないかと思います」
「家賃上げて大丈夫かな」
「むしろ無責任な飼い主をそこで選別するつもりになったほうがいいよ。ある程度お金を出してきちんと動物を飼うつもりのある人だけを選ぶっていう」
「なるほど」
優子は納得した。
かくしてあけぼのとしののめはペット可物件になるべく変身を始めたのだった。もとからいた入居者にはこの変更は歓迎された。ゲンさんをはじめ、さっそくペットを飼いはじめたところがいくつかあった。
問題は誰が管理するかだった。突然ペットを飼っている人が増えると、音やら匂いやら何やらと最初はトラブルの発生が避けられない。少なくともここのシステムが安定して回りはじめるまでは誰か責任者が近くに住んでおくべきだと木浦は言った。そしてそれができる適材がひとりいた。優子だった。
親が持っている不動産を子どもが管理するのは特に問題ないように思われる。しかし管理者と所有者が異なると、入居契約のたびにわざわざ印鑑をもらわなくてはならなくなる。意思決定が面倒なのだ。そこで、木浦は資産管理法人を作ることを提案してきた。所有権を法人に移すことで、法人の代表者が所有者として振る舞うことができるのである。
優子の銀行口座にはタイミング良く退職で手に入った小金があり、それを元手に株式会社を作った。アパートは法人が父から購入する形を取った。金融機関を介さない借用なので、無利子で三十年かけて返済する。借用書はもとから付き合いのあった弁護士に作ってもらった。ついでに空室をリフォームする費用も貸してもらった。
さすがにユニットバスを全交換することは難しく、天井や床などを張り替え、浴室乾燥機を付け、追い炊き釜を設置した。和室をフローリングに替えたりキッチンユニットを交換したりも追加すると一住戸あたりの金額もそれなりになった。この出費も現在着々と返済している。
入れ知恵のもろもろを担当してくれた木浦には会社からコンサルタント料を払っている。現在でも優子と木浦は頻繁にやりとりをしている。なにしろ優子には不動産経営についての知識がまだまだ少ない。
優子は最終的に法人の代表権を父に渡せば良いと思っていた。あと三年もすれば退職する父の、悪くない老後の仕事になる。だから大家代行という言葉を優子は好むのだった。しかし当の父があまり乗り気ではなかった。一度アパートが手離れしてだいぶ安心したらしく、そのまま優子が持っていれば良いと言うのである。向こう三十年は毎月購入代金が法人から振り込まれるわけで、収入源としても悪くはない。どうせ最終的には優子が全て相続するのだから、と父は言った。優子もひとりっ子なのである。
ここまでのアパート経営は概ね順調であったと言える。とは言っても、最初に全室埋まるまでの半年ほどは少しずつ資本金が返済で消えていく日々だったので気忙しかった。しかし木浦の読みはだいたい当たった。大したものだった。不動産の検索サイトに登録した物件情報を更新すると、ぽつぽつと週に一度ほど内見の問い合わせがやってきた。リフォーム中の部屋を見せて回り、リフォーム完了前に入居を申し込んだ人には壁紙などを希望の色で選ばせた。エリさんもそのひとりだった。
さすがに一度満室になってしまうとすぐに入退居があるわけではない。全室埋まってから半年後に一室空き、また最近一室空いた。それらはペット可になる前からの入居者で、内装が古いままの住戸に住んでいた。空くたびにリフォームをかけるが、今度は会社の口座からちゃんと支払いができる。不動産収入としては小規模であるが、それなりに回っているということだった。
そんなようなわけで、優子の身辺は今だいぶ落ち着いてしまっているのである。会社の売上も上方で安定して、何かしなければこれ以上は増えない。ペットが飼える賃貸という意味では近隣に競争相手がいない寡占状態である。物件の価値は低下しづらくすぐに収益が減ることもない。一種のマンネリとも呼べる状態で経営者としては警戒すべきなのだが、さて次に何をするかというと特に何も思いつかなかった。
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