友達 - 2

ぼんやりとふたりを眺めていたら思わず少し顔が緩んでいたらしい。エリさんが変な顔をしてこちらを見た。


「あー、最年少が大人ぶってるぞー」


エリさんの前だけビール缶が多い気がする。それなりにきこしめしているようだ。しかし大人ぶっているとは何か。全員大人であることに異議でもあるのか。


「ううん、なんか懐かしいなって思ったんです。家で誰かとご飯を食べるのってこっちに来るまで長いことやってなかったので」


優子が言うとふたりはほう、という顔になった。


「会社員の頃はどこで飲んでたわけ?」


食事をするから飲むに目的がすり替わっている気がする。そう思ったがエリさんに尋ねられて正直に答えた。


「三茶とか」


「うわーマジかよ金持ちー」


そう言われるだろうなとは思ったが嘘をつくわけにもいかない。あと現実では金持ちですらなかった。


前職の会社は池尻大橋と三軒茶屋の間にあった。玉川通りは首都高ですっぽりと蓋をされていていつもなんとなく薄暗い感じがした。三宿のあたりというのは駅から離れている物件も多い。駅徒歩二十分となってくると二十三区基準ではもはや僻地である。つまり家賃もピンからキリまでとなるわけでなんとか新卒の給料でも住めた。とは言っても手取りの三分の一以上は持っていかれた。金持ちではなかった所以である。


ではなぜそんな家賃の高いところに住んでいたのかというと激務だったからである。実家から通うのは三ヶ月目で諦めた。片道一時間半の通勤が無理だったら一時間になったところでどうにかなるというものではない。畢竟会社の近くに住むことになった。そのままなんとなくずるずる五年ちょっと、過ごしてしまった。


「東京だったらみんな近くに住んでるでしょ? 誰かんちに集まったりとかなかったの? 」


ゲンさんに聞かれたがかぶりを振った。正直に言うと誰かに呼ばれるときはご飯、ですらなかった。だいたい合コンのようなもので、出席者の半分くらいは知らない人間だった。


「みんな、ものすごく、忙しかったし……だいたい私は数合わせ要員だったので」


ぽつぽつと喋るとふたりの目がかわいそうなものを見るものに変わった。合コンが多かったことは察してもらえたらしい。


世田谷というとハイソなイメージがあるかもしれない。しかし三軒茶屋は駅前に闇市が残る、昭和をまるごと抱えたまま大きくなった街である。二十代会社員が住む分には十分すぎるほどだが、上昇志向の高い人間からすると垢抜けなさの象徴のようなものであったらしい。


「もう三年目でしょ? いつまで三茶いんの?」


あるときそう言っていた男がいたっけなと思い出した。取引先の営業だった。あの男は恵比寿だったか広尾だったかに住んでいることをたいそう自慢にしていた。ぴったりとしたスーツと派手なネクタイを身につけ、高級そうな香水の匂いをさせていた。座ったり立ったりが多い仕事だ。いつもスラックスの膝の裏だけしわだらけなのが滑稽だった。三年目で三茶、四年目なら四茶とふと思ったがそのときは何も言わなかった。言ってやれば良かった。間抜け面が拝めたかもしれない。


ぼんやりと物思いにふけっていると電子レンジがのんきな電子音を立てた。


「でーきあーがりー」


立ち上がったゲンさんが鍋敷きの上に耐熱皿をのせて戻ってきた。ほかほかと湯気を立てるドリアの表面にはほどよく焦げ目の入ったチーズがたっぷりかかっている。食欲をそそる香りだった。


「冷蔵庫掃除だから和洋折衷でごめんねえ」


というが、優子からすれば非常に贅沢な食事である。むしろお支払いをいたしますと言ったらエリさんが笑った。


「でも友達同士でいっつも外で、ってなるといくらお金があっても足りないよね」


エリさんが立ち上がりながら言った。酒が切れたようだ。


友達。これも懐かしい響きだ。あれは何だったんだろう、と優子は思う。ほんの二、三年前のことなのにもう遙か昔のようだ。名刺から始まり、メッセージアプリに移行し、なぜだかどんどん追加されるグループ。数合わせ以外のどういう理由で呼ばれたのかよく分からない合コン。


「もはや、友達、ですらなかったのかもしれない」


呟くとゲンさんが動揺したようにおう、と言った。


「とりあえずドリア食べなよ」


なんだか慰められているような気がしたが気にしないことにした。礼を言ってスプーンですくったドリアはまろやかにソースがからだ。口から鼻孔へ抜ける香りがもったいなく思え、優子はもう一度息を大きく鼻から吸い込んだ。


熱々のドリアをゆっくり味わっていると、玄関ドアが開く音がしてエリさんが登場した。右手に缶の六本ケースを下げている。優子はエリさんが屋外に出ていたことに驚いた。


「追加を持ってまいりましたー第三のビール!」


どうやら足りなくなって自室にまで取りに戻ったらしい。ゲンさんと優子の部屋があるあけぼのとエリさんが住むしののめの間には、以前駐車場だったスペースがある。往復しても二、三分の距離である。優子は祖父の畑だったところを潰してより広い駐車場にし、入居者の車をすべて移動してもらった。古いほうの駐車場には大型犬も洗えるシャワーを設置してフリースペースと呼ぶことにした。シャワーはウインドサーフィンを嗜む入居者にも好評なのが嬉しい誤算だった。


優子は自分が飲んでいた缶を振ってみた。空だった。その様子を見たエリさんが発泡酒を投げてよこした。炭酸が吹き出すさまを想像して顔をしかめていると笑い声がした。


「おゆうはさあ、ご飯食べてぽけっとしてると可愛いのに普段のその顔が台無し」


なんと失礼なことを言うのか、と視線で抗議するとさらにケラケラ笑われた。大変心外である。


「げんたろうよどうにかならないかね、この子の人間不信は相当なものですよ」


酔っ払いの仕草が芝居がかっている。ゲンさんは苦笑していた。


「優子ちゃんは自立してるし大家業も立派にこなしてるしお前に心配されることは何もないと思うぞ」


優しいお兄さんである。自立云々はともかく大家業に関しては木浦に足を向けて寝られない。これまで完全なおんぶに抱っこのまま来てしまった。しかしその件はとりあえず置いておこう。人脈作りも能力のうちである。


「えーだって今日の人だって話聞いてると感じのいいイケメンなんでしょ? それを得体の知れないってなー」


あたしも見てみたかったなーイケメン、とはのんきなものである。


「……イケメン」


そんな単語があることも忘れかけていた。たしかに、イケメンとはああいう男のことを言うのだった。反芻するように俯きながらいけめん、と口の中で繰り返す優子にエリさんが生暖かい視線を向ける。


「そうそう、とりあえずうちのポストにはイケメンの名刺入っておりませんでしたことよ」


エリさんの言葉に優子は顔を上げた。


「あ、やっぱり発泡酒はエリさんち産」


「イエスイエス。お代は気になさらず。ついでにうちのお嬢様にご飯あげてきたわ」


犬のお嬢様がいるのである。和犬と洋犬が半々くらいで混ざり合った茶色の中型犬で、ふさふさとした長毛の尻尾を自慢げに立てている。名前をララという。名付けは以前の飼い主だったエリさんの妹で、子どもが生まれて手狭になったからという理由で犬を引き取れと言ってきたのだった。


当時エリさんはペットが飼えない、しののめよりもずっと築年数の浅い賃貸マンションに住んでいた。いくら何でもそれは身勝手だろうと憤慨したそうだが、このままもし捨てられでもしたらと思うと断れなかったと言っていた。ただしペットが飼える物件に引っ越すための費用はきっちり請求した。予算と交通の便との兼ね合いでしののめを選んだと聞いている。


最初に優子がララに会ったのはアパートの敷地内だった。前日に引っ越してきたエリさんが、妹宅から引き取って帰ってきたときにたまたま居合わせたのだった。神経質な犬だという印象を受けた。全身から「私に近寄るな」というメッセージが発せられているようなこわばった体つきをしていた。それなりに動物に好かれる自信があった優子は少々ショックを受けたくらいだ。


エリさんも当初うんともすんとも言わないまま自分のハウスに引きこもっているララに当惑したらしい。しかし引っ越してきてから一週間後、宅配便のチャイムにワンと吠えた。あれは我が家と認めてもらえた感があって良かったね! とエリさんは未だに述懐する。ちょうど引っ越しの荷解もおおかた終わり室内が落ち着いてきたころでもあった。


気位の高い犬だったのである。人に対しても犬に対しても付き合いを自分で選ぶ犬だった。現在、自分のプライバシーが確保されている環境では澄ましかえってソファやクッションなど居心地の良い場所に座っている。そういう意味で「お嬢様」という呼び方はララにぴったりであった。


「明日入れに来てくれるかなあ」


恋文を待ちわびるかのようにゲンさんが言った。名刺の話である。


「近所でもうすぐ竣工する物件を担当してるそうなのでちょこちょこいらっしゃるんじゃないかと思います」


優子は答えた。エリさんがこちらを見た。


「しゅんこーって何?」


「建築工事が終わることです。普通は内装工事も含むと思います」


優子は慎重に答えた。大家代行ではあるが不動産や建築にはそこまで詳しいわけではない。


「ああ、あそこか、トワニーの向こうの坂の途中の」


エリさんがひとりで納得している。毎日せっせと散歩をするので近所の細い道のこともよく把握しているのが犬飼いである。


「ああ、そっちのほうなんですね」


トワニーとは個人経営のレストランである。神社の参道よりもさらに駅のほうに向かって海岸沿いの道路を進んだところにある。喫茶店のような、レストランのような、バーのような、昼から夜まで通し営業をしているタイプの昔懐かしい飲食店が海沿いの街ではそれなりに残っていた。


「なんかデザイナーズ賃貸って言うの? おしゃれな感じで目立つ黒くて四角いのが建ってるなーと思って。海もよく見えそうだし高いんだろうなあ」


エリさんの言葉に首をかしげた。物件から海が見えるのに、わざわざ神社からの眺望を撮影しに来たのだろうか。


「たしか不動産会社の看板あったよ。最悪そこに電話すればイケメンにつながるのでは」


エリさんが言うとゲンさんがほっとした顔を見せた。




なんとなくだらだらと続いた三人の会話は唐突に終わった。


「もう八時! お嬢の散歩行かなければ!」


そう言ってエリさんが立ち上がった。さっさと帰り支度を始めるエリさんを半ば呆れながら見ていた優子は、ゲンさんが片付けのために立ち上がるのを見て声をかけた。


「洗い物します、お食事代として」


ゲンさんは振り返ってへらりと笑った。笑うと少し困ったような顔になる。


「ううん大丈夫」


「え、でも」


ゲンさんはぽりぽりと頬を掻いている。


「なんていうか、今日のは迷惑料? 感謝の気持ち? ってことで。受け取ってよ」


優子は眉をひそめた。ちゃー探しを手伝ったのは大家代行としての業務の一環である。礼を言われるほどのことでもない。しかし自分の立場であればやはり申し訳ないと思うのだろうか。そう考えて、少しの間を置いて頷いた。


「しかしやっぱり刺激が足りないのかなあ」


もともと野良だったからなあ、とゲンさんは眉を下げている。優子は首をかしげた。三人が食べて飲んでしている間、終始ちゃーは炬燵から出てこないままであった。明らかにこの家が気に入っている。そんな猫が、なぜ脱走したのか。


「刺激を求めるタイプではない気がしますけど……」


たとえばエリさんがたばこを吸いにベランダに出る。窓は開けっ放しだ。そのときもちゃーはベランダにすら興味を示さない。なのに今日はどうして、どうやって逃げ出したのか。何となくその疑問が心に引っかかったまま優子はゲンさん宅を辞した。


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