友達 - 1
「……で見失ったと」
とんとんとんとんとん。ゲンさんがキッチンで何かを刻む音が聞こえている。優子は和室の万年床ならぬ万年炬燵に捕食されながらむう、と唸った。怠惰である。
優子の話を聞いていたのはしののめの住人エリさんである。ゲンさんの部屋のベランダでたばこを吸っていた。六畳の和室はさほど広くないので、ベランダと炬燵の距離があっても十分会話ができる。最近加熱式たばこに乗り換えたから匂いは少ないという理由で掃き出し窓は開けっぱなしである。それではわざわざベランダに出る意味がないのではないだろうかと優子は思うが、これは儀式のようなものなのだろう。
炬燵の中で体育座りをしていた足を伸ばすとふにゅりとしたものに触った。炬燵布団をめくって確認するとちゃーが伸びていた。猫の心は夢の中である。四月も後半、さすがに炬燵の電源は入っていないがこの場所がお気に入りなのは冬から変わらない。
優子が大家代行になって以来、何の変哲もないアパートだったあけぼのとしののめではペットが飼えるようになった。優子は木浦のアドバイスをもとに、分譲マンションの方式をまねて「飼い主会」を作った。入居者のうちペットを飼う人のみが入会する。入会書類にペットの情報を記載してもらうので優子も飼育の状況を把握できる。メッセージアプリの飼い主回線用グループチャットも作った。主に連絡事項を流すために使う。今日のようなペットの逸走も逐次優子から連絡をすることにしていた。ペットと暮らして長いとどうしても人間の気が緩んでくる。逃がす気も逃げる気もなくても危害を加えてくる第三者などというものもある。連絡をするだけでも多少気の持ちようが変わってくるだろうという意図だった。
今日もよろよろしていたゲンさんにちゃーを引き渡してから優子はメッセージを送った。それを見たエリさんが夕方優子を捕まえた。共用部から聞こえるふたりの話し声に反応したゲンさんが窓から顔を出し、「ふたりともご飯食べてく?」となったのが今である。
ゲンさんはアパートから歩いたら三十分でちょっと遠い、自転車ならまあ通えるといった距離感のレストランで料理人をしている。オーナー夫妻のうち奥さんがお菓子を出したくて始めた店だったそうだが、旦那さんのほうとたまたま知り合ったゲンさんが居着いた。店長は奥さんだが、今は運営の大半をゲンさんに任せているため常に店頭にいるわけではない。ゲンさんのことを店長だと思っている人もいるだろう。旦那さんはというと、肩書きはオーナーなのだが開業医をしていて直接経営に関わってはいない。僕はお金を出す人なの、うふふ、と優子が店で初めて対面したときに言っていた。
サービス業なので休みは平日である。今日は週に一回しかないせっかくの店休日だったのに朝からちゃーが脱走した。優子がちゃーを連れ帰ってきてからはひとりと一匹でぐったりしていたそうである。気持ちはよく分かる。日が落ちてきてからようやく起き上がり、気分転換に何か作って飲むかと思ったところでエリさんが優子を捕まえた。飲むなら人間の友達がいたほうが楽しいよねとはゲンさんの弁である。
「しかし神社から参道通って帰ったとして、そんなすぐに見えなくなるかね?」
午前中の話をしていたのだった。たまたま猫を確保してくれたなんてめっちゃ親切じゃん! 近所の人? とエリさんに話しかけられて優子が首をかしげたのが発端だった。親切だという感想は思い浮かばなかった、得体の知れない感じこそすれ。そう言って人でなし扱いされたのは優子のほうだった。
「おゆうだいぶぼうっとしていたんじゃない? 誰かに会った第一印象が『得体が知れない』っていうの自体ちょっとよく分からないっていうか」
エリさんはとにかく人に変なあだ名をつけたがる。優子はおゆう。ゲンさんはげんたろう。優子から言わせてもらうならなぜ縮めたものをまたわざわざ伸ばすのか、そのセンスこそちょっとよく分からない。
「はいよ、おまたせー。あと冷凍ご飯で何か作るね。とりあえず先に乾杯してて」
ゲンさんが大きな皿を持ってやってきた。海鮮と野菜の塩炒めである。優子の背筋が思わず伸びた。炬燵の上にはひじきの煮物やれんこんのきんぴらなどの常備菜がすでに並んでいる。
「ふたりともビールでいい?」
ゲンさんはさっそくキッチンに戻って冷蔵庫を開けている。ありがとうございます、と言いながら立ち上がった。名残惜しそうに炬燵布団がまとわりついてきたが断固無視した。
缶ビール二本と箸やら小皿やらを受け取って和室に戻る。エリさんは大皿をしげしげと眺めていた。
「これシーフードミックスじゃないよね? エビがでかい」
ゲンさんは電子レンジをいじりながら振り返った。電子音ののちにぶおん、と音がしてオーブン機能が稼働する。
「分かった? 店で下ごしらえした分の余り。エビは足が速いから余ったら俺らで食う。イカも近くで揚がったやつだよ。ホタテはさすがに冷凍だけど」
互いにプルタブを開けて軽く缶を掲げる。エリさんはマジかげんたろう、普段からこんないいもの食いやがってと騒いでいる。三人とも独身暮らしである。エリさんはペットの健康には気を遣うわりに人間の食事はかなり適当だ。
「米はドリアにするからちょっと待っててねー」
片手に二本、計四本のビール缶をぶら下げてゲンさんも和室にやってきた。その量に優子はややぎょっとしたが、よく見るとエリさんがすでに一本目のビールを飲み干そうとしていた。とんでもないざるである。
「では改めて」
エリさんが二本目を当然のように手に取ってプルタブを開けた。
「ええと、とりあえずちゃーの無事を祝って」
エリさんに視線で促されて優子が言った。三人で缶を合わせる。ゲンさんが座ると一気に炬燵が小さくなった気がした。
「しかしせっかく見つけてもらったのに悪いなあ、お礼したい」
ゲンさんが眉毛を下げながら言った。くだんの営業マンについてである。ゲンさんはがたいが良い。そのわりに怖そうに見えないのはこの困り顔が頻繁に出るせいもあるだろう。
「あ、名刺をポストに入れておきますって言ってました、そういえば」
海鮮炒めを頬張って噛むと口の中でエビがはじける。美味である。
「部屋番号伝えたの?」
エリさんの問いに首を横に振った。
「どこの部屋に入れるつもりなのか聞こうと思って振り返ったらもういなかったんです。さすがに個人情報を私からお教えするわけにいかないじゃないですか」
「韋駄天かよ」
とりあえず優子がぼうっとしすぎて見失ったわけではないことは信じてくれたらしいエリさんの言葉に少し口がむずむずした。あの澄ました人物が陸上選手並みかそれ以上の速さで走ることがあるならかなりの見物である。
「ちょうどお昼くらいだったし何か急がないといけない用事があったのかもしれないよねえ」
ゲンさんが言う。
「抜け出して来てて上司に怒られそうとか」
優子は再び首をかしげた。そんなことで動揺しそうな人間には見えなかった。
「なんていうか、仮に上司に叱られていても馬耳東風ってタイプに見えました」
あの男なら仮面の微笑みを貼り付けたままでクレーム対応すらこなしそうである。「なんなら土下座させられてる真っ最中でもうっすら笑ってそうです」
あの男の微笑みをひっぺがすことは果たして可能なのだろうかと考えながら優子が言うとエリさんが真顔になった。
「怖いからやめて」
エリさんはフリーランス、つまり自営業である。自営業を続けられる、続けてしまう人間にはいくつかの特徴がある。そのうちの一つに組織の理不尽に殉ずるくらいなら売り上げが乱高下する恐怖を選ぶというのがある。とかく納得できない理由で動かされるのが嫌なのである。土下座などその最たるものだろう。
電子レンジがピーッと鳴った。お、と言いながらゲンさんが立ち上がる。大きいわりに身のこなしが軽いと優子は感心する。そろそろ敷物に根っこが生えてきた時分である。
ゲンさんは調理台の上で湯煎していたチャック付きポリ袋からミートソースらしきものを耐熱皿に流し込む。耐熱皿にはすでに解凍したご飯が敷き詰められているようだ。
「ラザニアソースの残りで悪いんだけど、チーズ使い切っちゃいたいから付き合ってね。それなりにドリアっぽいものにはなるはず」
そう言いながら冷蔵庫から大きなピザ用チーズの袋を出してきている。優子ならそもそも買わないようなサイズ感の袋だった。料理が好きな人は違うなあと感心する。
「ラザニアソース作り置きとかもう生活力と意識が高すぎて無理。眩しい眩しい見えない」
そう酔っているわけでもないだろうにエリさんが適当なことを言っている。以前に普段何作るんですか? と尋ねたらカレーとシチューと豚汁! という元気な返事が返ってきた。どうせ食べるのが自分だけとなると手を抜きたくなる気持ちはよく分かる。しかし偏りのある献立なのも否めない。
「まあ俺にとっては趣味みたいなもんだからなあ」
少し距離が離れているせいか、やや大声でそう言いながらゲンさんは耐熱皿を電子レンジに入れた。先ほどは予熱をしていたようだ。
エリさんもゲンさんも優子から見るとちょっと年上である。大きなくくりで言えば同年代、なのかもしれないが、優子から同世代、とは呼びにくい。西のほうの生まれでいつの間にやらこの街に住み着いたゲンさんは良く言えば鷹揚、違う言い方をするなら大雑把なところがあり、対してこのあたりで生まれ育ったエリさんは自身の言葉で言うならば「血中ヤンキー濃度が高い」。どちらも優子とは違うタイプであり、その違いのおかげで仲良くできているのかもしれなかった。
エリさんはいきなり会社員をやめてアパート経営を始めた優子を何かと気にかけてくれる。ゲンさんはといえば祖父が存命のころからアパートに住んでいる古株である。優子も大学生くらいのころからなんとなく面識がある。優子が訪れたある年の正月など、母屋の庭木の剪定を手伝ってくれていた。祖父とは気が合っていたようだった。ある意味近所のお兄さんのような人なのである。
お前は一体料理に何時間使っているのか、仕事で料理してさらに家でも料理するとは正気かとエリさんが騒げば、趣味で絵ばっかり描いているお前に言われたかないとゲンさんが返す。エリさんはグラフィックデザイナーなのである。優子はどちらかというと口が重いという自覚がある。やいのやいのと年上ふたりが賑やかにしているのは正直ありがたかった。
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