狐のいない海

別館1617

猫逃げる - 1

優子のあまり早くない朝の仕事は、たいていがたぴしと正しくオノマトペにより文句を言う母屋の雨戸を外から開けることから始まる。


外からである。築三十年にまだ少し満たない母屋は先の地震以来少々水平が怪しくなっているらしい。室内から引っ張るのではうんともすんとも言わない雨戸を外側から思い切り戸袋に叩きこむ。そうしなければ一階の和室に陽が入らないのである。ようよう動く外側からでも優子の握力では心許ない。戸袋の前にある室外機の上にゴムグリップ付き軍手を常備して使っている。優子はいつものように軍手を掴み、顔をしかめた。軍手はびしょ濡れだった。


優子は北関東に生まれ育った。北関東平野部の夏といえば夕立である。日中もくもくと育った積乱雲が北のほうからだんだん薄黒くなり、遠雷とともに冷たい中にどこかぬめりけのある風が押し寄せてくる。そうなったら何が何でも洗濯物を取り込まないといけない。あとで絶対に後悔する。


対してこの海沿いの町では違った雨が降る。雨雲は季節を問わず海から薄く広く帯のように伸び、いつの間にか霧のような雨をしめやかに降らせる。生き物たちほど敏感なセンサーを持たない人間は朝起きてから出しっぱなしの洗濯物を見て落胆することになる。今朝の話である。


おかげで軍手も酷い有様だった。優子はアパートに替えの軍手を取りに行こうときびすを返した。濡れた右手はこっそりジーンズのお尻で拭いた。


海岸から母屋までは乗用車がなんとか一台通れるほどの坂が続いている。坂が平らになるあたりが丁字路で、母屋は上の「一」に乗っかるように建っている。母屋から坂道のほうを見てすぐ下に広めの駐車場があり、さらに坂を下ったところにアパートが二棟建っている。それぞれ「あけぼの」「しののめ」と優子が名付けた。母屋と同じく築三十年をもうすぐ数えようかという何の変哲もない木造アパートだが、かなり柔軟なペット飼育規約が売りである。


そのアパートのほうから大柄な人物がひとり駆け上ってきていた。アパートの店子、入居者である。優子たちはゲンさんと呼んでいる。本当は原元さんというのだが、あだ名のほうが本名よりもずっと馴染んでいる。走ってくるゲンさんの視線が優子を認めたが表情が硬い。なんとなく砂がこびりついたような気がする右手を太ももあたりで再度軽く払いながら優子は首をかしげた。


「おはようございます?」


挨拶が疑問形になってしまったのは仕方がない。一週間ほど前の同時刻、すれ違った近所の粟田さんに「おはようございます」と頭を下げたら「こんにちは」と返ってきた。まだ時計の針は正午を指さないがそんな時刻である。


「どうかしましたか?」


こちらはゲンさんより年若だが大家代行である。トラブルがあったら対処しなくてはならない。優子の背が伸びた。


優子の身長は百五十センチメートル。比較的小柄なほうではあるが珍しくはない。百八十五センチメートルという人も、日本ではそう多くはないがいる。しかし対照的な体格であるのは事実だった。遠目には大人と子どものように見えることだってありそうである。しかし今はその大人のほうの顔色が思わしくない。坂を駆け上ってきてもほとんど息切れがないのは、鍛えているからだ。しかしさすがにというべきか、額には汗の粒が浮かんでいる。


「おはよう優子ちゃん、突然申し訳ないんだけど、ちゃー、見かけなかった?」


優子は眉根にしわを寄せた。寄せてから質問に返事をしなければならないことに気づいて首を振った。


ちゃーは室内飼いの猫である。体重は五キログラムをはみ出ようかという、小柄なチワワなら二頭を合わせたよりも大柄な雄猫だ。茶トラだから「ちゃー」。安直な名付けだがゲンさんの家に引き取られてからは大切に育てられている。ゲンさんの職場に持ち込まれたときはガリガリに痩せ細った野良猫だった。


あけぼのとしののめでは室内飼育が鉄則である。そのこともあるし、これまでの決して楽ではなかったであろう半生の分のんびりさせてやろうということもありゲンさんは心を砕いてちゃーを飼っている。猫も猫で大変おっとりとした気持ちの大きい猫である。そうそうなことで逃げ出すとは思えない。


「今朝ゴミ出しに行くときくらいしか逃げ出せるタイミングはなかったと思うんだけど見当たらないんだよね……。とりあえずこっちのほうには来ていないのかな」


ゲンさんは無精ひげの生えた強面のまま眉を下げている。ペットに逃げられた飼い主は気が動転して当然である。優子はこれまでに見聞きしたパターンを脳内で再生しながら首をかしげた。


「案外近くにいるかもしれません。ゲンさんはこの辺りで名前を呼んであげると良いと思います」


もう少し考えて言葉を続けた。


「もしかしたら、自分の意思で近所を散歩していないとも言えません。私はちょっと見回ってきます」


ゲンさんは汗をたらたら流しながら何度も頷く。最悪のパターンはパニックになって逃げ出した場合だと優子は考える。犬なら一日で五十キロメートル走るという。猫でもかなりの距離を移動できるだろう。交通事故も心配だ。そもそも一度走り出した四つ足は人間ではなかなか捕まえられない。早めに立ち止まってくれるのを心の中で願うばかりである。口に出すと飼い主のほうもパニックになりそうなので黙っている。


「じゃあ、行ってきます。しばらく探して見つからなかったら警察と保健所にも連絡しましょう」


「もうし」


わけない、と言おうとしたのだろうゲンさんの顔のあたりで両手をひらひらと振って止める。ちょっと上に手を伸ばしたぐらいでは口元あたりまでしか届かないのが非常に悔しい。


「こういうときのためにいただいている管理費ですから。ゲンさんはとりあえず深呼吸して、階段から落ちたりしないように心を落ち着けてください」


大男がこけて捻挫でもしたらおおごとである。ほかの店子を呼ばなければ担ぎ上げることも難しい。


「何かあったら電話します。スマホは持っていてください」


そう言って優子は歩き出す。数歩歩いたところで振り返った。「深呼吸ですよ!」と念を押す気持ちを込めて、自分自身が伸びをしながら深呼吸してみた。そうして自分も少し呼吸が浅くなっていたことに気づいた。何もなければ良い。そう強く思った。


ゲンさんは今になって走ったのが堪えてきたのか、左手を膝について軽くかがんだまま右手を挙げて答える。人間というのはトラブルに弱いものである。優子は見慣れた薄茶のしましまが見当たらないか目を配りながら海岸に向かって坂道を降りていった。


母屋の前の坂道は下りきるのに二分とかからない。優子がごくごく幼いころ、このまあまあ傾斜はあるものの背の低い丘陵には防砂の役割を果たす笹が生い茂っていた。時間の経過とともに少しずつ開発が進み、整地されてマンションやらアパートやら戸建てやらの住宅が増えた。坂の上のほうに住む優子はこっそり心の中で「防砂建物」と呼んでいるがもちろん口には出せない。


坂を下って突き当たると海岸沿いに二車線道路が伸びている。四月下旬の平日に海岸に用がある人間というのはさほど多くないので、自動車はただ通過していくだけだ。信号が少なく、交通量はそれなりにある。スピードが出やすい道路だ。


あけぼのとしののめから飛び出したペットにとってはこの道路が最初の難関になるだろうと優子は思った。しかし歩道に立って見回したかぎり、目の届く範囲に猫の死骸のようなものは見当たらなかった。少しほっとして肩の力が抜ける。顔を上げると日光が目を射て、優子は細かい瞬きを繰り返した。昨夜雨が降っていたとは思えないほど良い天気だった。日差しを反射した海面もきらきらと眩しい。


道路を渡るとすぐに海だ。ちゃーは道を渡るだろうか。優子はちょっとだけ逡巡して、海岸を探すのを後回しにした。あけぼのとしののめには犬も多い。優子は現在居住している飼い主と犬たちを思い浮かべた。飼い主が仕事などで忙しいとき、優子はペットシッターを引き受けることがある。泊まりになることもある。犬とは一緒に散歩にも行く。犬たちには特に好む散歩ルートというのがあるようだということが経験上分かっていた。そのうち最も頻繁に歩くのは、ここから海岸沿いに少し西に進み、北に向かって曲がり、坂を上って神社を抜けて東にあるアパートへ帰るルートだ。犬がのんびり歩いて正味三十分ほど、人間だけなら二十分もかからないだろう。


犬ほどではないものの、猫も匂いでコミュニケーションを行う生き物である。猫がとことこと我が家を抜け出してきたとして、町に馴染みの犬たちの匂いがしたとしたら。きっと思わず、そちらの方に足が向くのではないだろうか。


そう考えて優子は海岸沿いの道路を右に曲がった。少し進んでさらに右に曲がると神社がある。参道から神社の境内へ進むと右脇に通路がある。そちらを進むと母屋の前の通りに合流するのである。いびつなロの字を描いてアパートへと戻る。猫の初めての冒険としてはこのくらいがちょうどぴったりだろう。


海岸沿いの道路を少し歩きながら左右に目を配るが、猫らしき姿は見当たらない。四月下旬、体温が高めの若者ならそろそろ衣替えを検討しはじめるほどの暖かさである。外猫たちにとっては最も過ごしやすい季節かもしれない。正午近いこの時間、多くの猫は物置やら自動車やらの上でお腹を出して寝ているだろう。参道を右に曲がる。参道とはいえ、先に神社があると知らない者から見ればただの坂道である。


しかし残念ながら神社の鳥居が見えてくるところまで猫の姿はなかった。当てが外れたかな、と少々落胆しつつも優子は神社の境内を覗いていくことにする。少し急な階段をとんとんと上って鳥居の脇をくぐる。しかめ面をしている狛犬の頭をぽんと叩いて振り返ると、相変わらず海が静かに輝いていた。


この町に引っ越してきて、大家代行を始めてもう一年以上経つ。それなのに、思わず見惚れた。海というものはいつもそこにありながら、毎日違うもののように見える。今日の静かな海には、本当は風が吹きつけていて小波を立たせているのだということを優子は知っている。日光が小波に反射してきらきらと輝く。太陽がもっと西に移動すると、少し沖のほうに強い潮の流れが見える。まるで色が変わって見えるのだ。今日のように晴れた日には日光を黄金色に反射しながら青く澄み渡っているのに、悪天候前日の海は底なしの沼のように奥行きもなく横たわっている。まるでこれからの大雨と大風を予言するように。


凪いだ夜の海もまた少し不気味だ。海のあるはずのほうに目をやるとどこまでも黒く、しかしそこには確かな質量を持った何かがある。果たして本当にそれは海水なのだろうか、それとももっとどろりとした粘度の高い存在で、うっかり近づいてしまった哀れな生き物をぺろりと飲み込んでまた静かに平らになっていくのではないだろうか。そう考えてしまうと思わず駅から歩く足が早くなる。ただただ広い道路、立ち並ぶ木々、自動車で飛ばしているとたまに見える研究所の看板。季節によって木の葉のボリュームが多少違うくらいで、大きく変化があるわけではない景色。そんな町並みを見慣れて育った優子にとって海はとても不思議なものだった。


狛犬の頭に手を置いたまま海を眺めていたのは数十秒だったか数分だったか、ふと背後でかさりという音がして振り向いた。管理者も神職もいない無人の神社である。気を抜いていたぶん驚いて、少し体に力が入った。


拝殿の脇から現れたのはきっちりとスーツを着込んだ細身の人物だった。年は優子と同じか少し若いか。よく手入れされた髪の毛は耳を隠しながら襟足はぎりぎりワイシャツに届かない、少し丸みのある形に整えられていた。流行とは離れているけれどよく似合っているなあ、と考えながら優子は相手を観察した。濃紺に近いスーツの色と、臙脂色のネクタイがよく調和していた。一歩間違えれば高校生の制服になってしまいそうな色合いである。うまく使いこなしているのは着ている本人のセンスだろう。身長が高めなのも幸いしているかもしれない。


正直に言って、ちょっと苦手な見た目だなと優子は思った。スーツにこだわりのある人物にはあまり良い思い出がなかった。しかし大家代行として逃げるわけにはいかない。質の良さそうな背広を毛だらけにしながら男の腕の中に収まっているのは、優子とゲンさんふたりが探してやまない茶トラの猫だったのだ。

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