猫逃げる - 2
猫は他人の腕の中で太平楽な顔をしていた。筋肉の力が抜けているので顔が重力に負けて横に潰れている。知らない人間に抱かれて気を抜きすぎではないだろうか。心配していた反動で優子が思わず眉間にしわを寄せて見つめると、ちゃーはさすがに気まずいのかぱちぱちと瞬きをしてから大あくびをした。一応謝るつもりはあるらしい。
「ちゃー」
優子が呼びかけるとスーツの人物がふむ、というように頷いた。
「やはりこちらの猫をお探しでしたね」
やはりとは何かと心の中で思いながら優子は自分に話しかけている顔に視線を移した。何しろ平日のこの時間、オフィスビルなどまるでないような駅からやや離れた海沿いの住宅地にスタイルの良いスーツ姿である。怪しい。格好のだらしなさだけで言えば、実は部屋着のまま飛び出してきた優子のほうがずっと怪しいのだった。しかし町への馴染み方ならこの男のほうがずっと不審だと言いたい。住人としては少なくともそう思わなければやっていられない。さらに眉間にしわを寄せると形の良い口が笑みを作った。
「そう警戒なさらずに。鈴木優子さん、築古木造アパートを相続してペットに優しい物件にコンバージョン。一年足らずで稼働率を五十から百パーセントにまで押し上げた業界の有名人じゃないですか」
あらかた間違っていないのが悔しい、と思いながら優子は納得しかけた。しかけて違和感に眉をしかめた。
優子の不動産経営にはブレーンがいる。大学の同級生で、今は実家の不動産業を継ごうとしている木浦という人間だった。木浦のアドバイスを受けて、優子は不動産業界の媒体から取材依頼が来たときは極力受けるようにしていた。先日もひとつ取材を受けたばかりだった。
飼えるペットの種類が幅広く、たとえ大型犬であっても体重や頭数に制限をかけない。意外とこういう賃貸住宅は珍しいのである。ビジネスモデルとして本当に成立するのかという野次馬根性もあるだろう。それが特に魅力がないと業界内で思われている木造の古いアパートであるという物珍しさも手伝っているらしい。結果、優子の不動産経営について知りたいメディアはそれなりにあるようだった。
優子としては取材を受けるのはやぶさかではない。しかし入居者と自分のプライバシーも守りたかった。「鈴木優子」というありふれた名前が役に立った。神奈川県の海沿いのどこかでアパートをふたつ持っている鈴木さん、では、場所の特定がしづらくなる。優子の顔写真は載せないこと、所在地などについてはこちらの承諾した以上の情報を掲載しないこと、を条件に取材を受け入れていた。
だから、目の前で猫を抱いている人物が優子を優子だと認められるのはおかしいのだった。この人は不動産営業なのだろうと優子は推測した。不動産業界は意外と狭く、商慣習は古い。女性オーナーというだけで珍しがられるほどである。多少情報のアンテナを張っているこの辺りの業者やオーナーであれば、あけぼのとしののめの話題を見たことがあっても不思議ではない。しかし、優子の顔までは分からないはずである。
「失礼ですが、今までにお目にかかったことがあったでしょうか」
そう尋ねる優子の警戒が伝わったのか、男はにっこりとした。
「以前にご実家の前でお見かけしたことがありまして」
ご実家というのは母屋のことだろう。
「恐らくこの方が鈴木さんなのだろうと思っていました。当たりでしたね」
かまをかけられたということだろうか。優子は少々むっとした。むっとしたのでコミュニケーションに使うエネルギーを削減することにした。
「入居者さんの猫が逃げ出しまして」
ほかの話題は無視して端的に用件を伝えた。とりあえずちゃーを受け取り、おろおろしているだろうゲンさんに電話をしたかった。腕を伸ばして猫を寄越せという気持ちを表現した。
男はにっこりとして歩み寄ってきた。近づかれると優子はまた逃げ出したくなってきた。とにかく身なりがすっきりとしていて好感度が高いのである。しかもよくよく見れば肌は白く、顔立ちはそれなりに整っていた。切れ長の目に二重まぶたが涼しげだった。
見るのは良い。見るのは良いが、あまり近づきたくない。営業用の笑顔というのは仮面である。敵意がないこと、交渉のテーブルに着く意思があることを示すための仮面である。仮面に見えないように取り繕った仮面である。仮面をかぶったままで相手の意向も気にせずにずんずん近づいてくるとは逆に不調法ではないか。優子は思いきり眉間にしわを寄せて男をねめつけた。
「海がよく見える神社というので写真を撮りに来たら先客がおられまして。つい仲良くさせていただいてしまいました」
先客というのはちゃーのことだろう。男はにっこりと微笑みながらでちゃーを差し出してきた。ぺこりと頭を下げて受け取ったところで眉間にしわが寄ったままなのを思い出した。形状記憶機能の優れた表情筋をなんとか緩めつつ礼を口にする。頭を上げると男は相変わらずにこにこしながらよかったですね、などと言っていた。優子は再度胡乱な目つきになりそうになってなんとか堪えた。口元がひくついたかもしれないがそのくらいは見逃してほしい。
「近くで担当しているマンションが竣工するんです、もう再来週くらいには」
優秀な営業スマイルを浮かべた男は優子の表情を決して見落としてはいなかっただろう。しかし気にはしないことにしたようだった。お礼を言ったばかりの優子が逃げられないタイミングで話したいことだけ話していくことに決めたらしい。
「単身者向け賃貸です。募集開始のために近隣の生活情報を集めておりまして。写真撮影ついでに鈴木さんにもご挨拶できたらいいなと思っていました。ラッキーですね」
「それはそれは」
便利な言葉である。述語が不在で相手にとって良いように補ってもらうことができる。
「しかしオーナーさん自らがペットの逸走時も手伝うんですね。驚きました」
「仕事のうちです」
優子は手短に答えた。実際のところはシッター業もこういったトラブルの手伝いも、ある意味で楽しんでやっているのである。脱走はさすがに肝が冷えるが、生き物と触れ合うのは優子にとって良いことだった。
優子の目の前に立つ男はすっと目を細めて、それから微笑んだ。何を考えているかがさっぱり分からない仮面の微笑みだった。完璧な立ち居振る舞いの中でスーツにこびりついた猫の毛がまるで冗談のように場違いだった。そのままふたりは無言で向かい合っていた。
「すみません、とりあえずちゃーを連れて行こうと思いますので失礼します。ただ飼い主さんはお礼をしたがるかと思いますので連絡先をお伺いしても良いでしょうか」
先にしびれを切らしたのは優子のほうだった。男は笑みを崩さずに軽く首をかしげて言った。
「両手が塞がっていらっしゃるので……。後ほどポストに名刺を入れさせていただきます。僕もそろそろ一旦戻らないといけない時間ですし」
そう言ってもらえるのであればこの場にとどまっている理由はもはやない。優子は再度礼を言って頭を下げ、境内脇の通路に向かって歩きはじめた。数歩歩いて気づいた。あけぼのとしののめの住人はほとんど表札を出していない。知らない人間は何号室に誰が住んでいるのか分からない。どうやってポストに名刺を入れるというのか。もしかして全室に入れて回るつもりなのか。尋ねようとして優子は振り返った。
昨夜雨が降っていたとは思えないほど良い天気だった。春が終わろうとしていた。南中近い太陽は拝殿の脇に黒々とした影を作りはじめていた。優子とちゃーを除いては、境内には人っ子ひとりいなかった。
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