第六章 自己嫌悪
1
カッ、カッ、と静かな教室に黒板の音が響く。
書き終え、チョークを置いた。
自信のありそうななさそうな表情で、先生の顔を見る。
「はい、正解」
「しゃーーーーっ!」
優衣はガッツポーズを作ると、両拳を天へ突き上げた。
「おれ最高! 天才少年、じゃなくて少女! チョー気持ちいい!」
その絶叫を合図に、静かだった教室が突然ざわつき始めた。
難解な問題ではないものの、そこそこ高度。それをまさか優衣が解くなんて。
いや、以前の優衣なら余裕だろうけど。
いま、どっちの優衣なの?
ひょっとして、元に戻った?
と、全員の視線を一身に浴びる篠原優衣、得意満面ふんふん鼻息であったが、不意にその表情に、暗い影が落ちた。
「すらすら解けるのは気持ちいいんだけど、でも、おれの頭じゃあねえんだよなあ……」
がっくり肩を落とし、その場にしゃがみ込むと、両手で自分の頭を抱えた。
そう、授業で出される問題が解けるようになってきたのも、勉強することへの苦痛がなくなってきたのも、元々のこの頭のおかげ。この身体にいることに慣れて、この脳からの知力知識の引き出し方が上手になってきたというだけ。結局のところ、自分の本当の実力ではない。
そりゃあ少しは、自分も頑張ってはいるけれど。昨夜だってお笑い番組を見るのを我慢して遅くまで勉強したし。
「くっそー! 女子高生に負けて情けねえな、おれくっそー!」
右、左、と拳で床を殴り始める優衣。
その姿に、教室の生徒たちは不気味なものでも見るような顔で指を差しながら、ひそひそ、ぼそぼそ。
ここ最近の、すっかり日常となった光景であった。
2
「ぐ……」
机に突っ伏してあえぐが、なにも出てこない。ここで出てきてしまっても困るのだが。
せいぜい酸っぱさが口元に込み上げるくらい。
どのみち、思い切り胃の中のものを吐き切ったとしても、この気持ち悪さはおさまらなかったであろう。
現在、生理なのである。
倦怠感もそうだが、特に酷いのが吐き気だ。
しかし、トイレに行って吐こうにも、なにも出ない。当然だ。食欲がなくて、昼からなにも食べていないのだから。
こいつこれまで生理用品って小遣いで買っていたのかな。それとも親が買ってくれていたのかな。今さら、そんな相談出来ないよな。おれがこういう立場だからってことじゃなく誰だって、父親になんかにさあ。
優衣は吐き気と戦いながら財布を開いて、そんなことを考えていた。ケチケチするつもりはないが、実際のところ金がないのだからそう考えてしまうのも仕方がないだろう。
しかし、なんなんだよ、この辛さ。
女って、どいつもこいつも、こんな大変な思いをしてんのかよ。
ほんっと辛すぎて、涙が出そうだ……
優衣のこの生理初体験、本日昼の石巻ランドでの練習中に、唐突にやってきた。
思えば朝目覚めた時に感じたもやもやが予兆だったのかも知れないが、そんなこと分かるはずもない。
とにかく練習中に、
「え、おい、ちょっと優衣! なんで準備してないんだよ!」
「なにが? って、おい、なんじゃこりゃああ!」
太ももの内側を、つっと赤黒い筋が伝っていたのである。
「ああ、もう! 信じらんねえ! あたしのあげるから、こっちへ来な。サイズ合わないかも知れないけど、ないよかマシだ。付けかた分かる?」
と、茜とこそこそトイレに移動し、ナプキンを貰い、付けかたを教わったのである。
どうも朝から気分が優れないとは思っていたけど、まさかそれが生理などというものだとは予想もしていなかった。
女性には生理などという現象のあること、知らなかったわけではない。しかし、アスリートは身体をいじめ抜くために止まってしまって来ないなどとも聞いたことがあるし、実際に先月はまるまる一ヶ月なかったし、だからすっかりこの身体には無縁の話なのだとばかり思っていた。そして、すっかりと忘れてしまっていた。
練習中に、どんどん症状が酷くなり、そして自宅に戻っても一向におさまる気配を見せなかった。
吐き気が酷い。
目眩がする。
最悪の気分だ。
二日目だから辛いのよ、などと話には聞くが、一日目でも充分過ぎるほどに辛い。ならばこれが明日には、どうなってしまうのだろう。
果たして、耐えられるだろうか。船酔いした時の気持ち悪さの比じゃねえぞ、これ。
優衣は、ぐへへいと呻きながらよろよろ洋服ダンスに向かい、一番下の段を開けた。
確かここに生理用品が入っているのを見たような、と、急に思い出したのだ。
記憶に間違いはなかった。
体調不良の元凶であるこの鬱陶しいものが、一日にどれくらいの量が身体から出てきて、それが何日くらい続くのかなど見当もつかないが、当面は財布に悩んで父親に相談をする必要はなさそうだ。
こいつがバイトしてた理由って、もしかしたらこれだったんじゃねえだろうな。
優衣は引き出しを閉めると、まるでゾンビ映画のようにふらふらした足取りで、机に戻った。
気持ち悪さにちょっと突っ伏して休憩していたが、いまちょうど父親のノートパソコンでサッカーの動画を見ているところだったのだ。
石巻ベイスパロウにおける篠原優衣のプレーをピックアップしたDVDを、クラブから借りてきたのである。
吐き気と戦いながら、何度も何度も、繰り返し見続けた。
そうしているうちに少しずつではあるが、篠原優衣という選手の特徴が掴めてきた。
そして見れば見るほど、篠原優衣という選手の技術力の高さに、感心の念を抱いた。
上背も、スピードも、当たりの強さもまるでないけれど、それを補って余りあるものを沢山持っている。それらはむしろ、フィジカルに恵まれていないからこそ開花した才能のような気さえする。
ただ、決定的に足りないもの、絶対的に補いようのないものが、一つあることに気付いた。いや、ビデオを見るまでもなくとっくに分かっていたことだが、改めてそれを実感した。
それは、メンタル面の弱さであった。
アップになると分かるのだが、映像の中で、優衣は常に緊張しているような硬い表情をしている。ような、ではなく、本当に緊張しているのだろう。
惚れ惚れするような素晴らしいプレーを見せるくせに、合間合間に初心者のような単純なミスをしてしまっている。
ただ、反対に考えるのであれば、この異常なまでのメンタルの弱さで、ここまでの実力を発揮しているのだ。自分に自信を持ってプレーが出来れば、どれほどの能力を見せられるのだろう。
まあ、とにかくだ、後はメンタルだけということは、おれがこの身体に入った以上は、それが出来るはずなのだ。
こいつがどんなプレーをするのか、もっと学んで、少しばかり練習してみれば、きっと、出来るはずなのだ。
「うう、気持ちわりいい。くっそお」
呻き声を発しながら、マウスに手を伸ばし、DVDプレイヤーソフトを終了させた。
今度はインターネットブラウザを起動させた。
確か、以前ネットに繋げて情報収集をした際に、篠原優衣の代表での動画を見つけた気がする。それを探した。
便利な時代である。検索すると、それはすぐに見つかった。
女子サッカー界での篠原優衣の名を一躍有名なものにした、アメリカ代表の大柄な選手たちの間を縫うように走り抜けながらの、圧巻のゴールシーン。
中国戦、柔らかでふわふわしながらも実に精度の高いクロスで、アシストを決めるシーン。
オーストラリア戦、まるで曲芸のような、腿トラップからの反転シュート。
画質は非常に悪いが、様々な動画がアップされている。
そんな中で、なんとも嫌な動画も発見してしまった。
「ゆいぽんムフフ動画」などというタイトルで、スライディングをしてめくれ上がったハーフパンツの裾を引っ張って直したり、転ばされて倒れるところの股側からの映像など、そういうシーンばかりが編集してあるのだ。
篠原優衣は外観がとても清楚でおとなしめな雰囲気で可愛らしいため、妙な意味でのコアなファンが結構いるらしい。と、
「やーね。ほんと男ってサイテー」
この動画、篠原優衣当人が見たならば顔を赤らめて嫌悪の表情を浮かべたかも知れないが、松島裕司の精神が入り込んだ現在の優衣にとっても、嫌悪の対象でしかなかった。
この動画に限らない。
松島裕司ならば喜んでいたであろういわゆるエッチなものに対して、最近はそういった嫌悪の感情を抱いてしまう。
そうなる理由は、自分でもよくは分からないのだが、まず生活そのものや自己認識において、自分の性別がはっきりしていないことが大きいのであろう。
おれは男だ男だ、と思ってはいても、実際に脳も身体も女性のものであり、そうであることも当然知っているのだし。ホルモンバランスにしても、当然ながら女性寄りであろう。
「ったく、こんな動画を、ちまちまちまちま編集しやがって、ほんとにほんとにほんっとに男ってサイテーだよな」
言葉使いはともかくとして、まるで清純な乙女のようなことを口する優衣。
と、その瞬間である。
顔が、真っ赤になっていた。
思い出してしまったのである。
他人の最低行為に対してとやかくいう資格のない、もっともっと最低最悪なことを、先日、やらかしてしまったということを。
それは、いま思い出しても恥ずかしい、というよりも、いまになったからこそより恥ずかしいことであった。
「んにゃあああ」
優衣は悲鳴なのか嘆きの声なのかを喉から絞り出すと、両手で頭を抱えた。
なんであんなことを、してしまったのだろう。
どうしようもなく、後悔をしている。
でも、仕方がなかったのだ。
だってさあ……
3
弁明の言葉ならば、いくらでもある。
第一に、この身体になってからしばらくの間は、右脳左脳に脳梁ホルモン云々といった物理構造の問題以上に、男性として生きてきた歴史、魂の比重のほうが遥かに大きかったということであろう。
早い話が、まだ男性としての欲望が残っていたのである。
溜まると放出したくなるという、あれである。
もう、自分がそういった身体構造ではなくなっているくせに、おそらく習慣として魂に染み付いていたのだろう。
しかし、困った。自分で処理をしようにも、そもそもその対象となる物体がどこにも存在しないのだから。
女性の部分を使えばいいのだろうが、なにをどのようにすればいいのかが分からない。なんとなくの想像はつくのだが、おいそれと試してみるにも罪悪感が大き過ぎた。
そう、この罪悪感というものが実にやっかいであった。人間、自分には嘘は付けないからだ。
これまでにも、こいつのその部分ってどうなっているのだろうか、といった好奇心が芽生えるてくることは度々あった。しかしその都度、やはり罪悪感にかられて、思いを達成することは出来なかった。
着替えやお風呂やトイレの際に見えてしまう部分があるのは誰からも責められるいわれはないと思うが、わざわざ開いてまでその部分を見てみるような真似は、躊躇してしまってなにも出来なかった。
当面の間は。
学校生活と、サッカーと、日々の生活を忙しく頑張っていれば疲れてそれどころではなくなるだろう、と思っていたのだが、現実には抱いた好奇心が満たされないがために、なんともいえないもやもやした気持ちが内部に育っていくばかりだった。
そして昨日のこと、そのもやもやが限界に達し、ついに自室の鏡の前にて自らを開いて、まじまじと見てしまったのであった。
単に溜まった欲求云々というだけでなく、初めての体験、興奮に、もう抑えが効かずに、そのまま自らの手で慰めてしまったのであった。
自分が男なのか女なのかという、複雑な思いの中、罪悪感に苛まれながら。
これまで体験したことのない、信じられないような気持ちよさだったけれど、それがそのまま罪悪感に繋がってもいた。
こんなこと、していていいのか。
やっぱり、よくないよな。
じゃあ、これは最初で最後にしよう。
達せねば、中途半端に知っただけになり、また同じことを繰り返してしまうかも知れない。
だから、とめどなく溢れるぬるぬるで、懸命にこすったり、指の出し入れをしたのだが、しかし物理的な刺激だけでは、なかなか達しない。
自分の性別というアイデンティティがぐらついている中、どういう立ち位置に自分を持っていけばいいか迷ったが、やっぱり男を想像するのは気持ち悪い、とりあえず誰か女子、女子、と、とりあえず身近な
だがしかし、達したは良いが、より篠原優衣への罪悪感が強くなってしまった。ついでに野本茜への罪悪感も。
でもこうしなかったらどんな暴走をしてしまっていたか分からないし、だから、これでよかったんだ。と、必死に自分を騙すような言葉を、心の中で呟いた。
忘れよ……
優衣は自らの分泌物を拭き取ると、新しい下着を取り出して履いた。本当は一階に降りてシャワーを浴びたかったけど、それすら面倒くさかった。
ベッドに、ダイブするように倒れ込んだ。
「いまの全部、なかったこと!」
そう叫ぶと、すっぽりと頭から布団をかぶってしまった。
4
郊外の、というと遠そうに聞こえるが、住居の近所だ。
久しぶりなのは、常に貧乏生活を余儀なくされているためデパートなど滅多に利用しないだけである。
来年結婚することになる友達への、お祝いの品を探しにきたのだ。
茜は二十六歳、今年の終わりには二十七になる。
さすがに友達はどんどん結婚していっており、大学時代の女友達でいまだ独身なのは自分と、あと一人だけだ。その一人が今回結婚するものだから、もうじき自分だけになってしまう。
まあ、いいけど。
サッカーが恋人だ。結婚相手だ。
そうだ。男なんぞと結婚するだけが幸せな人生じゃねえんだ。
本命の用も無事に済んで、ちょっと三階にある本屋に寄ろうとしたところ、隣の玩具店から聞き覚えのある大きな声が聞こえてきた。
「ハートフルエマージェンシーーーローーーッド!」
ガン! と茜は立て看板に顔面強打。
「優衣! なにやってんだよ!」
涙目で鼻を押さえながら、怒鳴りつけた。
「うわ、茜ちゃん、何故ここに……」
振り返った優衣は、茜の姿に気が付くと、顔がみるみる赤くなっていった。
5
「出たな、怪物め!」
自宅で何を想像して何をしていたかなど、他人に分かるはずもないというのに、優衣はごまかすかのようにびしっとポーズを取って、ビューティ魔法えりかの変身アイテムであるエマージェンシーロッドを振りかざして茜へと殴りかかった。
「おい、ちょっと、やめろ優衣! やめなよ!」
やめろやめろといいつつ、茜は爆炎戦隊スマッシュファイブのライジングサーベルを手に取って、応戦を始めた。
周囲の子供たちは、いきなり目の前で展開されたこの戦いに、すっかり唖然としてしまっている。
火花散るこの真剣勝負、決着はつかなかった。
第三勢力、大魔王ドクーガが乱入、いや、禿げた店員のおじさんが割って入って、とめられたのだ。
そして、ちょっと怒り顔で注意を受けたのであった。
6
「なんであたしまでが怒られなきゃならないんだよ。なにやってんだ、お前は」
茜はベンチに腰を降ろし、ぶつぶつ文句をいいながらソフトクリームを舐めている。
優衣もすぐ横で、茜に奢ってもらった同じものを手にしている。
「いや、おれ女になったらさあ、戦う魔法少女になりたかったんだよね」
「女になったら?」
「あ、いやいや、なんでもない。とにかく小さいころ、姉ちゃんと一緒に無敵少女ホアンホアンなんかよく見ててさ、すっげえ変身したかったの」
「へえ。って、あたしが幼稚園に入るより前にやってたアニメだぞ。生まれてないだろ。それに、一人っ子だろお前」
「いつもいつも細けえことばっかりうるせええええええええ!」
余計なことをいってボロを出す自分が悪いのは分かるが、この女、毎度のように矛盾に感づいて突っ込んでくるからな。ほんと鬱陶しい。
「だったら、年齢相応な態度をしていればいいだろ」
「わけがあんだよ、これには」
ったく。めんどくせえから正体をバラしちゃうか、いっそのこと。
思わずそういう衝動にかられる優衣であった。
でも、そしたら、おれのサッカーをする居場所がなくなるだろうな。間違いなく。
いまさら考えて見るまでもないけど、おれがこの身体に入っているのって、SFだぞ、怪奇現象だぞ。
説明をしても、狂人と思われてつまはじきにされるか、信じてもらえたらもらえたで、なおのこと一緒にサッカーなんて出来ないだろう。魂が男と入れ替わっていることを隠してよくも着替えやお風呂を見やがって、などとボコボコにされて警察に突き出されるかも知れない。
黙っていたほうがよさそうだ。
「それで優衣は、なんでこんなとこにいたの?」
茜が尋ねた。
「うん、ちょっと本屋に用事があってね。久々に、サッカー教本でも見てみようと思って」
篠原優衣の肉体と上手に付き合うためにも、一度、これまで積み上げてきた自己の観念を壊し、初心に戻る必要があるのではないかと考えたのだ。
「そしたらついつい隣のおもちゃ屋に行っちゃったのか」
「おう」
なんだか引力に引き寄せられて、ハートフルエマージェンシーロッドを手にしてしまったのだ。
それからしばらく、二人は無言でソフトクリームを口に運んだ。
まったく同じタイミングでコーンまで食べ終わり、残った包み紙を丸めた。
「うち、すぐそばだし、寄ってく?」
茜は優衣の手から包み紙を取ると、そばにあるゴミ箱へ捨てた。
「ありがと。茜ちゃんって、このへんに住んでんだ」
「え、なに、それも記憶にないんだ?」
「うーん、なんか、思い出せそうな」
優衣はわざとらしく眉間にしわを寄せた。
「いいよ、無理しなくても。記憶にないんじゃ、しょうがないよ。行こ」
二人はデパートを後にした。
7
デパートのすぐ裏にある川沿いの狭い道を、
その敷地のすぐ隣には、木造のボロアパートが建っている。
鬱蒼とした、夏には蚊の異常に多そうなこのアパートで、茜は一人暮らしをしているとのことだ。
家賃二万三千円。風呂無しトイレ共同。他の部屋の住人は男ばかり。
「風呂は基本、クラブハウスのシャワーを利用するので全く問題はなし。もしもの時には、自転車圏内に銭湯もあるし。トイレは……まあ、慣れだ。なんといっても破格の家賃が魅力的、つうかこれ以上高かったら、そもそも生活が出来ないよ。他のみんなは、どうやって暮らしてるんだろうねえ。あ、こっちこっち。そこの一番奥」
茜に促され、優衣は一階の突き当りにある部屋へと入った。
「おっじゃましまあす。って、すげえなこりゃ」
くしゃみ一発で倒壊しそうなほどに、古くてみすぼらしい外観のアパートであるが、中に入ってみても受けた感想としては同じようなものであった。
何年間リフォームしていないのだろう。和室の壁など、ぼろぼろと崩れてしまっている。指一本で簡単に穴をあけられそうだ。
よく三年前に東北を襲った未曾有の大震災を耐えたものだ。と、優衣は日本の建築技術の高さに思わず感心してしまう。
それと、あの地震を経験したにも関わらずこの住居から出ていかない、住民の神経の図太さというか生存本能の低さにも。
建物の老朽化と部屋の散らかり具合に、比例の法則などはないはずであるが、現実としてこの部屋はそういう状態にあった。
物が散乱して足の踏み場もないほどで、優衣の部屋と同様か、それ以上の酷い有様であった。
「ちょっと待っててね」
と、茜は、足で蹴飛ばしたり押し退けたりしながら、床に二人が座れるだけのスペースを作った。
「人間の住むとこじゃねえな、こりゃ」
自分の部屋の散らかり具合を棚にあげる優衣であった。
「ま、どんなとこでも暮らせば慣れる」
どんなとこでも、って自分で勝手に目茶苦茶な部屋にしてんじゃねえかよ。と、優衣は思ったが、さすがにそこまでは口に出さなかった。
「コーヒーでもいれようか?」
茜は、ゴミの海と化している床の上を器用に歩いて、流しへと向かった。
「どうせならビールか焼酎のほうが」
「高校生だろ、お前は」
「そうらしいね。お、なんだこりゃ」
優衣が手をついた辺りに置いてあったのは、半裸の女性同士が抱き着きあっている表紙の、成人向けっぽい雑誌であった。
「そういうあれじゃない!」
ヘッドスライディングで畳をぞりぞりと物を押しのけながら滑ってきた茜が、右手をぶんと振るい優衣の手から素早く本を奪い取っていた。左手には、水のたっぷり入ったヤカンを持ったまま。
「うわ、あぶねええ! 水かぶるとこだった。つうか、なんだよ、そういうあれって」
「やかましい、とにかくそういう本じゃねえんだ! ただの街角情報誌!」
茜は雑誌を押し入れの上の段の奥へと投げ込むと、改めてガスコンロへとヤカンを火にかけに戻った。
「意味分かんねえ」
ぼやきながら、なんとなく部屋の隅っこに視線を向けた優衣は、水中眼鏡と足ヒレが置かれているのに気付いた。
その横には、スケートボード。
優衣の尻のところには、鉄道の雑誌と、その横にはバラバラと、素人が撮ったような電車の写真。
「スキューバ道具に、スケボーに、お、お、でっけえカメラ。一眼? 登山靴に碁盤に、麻雀牌まで。なんでホッケーマスクがあんだよ! つうか隣にフランケンと狼男のリアルなマスクがあるう! すげーーっ! なんなんだこの部屋! さらにアメリカンクラッカーとか、スタイリーとか隠れてるんじゃねえだろうな。なんでこんなもんがあるんだよ」
思わず興奮してしまう優衣であった。
「ん? ああ、歴代彼氏の趣味。すぐに影響を受けて、合わせちゃうんだよね、あたし」
「へえ。彼氏いるんだ」
サッカーが恋人で結婚相手だ、なんて思ってるのかと思ってた。
「いた、だよ。もう何年もいない。今度の彼氏はいい感じかな、って思っても、結局ことごとく、向こうから別れを切り出されちゃうんだよね。呪われてんじゃないだろうか。まあ、あたしになにか問題があるってことなんだろうけどさ。以前に優衣が久子に、彼氏に振られたんじゃねえのなんていってたじゃない? あたしね、ドキッとしちゃって、それでつい怒っちゃったのかもな。ごめんね」
「あ、いや……って、なんて返しゃいいのか分からんのだけど」
別れただの、振られただの、何年も彼氏がいないだの、そんな話を聞いて。
「聞き流してくれればいいよ。コーヒー入ったぞ。インスタントだけど」
茜は、色も大きさも違うカップをそれぞれ両手に、宇宙忍者が次元の裂け目を縫うように進むがごとくゴミとゴミの隙間を器用に歩いてくる。
いきなり蹴つまづいて、あっついのをぶっこぼされそうで怖かったが大丈夫だった。畳に思い切りコーヒー染みのような汚れがあるので、今回は運良く助かっただけかも知れないが。
茜は優衣のすぐ正面に腰をおろし、床にカップを置くとあぐらをかいて楽になった。
優衣はコーヒーカップを受け取りながら、改めて部屋の中を見回した。
窓際に置かれている小さな座卓には、なにやら小難しそうな本が何冊か平積みされている。
政治経済の本に……モンゴル語?
「茜ちゃんモンゴル語なんてやってんだ。喋れるの?」
「日常会話くらいはね。何度か行ったこともあるし」
「へえ」
変わってるな、とは思ったが、優衣の興味はどちらかといえば本の隣にある写真立てに向けられていた。
サッカーか何かのユニフォームを着た、集合写真である。
写真立ての中にあるその写真が、まるで引き裂かれたかのようにバラバラになっているのだ。補修することなく、崩したパズルのようにバラバラのまま、写真立ての中に詰め込んであるのだ。
飾っておくような大切な写真だというのならば、裏からテープで張り合わせるなどしてから写真立てに戻せば、注意して見ない限り破れていることなど気が付かない程度にはなるというのに。まるで、わざとこのような状態にしているかのようだ。
「その写真のこと、聞いてもいい?」
優衣は写真立てに視線を向けたまま尋ねた。
「ああ、それね。高校のサッカー部だよ。あたしが一年の時の。ベイスパロウと掛け持ちだったんだ。顧問の先生からしつこく頼まれて、ベイスパロウを優先するという条件で入部した」
「ふーん」
「でもね、先生が一人で強豪に育てたいと思っていただけで、そんな真剣な部活じゃなくて、でも、あたし色々と出しゃばっちゃって、いいたいことをいっちゃって、それで先輩に嫌われて、すっごいいじめを受けることになった」
「いじめ?」
「もうね、泣きたいというより、死にたくなるくらいのね。服やバッグを隠されたり破かれたりなんて当たり前。なにかにつけて、なにかの犯人にしたてあげられて土下座させられたりボールを舐めさせられたり。歩いてりゃあ足を引っ掛けられ転ばされるし。試合の時に雨が降ったら、この雨女ってよってたかってぶん殴られたり石を投げられたりしたよ。優衣なんか、グーで顔を正面から殴られたことなんかないだろ」
茜は、右拳を握り、ストレートを繰り出す仕草をした。
「その右手に、殴られたんだけど、こないだ」
「あ……そうだっけ?」
「まあいいけど。とにかくそれで、辞めようとは思わなかったんだ? サッカーならベイスパロウで出来るだろ。その部活は真面目にサッカーなんてやってなかったんだろ」
「もちろん、退部届け書いたよ。親に、辞めるっていった。そしたらさ、部活の先輩じゃなくて、お父さんにボコボコにぶん殴られた。やり抜け、って。なにも分かってないくせにって泣き叫んで包丁で自殺しようとしたよ、あたし」
「まあ、守ってくれるはずの親がそれじゃな」
「でも、泣いているうちに、お父さんへの反発心は相変わらずだったけどそれとは別に先輩たちへの怒りがむくむくとわいてきてね。逃げるのが癪だった。……その写真、死ね死ねいいながら、先輩の顔を切り裂くように破って、捨てちゃってたものなんだけど、回収される前にゴミ置き場から拾ってきて、その写真立てに入れたんだ。……で、部活は継続」
「そっか」
「それからも髪の毛切られたり、ライターで燃やされたり、全裸に剥がされて服を部室の外に捨てられたり、そんな先輩からのいじめは続いたけど、夜な夜なその写真を見て、沸き上がる復讐心みたいなものから、がむしゃらに頑張ったよ、部活。……いじめた先輩たちが、いまどこでどうしているのかは知らない。多分、結婚でもして幸せに暮らしてんじゃないのかなあ。自分も、それで色々と鍛えられたし、いまさら文句もない。特に感謝するつもりもないけど。……一人暮らしを始めても、いつまでもそんな古い写真を置いているのは、ただなんとなくってのもあるけど、強いていうなら、あの頃に自分が見せた根性を忘れないように、ってところかな。最低を知っていれば、どんな困難にも立ち向かえるからね」
茜は長い台詞を喋りきると、まずそうにコーヒーをすすった。
「なんていっていいのか……とにかく、すげえ壮絶な高校時代だったんだな、茜ちゃん。おれは嫌な奴がいると先制攻撃でやっつけちまってたから、そういうのよく分かんねえけど」
「え、優衣って学校ではそんなだったのか?」
「あ、いや。……まあ、学校ではそんな感じ。ずっと前から」
「また嘘ついたろ。いまの優衣ならともかく、以前の優衣にそんなこと出来るはずない」
おそらく茜のいう通りなのだろう。篠原優衣が学校で酷いいじめを受けた経験があるのかどうかなど知らないが、あったとしても、おそらく無抵抗で相手のなすがままだったのではないだろうか。
「おれのことなんかより、いまは茜ちゃんの話だろ」
「もうないよ。その写真についての話はそれでおしまい」
「じゃあ、その後は? 高校卒業してからの茜ちゃんは?」
「そうだな。大学では、部活には入らなかった。ベイスパロウ一本。高校入り立ての頃と違って、もうトップの試合で使ってもらえるようになっていたし。でも、そのせいでサッカーにより没頭するようになって、のめりこみ過ぎて、せっかく初めて出来た彼氏に振られちゃったけどね」
「おれとサッカーと、どっちが大切なんだ、って?」
「まあそれと似たようなもんだ。二択って意味ではね。……命とサッカーとの選択で、あたし、サッカーのほうを選んじゃったんだ」
「命って……え? まさか」
「そ。中絶……しちゃったんだ」
茜は少し淋しそうな微笑を、その顔に浮かべた。
優衣は小さく口を開けたままで、なにも言葉を発することが出来ないでいた。
「一年生の秋だから、まだ十八か。相手も同じ大学の同期でさ。責任取る、産んで欲しい、結婚して欲しい、って彼氏はいってたんだけど、ただ責任のためにあたしと一緒になるのかって反発しちゃって、あとそれ以上に、長期間サッカーが出来なくなるだろうってことに耐えられずに、勝手に手術を受けちゃった。貯金全部使って、さらにおばあちゃんからもお金借りて。あとから彼氏に話したら、二、三発、強烈なびんた食らって、蹴飛ばされて部屋を追い出されて、もうその彼とはそれっきり。顔も見てない。堕胎したばかりの女の身体に酷いよねー。ま、あたしが悪いんだけどね」
茜は一気に話し切ると、ゆっくり一呼吸をついた。
凄惨な過去を話しているというのに、そこにはどこか他人事のような、楽しそうな表情すら感じられた。
優衣は黙ったままだ。
だって、なにかいえといわれても、なんといったらいいのか分からない。
「幻滅した?」
茜は、また表情を変えて、淋しそうな笑みを作った。
「本当、なの? それ」
ようやく、優衣はそれだけを口に出すことが出来た。
「嘘だよ。っていいたいけど、本当の話。いままで誰にも話したことないけどね」
「別に幻滅もなにもねえよ」
さりとて賛美もないが。
単に、人は色々と抱えているものがあるものだな、と思った程度で。あまりの生々しい話に、ちょっと驚いて言葉は出なかったが。
それよりも、幻滅されても仕方のないと自身考えているようなことを、どうしてわざわざ自分にだけ話してきたのだろうか、と、それが気にかかっていた。
「あたしはね、すっごく後悔してるんだよね」
「産んでおけば、結婚しておけば、良かったって?」
優衣の言葉に、茜は小さく頷いた。
「そうしたほうが良かったのかな、って。でも多分ね、あたしね、もしもその時に戻ったとしたら、また同じ選択をしてしまうと思う。で、やっぱり後悔して泣く」
「……後悔か」
優衣は呟いた。
人間がその道を突き進みたいのであれば、過程には当然のことながら捨てなければならないという選択も多々と生じてくる。
身体も人生も、二つはないのだから仕方がない。
自分で天秤にかけ、選択をしながら、自分の責任において進んでいくしかない。なにがあろうと、運命を呪ってはいけない、成功した人間を妬んではいけない。高校卒業後に無名の社会人サッカークラブに入った
希望する人間がみなサッカーだけで飯が食えるようになるのなら良いが、現実はそうはいかない。どのような結果が待っているかなどは分からないが、とにかく、いろんなものを犠牲にしながら、やっていくしかない。
自分のこれまでの人生、これで良かったのか。そう自問することも、何度もあった。
でも、どん底まで沈んで、後悔したりもするくせに、気が付くとまた笑顔でサッカーボールを蹴っている。
例え後悔しても、それをも含めて受け入れればいい。いまでなく、数十年後に気付くのだって構わない。
人生の最後の瞬間を、そんな後悔すらも自己肯定して迎えることが出来たならば、こんな最高の人生はないのではないか。
「……って、思うんだよね、おれ」
優衣は、松島裕司云々というところは伏せながらも、自分のそうした思いを茜へと伝えた。
「うーん。十歳も下の小娘に、そんなことをいわれるとは」
「おれも後悔と立ち直りの連続だったからな。分かるんだよ。ほら、そんなに好きでもない子とついついノリでやっちゃってさ、出した直後にすっげえ後悔が来るんだよ。知ってる? そのくせにほら、十分もするとちょっと握られただけでまたムクムクって元気になってくるだろ」
「そういう話はアッキーとしろ! てかそれ、どっち側の立場でいってんだよ!」
茜が投げた枕が、優衣の顔面にぶつかった。
「あいてっ! 目にピシッと当たったっ! いてえ。……まあとにかくさ、そう悩んだり悔やんだりするのも、それだけサッカーが好きだからってことなんだよ。人生、辛い選択の連続ってだけかも知れないけど、心の支えがあると頑張れたりもして、その支えってのが、単にサッカーが好きだっていう、それだけでもいいんだよ」
「上手くまとめやがったな。でも、そんな慰めようとしなくてもいいよ、もう八年も前のことで、いま別に落ち込んでいるわけじゃないんだから。でもまあ、優衣のいう通りだと思うよ、辛いことも、サッカーが好きだから頑張れる。……
「なんで? サッカー好きじゃ、ないの? 久子ちゃん」
「好きだよ。大好きだけれども、だからこそ、大嫌い。好きだからこそ、好きな分だけ、やるほどに辛い」
「意味が分かんないよ」
「そう? 本当は優衣が一番知ってることなんだけどなあ。あのね、久子は……」
と、茜は西田久子の過去を語り始めた。
8
その能力を考えれば至極当然ともいえたが、十五歳でフル代表にも選出され、そこでも大活躍。
高校卒業後のプロ契約の話など、破格の高待遇を提示されて、石巻ベイスパロウから神戸SCへ移籍した。
だが、そこで大怪我を負ってしまい、無情にも戦力外。ベイスパロウへと戻ることになった。
筋肉を徹底的に鍛えることで、なんとかサッカーを続けてはいるものの、絶頂であったあの頃の身体のキレはもう戻らない。
「本人が一番もどかしく感じていただろうね」
数年先、二十歳になる頃には既に世界でも屈指の選手になっているだろう。そのような栄光の未来しか見ていなかっただろうし、茜も、周囲の人間もそう疑っていなかった。本当に、久子は凄かったのだ。
だからなおのこと、思うように動けないことが本人にとってはたまらなくもどかしく、辛い。
それから四年経ち、五年経ち、自身のその身体の扱い方や付き合い方にもすっかり慣れた久子は、先天的なサッカーセンスがなお健在なこともあってベイスパロウではスタメンとして活躍している。
しかし、
彼女はまだ二十三歳であるが、全身、特に足腰がボロボロのはずである。怪我によって脆くなった筋は鍛えようがなく、何年もの間、常にそこを庇いながらプレーをしているからだ。
「だからね、走ると足が、全身が、相当に痛いはずだよ。本人は、そうはいってないけどね。泣き言を聞かれるくらいなら死んだほうがましだろうし。……以前にね、しかめっ面を浮かべてる久子に、痛み止めの注射でもしてもらったらってさりげなくいってみたらさ、感覚が鈍るからやりたくないんだ、って。いうつもりのないことうっかり喋ちゃったのに気付いたからか、口を閉ざして慌てて逃げちゃったよ」
茜は、強情っ張りなユース後輩の態度を思い出して、笑みを浮かべた。
「それでいつも、走る時にあんな苦しそうな顔をしているわけか」
「そう。自分が怪我のために絶望的な思いを味わい、いまもなお苦しみ続けているから、優衣にはそうなって欲しくないって思いは強いだろうね」
「なんで? どうしておれなの?」
他にも後輩はいるだろうに。
「だから、優衣の才能や性格を可愛いと思っているからさ。それにほら、久子もそうだけど優衣もテクニックがあって、囲まれて潰されたり、そういうのを受けやすいから」
茜のその言葉に、優衣はあぐらをかいたまま、染みだらけの壁を見つめていた。
優衣の脳裏に、西田久子がこれまで自分に対してとってきた態度、言葉が、浮かんでは消えていった。
「おーい、茜! おーい!」
突然の大声に、優衣はびくりと肩を震わせた。
すぐ外で、子供が叫んでいるようだ。
「近所の子だよ」
茜は立ち上がると、立て付けの悪い窓を力任せに開いた。
その向こうには、小学生らしき男の子が三人。
「おう、
茜は、ピッと指を立てキザに挨拶をした。
「サッカーやろうぜサッカー。お、もう一人いんじゃん、じゃお前レフェリーな」
一人が窓枠にもたれながら、優衣に気付いて指差した。
「てめえガキ! なにがお前だ!」
優衣はあからさまに不愉快そうな表情を浮かべ、バキバキ指を鳴らしながら立ち上がった。
「まあまあ、お前も他人の態度をいえない。精神年齢みんな一緒」
茜は、妙ななだめかたで、優衣の両肩を叩いた。
「しょうがねえ。今日は茜ちゃんに免じて許してやるか」
二人は外へ出て、アパートの裏側、子供らのいる児童公園側へと回り込んだ。
「またガラス割ったりすんなよ」
健太郎が、茜をからかった。
「あれは、お前が変なボールよこしたからだろ! なのにあたし一人で弁償してやったっつーのに!」
茜は憮然とした表情を作るが、すぐその顔には楽しげな笑みが浮かんだ。
三人の男の子たちと茜は、足で地面にラインを書くと、ボールを蹴り始めた。
結局、健太郎のいう通り優衣が審判を務めることになった。
といっても、子供相手だしそれほど真剣にジャッジするつもりもなかったが。
そんなことよりも、見ていて感心してしまうことがあった。
茜の、手の抜き方だ。
実に絶妙なのだ。
小学生相手に本気を出すわけでもなく、かといって真面目にやっていないわけでもなく、常に子供らの本気を引き出すようなプレーをしている。子供らが達成感を得られるような、そんなプレーをしている。
さすが、隔週でやっているガールズスクールで講師をしているだけある。
子供、好きなんじゃねえかよ……
優衣は思った。
先ほど茜が話した、命の選択、「あの頃に戻れたとしても、また同じ選択をする」そういっていたが、おそらくそんなことはないと思う。あの頃に時を戻すことなど不可能だから、あんな言葉で自分を慰めていただけなんだ。
その話は誰にもしたことがないといっていたが、おそらく本当だろう。
おれが、さばさばとして男っぽいから(男だけど)、だから話したんだ。八年間も、一人で抱えてたんだ。
久子に負けず劣らずの、不器用もんじゃねえか。茜ちゃんも。
と、苦笑していると、不意に茜に声を掛けられ、びくり肩を震わせた。
「審判交代! 優衣、入れ」
いわれるまま入ったは良いが、しかし茜のように上手な手の抜き方が分からず、どうにもギクシャクとしたプレーになってしまう優衣。子供らにからかわれてムキになるも、悪循環。攻守、なにも出来ずに終わってしまった。
続いて、リクエストを受けて茜と優衣とで尻取リフティングを披露することに。
二人とも基本技術はしっかりしているため、長いラリーになった。
結局、ボールを落として失敗することはなかったものの、五十語くらいで、 茜「えっと、ゆたんぽ」 ⇒ 優衣「ぽか……ぽ、ぽ、えええっと、ぽぽ、ぽ、ぽんかん」で強制終了。
「もっと続けられたのに! 優衣はもう!」
不満そうな、でもちょっと嬉しそうな茜の顔。
後から聞いた話によると、いつもは子供らがすぐに落としてしまいラリー終了してしまうのだが、だというのに「たまたまおれの時に落ちちゃうけど、茜だってそんな続かないからな」などとヘマを見たことないくせに思い込みから貶められていたので、理不尽な汚名を返上したかったらしい。
でもある程度は返上出来た。今日は良い日になったよ。と、茜は笑っていた。
良い日になったといえば、それは優衣にとってもであった。
デパートの本屋でサッカー教本は買えなかったけど、野本茜、西田久子、サッカーに向き合う選手の、サッカーに対しての様々な思いを知ることが出来て。
9
「だーれだ」
グラウンドを歩いていると、いきなり後ろから、手で目隠しをされた。
「くまひげ監督」
優衣は即答した。
「あんな腕もじゃもじゃじゃないよ!」
抗議の声。そんなこといわれるまでもなく分かっている。目隠しをしてきたのは、
今日の
少し暑いが、湿度が低くさわやかな秋晴れである。
土曜練習の休憩時間。ベイスパロウの選手たちは、みんなで柵に腕を乗せてもたれかかって、隣にある第二グラウンドの様子を見物している。
サッカーのフィールドの中には小学生くらいの女の子たちが、三十人ほど集まっており、その前に向かい合って立つ
女の子たちは、みな小学五年生である。
今日は、石巻ベイスパロウユースのセレクションの日。要するに、入団テストの日なのである。
受かった子は、来年度からここのユースに所属することが可能になる。
フィールドを囲むように保護者たちが我が子を見守っている。
簡易テントの下の長テーブルには、笹本監督と
「あの~、
柵の向こう側にいた一人の少女が、いつの間にか優衣たちへと近付いてきていた。
「あ、そうだけど」
唐突に声をかけられ、優衣はちょっと面食らってまばたきをした。
「やっぱり! うわぁ、本物だ! 握手してくださいっ!」
少女はぱっと花開いたような顔になると、強引に優衣の手を両手で掴み、力強く握ってきた。
「あと、あと、サイン下さい」
バッグからごそごそと、色紙とマジックを取り出した。
「え、サイン? そんなこといわれてもなあ……」
ちら、と茜の顔を見た。
「書いてやんな」
と、いわれたものの、どう書けばいいのか。
まあとりあえずは、なんだかサインぽく、ぐしゃぐしゃぐしゃ、とミミズの這ったような感じに篠原優衣と書いておけばいいだろう。んでもって、名前の横に小さくハートマークでも書いておけばいいだろう。
と考えていた優衣であったが、ペンと色紙を持った途端に手が条件反射で動いて、さらさらと書いてしまっていた。
松島裕司。
やべ、と思ったが、既に少女は、なにも気づかず色紙を両手に抱いていた。
「ありがとうございます! あたしの妹が、このセレクション受けるんです。あたしも去年受けたんですが、落ちちゃって」
「あ、ああ、そそそうなんだ」
サイン間違ってしまった罪悪感に、少女の言葉も上の空。
「どこでもサッカーは出来る。続けてれば、絶対なでしこリーガーになれるよ。頑張ってね」
気の利いたことをいえずにいる優衣を、隣の茜がフォローした。
「はい! ありがとうございます!」
少女は深く頭を下げると、元気よく走り、保護者たちのいる中へと戻って行った。
「篠原さん!」
男性の声。
「はい。つうか、またおれぇ?」
優衣はちょっとうんざりしたように、自分の顔を指差した。と、次の瞬間、その顔が驚きに変わった。
見覚えのある二人が近付いてきたからだ。
篠原優衣が石巻駅近くで暴走トラックから救ったらしい幼女と、その父親だ。
もちろんその助けた時の記憶は自分にはないが、先日、篠原宅にお礼に来たので二人の顔を覚えていた。
「あ、どうも」
なんでここにいるんだろ、と思いながらも、とりあえず優衣は頭を下げた。
「優衣お姉ちゃん、こんにちは」
女の子はそういうと、ぴょこんと頭を下げお尻を突き出しお辞儀をした。
確か、陽子という名前の子であったか。
「おう。こんにちは。陽子ちゃん、だよな。こんなとこに来るなんて、どうしたの?」
「うちの長女が、受けるんですよ。ほら、あの先頭に立っているチビの、ポニーテールの」
と、陽子の父親がセレクションに集まっている少女のほうを指差した。
あれかな、とすぐに分かった。五年生ばかりの中、他の子たちと比べて随分と小柄だが、その分元気そうに見える。
「それじゃ、失礼します」
父親は会釈すると、陽子の手を引いて戻って行った。
陽子は振り返り、もう一本の手をぶんぶんと振った。
優衣も思わず微笑み、振り返していた。
しばらくして、ようやくセレクションが開始された。
今年は参加人数が三十人と少なめであるため、一人一人のボール捌きなど、個人技に関してもしっかりとチェックをするとのことである。
一昨年などは、なでしこフィーバーにより参加者が百人を遥かに越えてしまい、最初から最後までゲーム形式でのみ評価をするしかなかったのだが。
個人技テストに続いて、そのゲーム形式でのテストが始まった。七対七のミニゲームだ。
「おー、あの七番の子、動きいいね」
「六番もいいぞ」優衣は、陽子の姉を指差した。「小柄なの生かしてるし、パスセンスもいい。あと、十番もなかなか。左利きかな。突破力があって判断も悪くない…が、あらら、右足は酷すぎるな。緊張してるんかな、クソガキどもが可愛いもんだ」
優衣は、ははと笑った。
「お前だって、あの中にいただろ」
あまりに生意気なことをいっていたせいか、横に立っていた
「お前だって、ぎりぎり合格だったろ」
それを聞いていた
久子はその後に、内に秘めていた素晴らしい才能が開花して、代表にまでなるのであるが。
トップチーム練習の休憩時間が終るまであと十分ほどであるが、選手たちはみんな離れることなくセレクションの様子を見守っている。
今後一緒にプレーするかも知れないし、なにより一年に一度のイベントだからだ。
「なあ、久子ちゃん」
優衣は、隣にいる久子へと声をかけた。
なお呼び方について紆余曲折あったが、結局ちゃん付けで落ち着いた。
「ん?」
久子は、顔を第二グラウンドにいる女の子たちへと向けたまま、返事だけをした。
優衣は、自分から声をかけたくせに、黙ったままであった。
「なに?」
「いや……なんでもない、っつーか、その……ごめんな、色々と」
恥ずかしそうに身体をもじもじとさせながら、優衣はぼそりと謝った。
それからまたしばらく、どちらも言葉は途絶え、二人の間にはそよそよと風が吹き抜けるばかりであった。
「ばーか」
ようやくにして久子が発したのは、その一言だけであった。
また二人の間には、ただ静寂と、風。
優衣も真っ直ぐに正面を見たままであったから、隣にいる久子が一体どんな表情をしているのかなど分からない。
でもどうせいつものように、なんだか怒ったような、そんな顔をしているんだろうな。と、漠然と思っていた。
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