第七章 最高の奴らじゃねえか

     1

「この銀河の海に再び、緑の藻を生やそうブルーギール、ワオーッ♪」


 は一人熱唱を終えると、お粗末様とばかりマイクをことりテーブルに置いた。

 知らず立ち上がってしまっていたことに気付き、咳ばらいをしつつ腰を下ろした。


「なに……いまの歌?」


 対面の席で、ふもとがすっかり唖然としている。


「普段ぜ~ったいにカラオケ断るし、無理矢理に連れてきてもぜ~ったいに、かたくなに歌わない優衣が、ついについに自らマイクを手にしたかと思ったら……なんなんだ、その曲」

「え? 銀河空母ブルーギルの主題歌だよ。やまマヨの唯一のヒット曲だろ」

「誰、それ?」


 だろ、と当然のようにいわれてもなあ。という表情で、絵美はすげようと顔を見合わせた。


「そうか、こんなマニアックな趣味をしてたのか、優衣は。だから、これまでの性格の時には、人前では決して歌わなかったんだ。あたし、てっきり優衣の生き甲斐は勉強とサッカーだけだと思っていたよ」

「いや、趣味っつーか子供の頃に再放送バンバンやっててみんな見てただけで……お、採点結果出るぞ」


 部屋の一番奥の大型画面に、可愛いキャラによるアニメーション付きで採点結果が表示された。


  四十二点。

  リズムと音程の、基礎から頑張りましょう。


「うわ、ひどっ。四十二点だって、ひどっ! へえ、この機械五十以下でも採点してくれるんだ。採点出来ませんになるのかと思ってた」


 いつものガハハ笑いが、いまにも飛び出しそうな絵美のニヤケ顔。

 先ほど、採点結果五十八点だったのを優衣にさんざんバカにされたからであろう。


「絵美、からかい過ぎだよ」


 洋子がたしなめる。といいつつ彼女の顔も、絵美と似たようなものであったが。


「だってえ」

「うるさいなあ。機械なんかにゃあ所詮おれの歌声の魅力は理解出来ないんだよ」


 などといいつつも、もう一回チャレンジしようと順番ズルして選曲しようとしたところで、制限時間である二時間が来てしまった。


     2

 特に延長することなく、割り勘を済ませてカラオケ店を出た三人は、あてもなくぶらぶら夕暮れの街を歩いた。


 あてがないのは、当初の予定の通り。ただこうしてなにも考えず適当に三人で過ごすということが、今日の目的だからだ。


 普段がサッカーにかかりっきりでプライベートな時間をあまり作れないので、たまの遊べる日だからと無理に予定を詰め込んであくせくと動くより、ただのんびりしていたほうがよほど優衣にとって有意義なのでは、というようの提案だ。


「それでさあ、そのアッキーってのが、もうすっごい性悪でさあ。困ちゃうんだよね。二十七のくせに子供で、すぐ裸になって走り回るし」


 から振られて、優衣はベイスパロウの選手たちの話をしていた。


「優衣って、なんだかんだとサッカーの話をしている時が一番イキイキしてるよね。ずっと前から」


 洋子は、しみじみと楽しげな笑みを浮かべた。


「そうかな?」


 まあ、そうなのかもな。確かに。

 ずっと前から、ということは、篠原優衣もそうだったんだな。


 篠原優衣もまつしまゆうも、どちらも小さな頃からサッカーをやっていた者同士。サッカーの話が好きだとしても、別になんということはないはずだというのに、それが何故だかちょっと嬉しかった。


 三人で他愛のない話をしながら夕暮れどきの繁華街を歩き続けていると、不意に、背後から声をかけられた。


「ねえ彼女たち、遊ぼうよ」


 男の声に、優衣たちは振り返った。

 二十歳くらいの若者が、三人。

 どこかで見たことのあるような……


 優衣は少しうつむきかげん上目遣いで、男たちを見た。

 どこかで……と思っているのは、どうやら男たちも同じようであった。

 そして男たちのほうが、先に気が付いた。


「ああ、なんだ、篠原優衣ちゃんじゃないか」


 曲がったナスビのような顔の男が、粘液質な声でそういうと、ニッと笑みを浮かべた。

 その嫌らしい笑い顔で、ようやく優衣も気が付いた。

 アルバイト先のファミリーレストランによく来店する、大学生三人組だ。

 その都度、篠原優衣に下品な冗談を飛ばしたり、しつこくからんでくる、あの三人。


 気が付きはしたものの、優衣は黙っていた。口を開けば自分がなにをいってしまうか分からない。このまま何事もなく男たちが去って行けばよいわけで。

 しかし、男たちは何事もなく去っては行かなかった。


「なんだ、よく見ると二人はたいした顔じゃないな。せっかく三対三で釣り合うと思ったのに。それじゃあ優衣ちゃんだけ遊ぼうよ」


 ナスビ顔が、優衣へと一歩近寄った。

 優衣は、同じ分だけ後ずさりながら、


「たいした顔じゃないのはてめえだろが、バーカ。釣り合うのは数だけじゃねえかよ、ヘナチンみてえなヒワイな顔しやがって」


 結局、口を開き、相手にしてしまっていた。

 自分のことならいざ知らず、友達の悪口をいわれたことに頭に血が上ってしまったのだ。


「あれえ、常連客様にそういう態度取っていいのかなあ。店に訴えるぞ」


 ナスビ顔は唇の両端をきゅっと釣り上げた。怒っているのか笑っているのかよく分からない表情である。


「あのな、アホだから分からないのかも知れないけど、ここはファミレスじゃねえんだよ。それにな、普通おめえらみたいなのは客とはいわねえんだよ。ただ営業妨害しに来てるだけの、根暗なクズ野郎じゃねえか。だったらさあ、いっそのこと無銭飲食でもしてくれねえかな。変に客っぽい面で来られるよりも、こっちも、よっぽどすっきりするから」


 一度回転を始めた優衣の舌は、すっかり止まらなくなっていた。

 ここが職場ではないとはいえ、もしもこの男たちが本気で訴えてきたならば、店の側としては心象風評などを考慮して優衣を解雇する可能性は充分にあるだろう。だからといって、仕事以外の場所でまでこんな男らにへらへらするのも癪だった。

 というよりも、そんな損得は、既に頭になかった。


「だいたい、よくその顔でナンパなんてする気になるよな。勇気というか、無謀に気付かないその鈍感さは褒めてやるけど、でもお前みてえなヘナチン野郎の相手をする奴なんて、ビッチしかいねえんだよビッチしか。バーーーーカ! そっちのほうも顔みたいに曲がってんじゃねえのかあ? ほら、そこでパンツ脱いで見せてみろや」


 やべ。


 優衣ははっと我に返り、慌ててその口を閉じた。

 思わず、いい過ぎてしまった。

 ナスビ顔が、引き付けを起こしたように顔中の筋肉を痙攣させている。当たり前だ。


 どうしよ……

 でも、

 まあ、いいか。

 こうなったら徹底的にやってやるまでだよ。


 優衣は心にそう呟きながら、相手を挑発するような好戦的な笑みを浮かべた。


「弱えもんしか相手に出来ないヘナチン野郎、ほら、なんとかいってみろよ」


 開き直って挑発続行。

 ナスビ顔といってもあくまで輪郭だけで肌の色は生っ白いのであるが、それがすっかりと怒りに真っ赤になっている。


 と、いきなり奇声を上げた。ナスビ顔は、意味不明なことを叫びながら、拳を振り上げて優衣へと殴り掛かった。


「はい待ってましたあ!」


 優衣は紙一重で見切って拳をかわした。わざと殴られて警察沙汰にしてやってもよかったのだが、借り物であるこの顔、この身体にそのような酷い真似は出来ないから。


 とにかく、相手から先に殴り掛かってきたという事実は成立した。

 正当防衛による反撃をしてやろうと、優衣は腕を振り上げた。この異様に細い腕にどれほどの力があるのか分からないけれど、とりあえず一発ナスビ顔に食らわしてやらないと腹の虫がおさまらない。腕に力がないなら、タマを蹴飛ばしてやってもいい。

 しかし、


「優衣! やめなよ!」


 普段はおだやかな洋子が、大きな、怒鳴るような声を発した。

 優衣は、振り上げた腕を下ろした。


「そんな、喧嘩なんてしていたら、試合にも出られなくなっちゃうんだよ」


 全くもって正論ではあるが……

 こっちのイライラが……


 でも、確かにその通りか。

 くそ。


 優衣は渋々とした表情で、腕を下げた。


「しょうがねえなあ」大きく息を吸うと、悪戯っぽく微笑み、不意に腹から大きな声で叫んだ。「おまわりさーん! 痴漢でーーす! 痴漢! お尻さわられましたあ!」


 男たちは肩をびくりとすくませて、首を回して辺りをきょろきょろ、通行人の視線が完全に自分たちに集まっていることを認識すると、


「ふざけんなよ、お前!」


 なんだか中途半端な捨て台詞を残して走り去っていった。

 女子高生をナンパしようとしていたような男たちである。痴漢だといわれてしまえば弁明出来ないかも知れないと考えたのであろうか。


「あっ、優衣」


 絵美が指を差している方向、そちらを見れば、本当におまわりさんが走ってくるではないか。


「なにかあったんですか!」

「うおお、ほんとに来たあ! 嘘がばれると面倒くせえ、逃げろ!」


 と、優衣は踵を返すと走り出した。その顔には楽しそうな笑みが浮かんでいる。


「逃げるこたないのに! 待ってよ!」


 絵美も、続いて洋子も、優衣を追って走り出した。


「警察嫌いなんだよ、おれ」


 ガキの頃に、立ちションしたり川に飛び込んだり、しょっちゅう地元の警察官に怒られていたから。


「優衣、ほんっと変わったよなあ」


 絵美たちは、優衣の大胆な笑みに、感心するやら呆れるやらといったような複雑な表情で後を追うのだった。


     3

 気持ちが、悪い……

 はぐえぐええと、まるでひきがえるのような呻き声を上げながら、口元を両手で押さえ、ふらふらとした足取りでトイレから出て来た。

 顔面蒼白だ。


「どう、ちゃんと付けられた?」


 ぬまたえは、優衣に寄り添うと優しく背中をさすった。


「たぶんね」


 二人がロッカールームに戻ると、もとあかねがもう着替えを済ませて待っていた。椅子に座って、足の甲だけでサッカーボールのリフティングをしている。


「タエに付き添ってもらわなくても、この前、あたしが付け方を教えてやったろ」

「一ヶ月も経ってんだもん。忘れちまったよ」


 そもそも元々が男なんだから、そんな習慣ねえんだよ。

 優衣は、今月もまた生理になった。前回同様に、またなにも準備をしておらず、慌てたものの何をどうすればいいのかもすっかり忘れてしまっており、今度は妙子にお世話になっていたというわけだ。


「そもそも紙を剥がして粘着部分を当てるだけなんだから、付け方もなにもないだろうに」


 茜は顔を上げて、優衣たちに視線を向けた。目を離しているというのに左右の足の甲の間を、ボールが行ったり来たり、器用なものである。


「んなこといわれても、分かんねえもんは分かんねえの! いますっげえ気持ちが悪いんだから、少しはいたわれよ!」

「そもそも普段の練習が足りてないから、きっちり来ちゃうんだよ。じゃあ練習で楽してたんだから、それくらいの辛さは我慢しな」


 茜は足元に視線を戻し、足を交差させたりなどちょっとアクロバティックな技に挑戦。しかしあっさりと失敗してボールを落としてしまった。


「えー、なんだよその言葉は。ね、タエちゃん、いまの聞いたか? 茜ちゃんひっどいよねー」


 ねー、とまるで女の子のように可愛らしく小首を傾ける優衣。


「あたしに振られても困る」

「むお、またなんか込み上げてきた」


 優衣はしゃがみ、口を押さえた。

 しかし、なんなんだよな、この生理っつうのは。ほんっと女の身体って面倒くせえ。こんなんばっかりで。本当に面倒くせえ。サッカーに集中させてくれよ、畜生。辛すぎる……


 こんな大変だってのに、凄えよなあこいつらは。そんなの屁でもねえってくらいに、たくましく生きていてさあ。


 ああ、気持ち悪い、ほんと気持ち悪い。死ぬ。もう限界。


 優衣は心の中でそうぶつぶつぶつぶつと呟き続けながら、学校の制服を脱いでトレーニングウエアへと着替え始めた。


 ほんの少し前などは、女性の着替えを見る度に、そしてつじうちあきにいじられる度に、いちいちぎゃーぎゃーとうるさく泣き喚いていたものであるが、毎日のことにもうすっかり慣れっこになって、ちょっとやそっとのことでは動じなくなっていた。


 松島裕司高校時代には、プールの着替えや修学旅行の女子風呂などを仲間たちと覗いたりして大興奮していたものであるが、それも現在となっては良き思い出どころか単にむなしいばかりである。


 きっと、産婦人科の先生なんかもこんななんだろうな。大学出て、医師免許も取得して、よーし毎日あそこを見るぞ~、と希望の雄叫びを張り上げていたのが数ヶ月後にはため息も出てきやしねえみたいな。


 十代の頃はさあ、もし女になれたとしたらやってみるこたあ一つだろう、となんの疑いもなく決めきっていたけど、実際そうなってみると、どうでもよくなっちゃったもんな。


 といいつつ、週に何度も自慰行為に及んでしまうのだが。

 まあ、なんだ、それはそれ、これはこれってことで、そんなことよりも、


「思いっきり立ちションしてえなあ、久し振りにい」


 優衣の背後で、誰か思い切りぶっ倒れる豪快な音がした。

 西にしひさであった。着替えるためにズボンを膝まで下ろしたところで、優衣がアホなことをいうものだから、前のめりに転んでしまったのだ。


「なんなんだ、お前は!」


 久子はとりあえずズボンを戻しながら起き上がるや、優衣の頭を叩いた。


「いって! 結構本気で叩きやがった」

「当たり前だ! だいたいなんだよ、久し振りって。そんなことしてる暇があったら練習しろ練習」


 恥ずかしそうにだんだん小さなぼそぼそ声になりながらも、いつまでも小言をいい続けている久子。


 その時である。

 ばあん、と勢いよく部屋の扉が開いた。


「じゃじゃじゃーん!」


 紺のセーラー服を着た少女が両手を高々上げながら、元気よく入って来た。ちりっちり天然パーマの短い髪の毛。所属選手だろうか。優衣の初めて見る顔である。


「みなさん、どーもー、お久しぶりでーす! 優衣先輩もぉ! いきなりターーッチ!」


 少女は言葉通り突然に、両手で優衣の小ぶりな胸をがっしと掴んできた。


 優衣は、まるで動ずることなく、仁王立ちのまま飛び入り少女の顔をじーっと見つめている。

 すっかり秋菜で耐性がついているから、この程度なんのことはないのだ。松島裕司以前の優衣ならば、秋菜に何百回いじられようが耐性など身に付くことはなかったであろうが。


「あれ、あれえ、おかしいな、優衣先輩が恥ずかしがらないなんて」


 少女は首をかしげ腕を組み、不思議そうな表情を隠さず浮かべている。


「ね、誰? このサルみてーな顔の女」


 優衣はいぶかしげな顔を作り、少女を指差しながら、茜へと疑問の言葉を投げかけた。


しず。あだ名はその通り、サル。ユースで優衣の一つ下の後輩だよ」


 怪訝そうであった優衣の顔が、説明を受けて突然ぱあっと晴れやかになった。


「おー、おれの後輩かあ。そっかあ。よろしくな、サル。よろしくなあ」


 優衣は静子の頭をがっしと小脇に抱えると、その短い髪の毛をグシャグシャに掻き回した。

 ズンダマーレではほとんどが年下ばかりであったが、ここでは自分が一番年下であったため、窮屈で仕方がなかったのだ。


「そっかあ、サルかあ」


 嬉しそうに、髪の毛を掻き回し続ける。


「あいてて、いてて! なんか勝手が違うな。そもそも優衣先輩、あたしのことよく知ってるでしょうが!」


 もがく静子。なんとか優衣の腕の締め付けから抜け出した。


「記憶にねえよ、お前のことなんか」

「ガッビーン」


 静子は凄まじく古臭いリアクションで床に倒れると、そのままごろんごろん右に左に転がった。すくっと起き上がったかと思うと、


「もう一回ガビーン」


 再び床に倒れてばったんばったん転がった。


「売れないお笑い芸人みたいな奴だな。で、その後輩が、なんでいま頃になって出て来たんだよ。見たところ、怪我上がりでもなさそうだし」

「うわあ、ほんっとに覚えてないのかよお。サル悲スィ~。茜さん、慰めてくれ~」


 静子は茜に抱き着くと、胸に顔を埋めた。


「あ、そっか、サルは知らないんだよな。あのね、優衣はね」


 と、茜は静子の背中をさすりながら、事情を説明した。


「ええ、優衣先輩、そんな記憶なくてサッカー出来るのお? ルールは覚えてんのお? 呼吸の仕方とか、心臓の動かし方はあ? 記憶いつ戻るのお?」

「知らねえよ」


 優衣は吐き捨てるようにいった。


 静子への優衣の説明に続いて、茜は、優衣に静子のことをより詳しく話してあげた。


 小田静子は、トップとユースの二重登録の選手である。大事な大会を控えて六月頭からずっとユースと共に練習していたが、その大会も終わり(決勝トーナメント準々決勝で敗退)、今日からトップチームへ合流したというわけだ。


「へえ」


 あまり興味なさそうな優衣。むしろ、うざったそうな奴が来たなという顔だ。


 実際胸中としてもその通り。後輩が出来たのは嬉しいが、その感動がおさまると、ちょっとこいつのキャラは濃すぎてムシが好かん。


「そうかあ、優衣先輩ほんっとに記憶ないんだ。でも貸しは貸しだからさあ……お金返して、ほらゴールデンウイーク前に貸した千円」


 静子は、すっと右の手のひらを差し出した。


「お前絶対に嘘ついてっだろ。どちらかといえば、おれのほうが金貸してんじゃねえの?」


 篠原優衣の性格上、他人から借金をするとは思えない。


「う」


 と、まるで胸から背中まで銛かなにかでぶっすり刺されたようなそんな声で、静子は呻き、たじろいだ。


「ほんとは、しっかり記憶あるんじゃないの? ……分かった、分かりましたよ、返しますよ、千九百八十円。利子つけて千九百八十五円にしましょうか?」


 静子は渋々といった顔で、ポケットから財布を取り出し開いた。


「いいよ、いいよ、返さなくても。記憶にない金を貰っても気持ち悪い」

「おほ、やったあ。それじゃあ今度、缶ジュースでもおごりますよ」

「つぶつぶオレンジな」

「懐かしいなそれ。そんなの幼稚園のお楽しみ会でもらったっきり見たことないですよ」


 などと話しているうちに、もうそろそろ練習開始時刻である。みな、トレーニングウエアへの着替えを済ませると、次々と外へ出ていった。


「も一回、取り変えとこうかな。念のため」


 なんかいまちょろっと出た気がして、優衣は自分の身が生理中であることを思い出した。量はたいしたことないのだろうけど、このまま練習に向かうのもなんだか気持ちが悪い。


 しかし、どうするべきか迷っていたところを静子にどんどんと背中を押され、外へ追い出されてしまった。


 仕方ねえ、練習するか。


     4

 さて、まずはみんなで練習用具の準備である。

 各人、用具室からボールやカラーコーン、ビブスなどを持ち出してグラウンドまで運び込み、最後は二手に分かれてゴールを移動だ。


 準備が終わるか終わらないかという頃に、クラブハウスのほうからささもと監督がもったりもったりと歩いてきた。


 監督の前に全員が集合。

 残留に向けて気を引き締め、練習からしっかり頑張っていこう、と短いスピーチの後、練習が開始された。


 まずはいつも通り、ジョギングからだ。

 広大なグラウンドの内壁に沿って、ぐるりと一周。


 ちなみには本日も、一人大幅に遅れてビリ。最初の一分だけは一番威勢がよかったのだが。


 続いてストレッチ。

 そして、ダッシュなどの身体能力増強メニューをこなすと、ようやくボールを使った練習に入った。


 ペアになってパス交換。優衣の相手はせんチカだ。

 まずは普通に、右足と左足で交互に蹴って転がし相手へパス。

 続いて、一人が両手で投げ落として、もう一人が左右へステップを踏みながらタイミングよく相手へと蹴り返す練習。


 優衣はこれまでのジョギングやタイヤ引きダッシュなどのメニューで、もうすっかり息が上がってしまってバテバテのふらふらで、おかしな方向へばかりボールを蹴ってしまっていた。すぐ隣で練習しているつじうちあきの側頭部へぶち当ててしまったり(もちろんブン殴られた)。


 途中からズルをして、ほとんどチカにばかり蹴らせていた。少し身体を休ませないと、それこそ練習にならないからだ。


 なお、辻内秋菜の相方をしているのはしずだ。ユース年代ながらトップにも登録されているだけあって、さすがに見ていて上手である。足首の動きが非常にしなやかで、キックの精度も高い。さっきまでのふざけた顔はどこへやら、目の前のボールや自分の身体に対し、しっかりと神経を研ぎ澄ませて集中をしているのが傍目からでも分かる。


 先ほど茜から聞いた話では、彼女もまた世代別代表の経験があるとのこと。まあ、そうであればこそこの年代でトップ登録されているのだろう。


 続いて、五人組を作り、二対三に分かれての、ボール奪取の練習だ。

 優衣の組は、優衣とてらなえの二人と、仙田チカ、もとハル、小田静子の三人だ。


 野本ハルがボールを持つところからスタート。

 仙田チカへとパスを出そうとしているのを読んだ優衣は、素早く一歩踏み込んで、カットした。

 奪い返そうと詰め寄ってくる小田静子を左右に揺さ振ってかわすと、寺田なえへとパスを通した。


「ああもう! 優衣先輩、やっぱり普通に上手いっすねえ」


 小田静子は拍手で褒めた。


「普通に? 上手いだあ?」


 優衣はムッとした顔で静子へと近寄ると、頭を両手で掴んだ。


「普通ってのはなあ、褒め言葉じゃねえんだよボケが!」


 容赦のない頭突きをブチかました。


「あいたっ!」

「なんだよ普通ってのはよ。じゃあエジソンはフツーにえらいんかよフツーに、ペレは天才じゃなくてフツーなのかよ。たとえ本当に普通であったとしても、褒める以上はそんな言葉使うんじゃねえよ! 分かってんか、ボケがあ!」


 両手で静子の首を掴んで、がっくんがっくんがっくんがっくん。もげそう。

 昭和生まれには、平成生まれ特有のおかしな日本語がイライラして仕方がないのだ。


「助けてあかねさーん、姉が、優衣姉が、なんだかうちのお父さんみたいなこという人になっちゃってます~。イバラギじゃなくてイバラキだとかあ」

「うるさいよ、お前たち! 真面目に練習しろ!」


 野本茜は地面を強く踏み付け、怒鳴った。

 そして、二人に聞こえないようにふーーっと小さくため息。


 今日から(あのやかましい)静子がトップチームに復帰することで、優衣と色々なモノが相殺し合って、二人ともかえって大人しくなってくれるかも、などと淡い期待を抱いていたのだろうか。


「わたしが、バカでしたよ」


 そんな、茜の呟きであった。


     5

 料理の盛られている皿が、次々とテーブルの上へ置かれていく。


「ラムステーキこだわりのエスニックソースと、カキフライ定食、チーズインやわらかハンバーグとミックスフライでございます。では、ごゆっくりどうぞ」


 は客に微笑みつつ軽くお辞儀をすると、脇にトレイを抱え、いま呼び出しボタンの押されたばかりのテーブルへと向かった。


 ここはファミリーレストラン、ガジョレ石巻いしのまきない店。優衣のアルバイト先である。


 もう優衣は、ウェイトレスの仕事がすっかりと板に付いていた。

 仕事の内容にも、まるで女性店員であるかのような接客をすることにも、すっかりと慣れていた。


 店のメニューも全部覚えたし。

 というより、もともと脳に記憶されていたのだろうけど。


 篠原優衣をからかうためにちょくちょくと訪れていた大学生たちであるが、ここ最近、姿を見せていない。


 でも、それはそうなるか。

 先日ばったりと街で出くわして、喧嘩になって、おまわりさんまで呼んでしまったからな。

 こっちも逃げちゃったから、結局おまわりさんにはなにも話してはいないけど。


 大学何年だか知らないけど、就職活動で忙しくなっただけかも知れないけどな。

 まあ、来ないなら来ないでそれでいいし、もしもまたここに来て妙なことをいってきやがったら、今度こそは思い切りぶん殴ってやるだけだ。


 そしたら間違いなくここをクビになるだろうけど、アルバイト先なんか他にいくらでもあるだろうし、篠原優衣の気持ちにしたってあんなナスビどもにへこへこ頭下げているよりいいだろう。


 皿の乗ったトレイを両手それぞれに持ちながら、そのようなことを心に呟きながら歩いていると、通路の陰からいきなり子供が飛び出してきて、優衣の腰の辺りにどんと強くぶつかってきた。


「大丈夫? ここでね、走ると危ないよ」


 最近、体幹の筋力トレーニングに本腰を入れているおかげだろうか。かつては幼児とぶつかり合っても吹っ飛びそうなくらいに身体の貧弱だった優衣であるが、身体もトレイの皿も、まったくぐらつくことがなかった。


 なんて軟弱なんだ、と最初は絶望を感じたものだが、少しずつ、自分の肉体は強くなってきている。

 でもその実感を、自分よりも、むしろ篠原優衣本人へと届けて上げたかった。


 どこにいるのかな。

 優衣のやつは。


     6

「おう、これぞ男の生き様ぜよ」


 は教室の自席で、任侠漫画「浪花なにわりゅうせい」最終巻を読んで感動に目を潤ませていた。


「くー、泣けるねえ、この心意気」


 組を愛するが故に敵対組織の挑発に乗って半殺しにされた弟分、その敵討ちのため、主人公である兄貴、りゆうせいがドス一本を腰に、事務所に乗り込んでいく。そこで物語は終わる。


 何故こんな漫画を読んでいるのか? 特に理由などはない。好きだからだ。

 だが何故このタイミングなのかを冷静に考えてみると、一昨日に洋子とかわした会話が原因かも知れない。自分のことながら確信が持てないが、おそらく。


 「思うんだけど、最近、優衣ってどんどん女性的になってきてるよね。物腰も、喋り方も。だからきっと、戻ってきてるんだよ、元の優衣に」

 そういわれたのだ。


 それを聞いた瞬間は「ふーん」であったが、時間が経つほどに、どんどん不安になっていった。


 確かに、以前は女っぽい仕草や服装などに、違和感どころではない圧倒的な拒絶感にいつも鳥肌を立てていたというのに、最近はなんともない。環境への慣れということではなく、自身が女になってきているのではないだろうか。ついつい私服のスカートで外へ出てしまったこともあるし。


 アルバイト先では、仕事だし意識的に女性っぽく振舞うようにしていたつもりだったけど、そうではなかったということなのか……


 でも、単なる記憶障害ならばいざ知らず「段々と元に戻る」などということ、あるはずがないのだ。だって自分は、篠原優衣の肉体に入り込んだまつしまゆうの魂なのだから。


 それなのに、段々と女性っぽくなっていると思われているのならば、それはつまり松島裕司という男の人格がこの身体の中で篠原優衣の脳内に取り込まれて消えていく、そういうことではないか? ……いずれ自分が、完全に消えて無くなってしまう、そういうことではないか?


 そうなることに、恐怖を覚えた。

 もう既に自分は死んでいて、本来この世にいてはいけない存在。そんなことは分かってはいるが、それでも自己消滅を思わせるこの事態を目の当たりにして、どうしようもない焦りや苛立ちを感じるのを抑えることが出来なかった。


 いつかこの身体に優衣が戻った時のために、と、普段から考え、行動していたはずなのに。


 とにかく、洋子の言葉がきっかけとなり、松島裕司としての人格を維持しようと、下らないこととはいえ男らしいことにこだわってしまったのだろう。それで、あんな漫画を読んでしまっていたのだろう。


「優衣~、消しゴムありがとね」


 ふもとが近付いてきて、机の上に消しゴムを置いた。四色ストライプの可愛らしい消しゴムだ。


「なに、てえしたことじゃありやせん、あねさん」


 優衣は渋い顔になると、顎を引いて低い声を作った。それでも充分に高い声だが。


「なにいってんだよ。ん、ああ、その漫画の影響? へーえ、優衣って漫画読むんだ。教科書以外の本なんて生まれて一度も読んだことないと思ってたよ。あ、先生来た」


 前のドアが開いて、現代国語のしば先生が入ってきた。

 ざわついていた教室が、すうっと空気に溶け込むように静かになった。ただ一人を抜かして。


「おれは男だ。男だ。男。男。極道の心意気。そう、流星のように、胸に刻め。心にドス。心にドス。心にドス」


 なんだか呪いのように、ぶつぶつと呟いている優衣。


「篠原、うるせーぞ。誰が男じゃ」


 柴木先生は優衣を睨み、怒鳴り付けた。


「あ、すんません。つい」


 さて、これでようやく一人残らず静かになって、授業が開始されたわけであるが、しかしその時、


 パン!


 と、なにかが爆発するような音が、窓の外から飛び込んできた。


「伏せろてめえら!」


 優衣は絶叫するのとほとんど同時に、椅子から倒れ落ちるように床へ転がっていた。


「どこの組の殴り込みだ? 何人だ、この野郎! 舐めた真似しやがって」


 低い声を出しながら、窓へと這い、にじり寄った。


 しん、と教室はすっかりと静まりかえっていた。

 生徒たちは、自席で呆然としたまま一言も発っせずにいた。


 だがそれは、殴り込みの恐怖に怯えてのものではなかった。当たり前だが。少女の奇行に唖然としていただけだ。


 優衣はそーっと顔を上げ、窓から外の様子を確認した。

 敷地のすぐ外の公道で、自動車が停まっている。派手な服を着た小太りのおばさんが運転手が降りてきて、しゃがんでタイヤを覗き込んでいる。

 どうやら、タイヤのパンクのようであった。


「なんだ、殴り込みじゃなかったか。おうみんな、もう顔を上げていいぞ。大丈夫だったから」


 優衣は振り返り、生徒たちを見回した。

 そもそも伏せている者など一人もいなかった。


「殴り込みなわけねーだろ」


 ぱかっ、

 と、優衣の頭に、丸めた紙屑だかなんだかが投げ付けられた。


「頭おかしいんじゃないの?」


 ぱかっ。


「こいつ、やっぱり全然変わってなーい」


 ぱかっ。


「キモ」

「死ね」

「変態」

「バーカ」

「バーカ」

「やめろてめえら! ぶっ飛ばすぞ! あいて目に入った!」


 ぱかぱかぱかぱか次から次から、紙屑や消しゴムの流星が優衣に降り注ぎ続けるのだった。


     7

 久しぶりに、激しい頭痛に襲われた。

 あの、刃物を頭蓋骨に突き立てられ無理矢理ねじ込まれるかのような、激痛に。


 神経をぶちぶちむしり取られているような、狂いそうになるくらいの痛みや衝撃に、意識、思考力はほとんど吹っ飛んでいた。

 残るわずかな意識で必死に抵抗し、戦ったが、立っていることも出来ず、地面に両手両膝をついた。

 大きく、息を吐いた。


 ぎりぎりと鋭利な物で頭骸骨を突き通すような激痛は、まったくやわらぐ兆しを見せなかった。


 思わず悲鳴を上げていた。

 みんなに気付かれたくなくて必死に堪えていたのだが、あまりの痛みの激しさに我慢が出来なかったのだ。


 一体、なんなんだ、この痛みは?

 以前にもあったが、またしのはらの記憶が流れ込んでこようとしているのであろうか。

 それとも、ただ虚弱な体質からくる頭痛?。


 痛みに顔を歪め、ぎゅっと強く目を閉じていた優衣であったが、うっすら目を開けてみると、そこにあったはずの視界が消失していた。


 真っ暗闇であった。


「優衣! 大丈夫? 優衣!」


 てらなえの呼び掛けが聞こえる。すぐそばにいるのだろう。


 あまりの痛みの凄まじさに半ば朦朧とはしているが、意識はある。幻聴が聞こえているというわけではないだろう。むしろ目だ。視神経だか脳組織だか、なにが問題なのかなどさっぱり分からないが、自分の目が見えなくなってしまっているのだ。


「ああ、大丈夫」


 まったくもって大丈夫ではなかったが、激痛と恐怖心に必死に抵抗を続けながら、かろうじて口を開き、返答をした。

 そうこうしているうちに、少し頭痛がやわらいできた。


 助かった。

 あのまま、あの痛みが続いていたら、間違いなく狂い死んでいた。


 視界にも、少しずつ光が戻ってきた。

 まずは暗闇が薄まり白くなり、続いて物の形や色が浮かび上がってきた。

 痛みも、どんどん治まってきた。

 風邪をひいた時のような、鈍い痛みがあるだけだ。


 いまのは、なんだったんだ。

 優衣の、身体の問題?

 持病か、なにか?

 そうだとしたら……ほんとに弱過ぎるだろ……この身体。

 まだ若いくせしやがって。

 サッカー代表のくせしやがって。

 貧弱過ぎだ。

 篠原優衣。なんなんだよ。お前は。


 ごろりと仰向けになり、大の字になると、まだ薄ぼんやりとしている青い空を見上げた。

 不意に視力が、幕を開いたかのようにぱあっと完全に回復した。

 ぐるり、チームメイトたちに囲まれていた。


 ゆっくりと、優衣は上体を起こした。


「優衣」


 もとあかねの心配そうな表情が、少しだけ穏やかになった。

 他のみんなも、だいたい茜と同じような表情を見せていた。


 優衣は一呼吸おくと、ゆっくりと口を開いた。


「ごめん、みんな。飛ばし過ぎて、動けなくなっちゃった」


 嘘をついた。

 頭痛のこと、目が見えなくなったこと、みんなには話さなかった。


 この世だか、あの世だか、この身体の外だか内だか、どこかにいるはずの本当の篠原優衣から、黙っていて欲しいといわれたような気がして。


     8

 青葉大学附属病院。

 宮城県仙台市青葉区にある、大きな総合病院だ。


 は、診察室で医師と向き合って座っている。

 よしかわかずひさ先生、眼科の名医とされている初老の医師である。


 優衣の隣では、父のまさあきが一緒に話を聞いている。


 昨日の練習中に、激しい頭痛と視力喪失とに襲われた優衣であるが、それはごく一時的なもので、症状自体はすぐにおさまった。しかし家に帰るなり父に「また発作が起きてしまった」ことを瞬時に見抜かれ、それで翌日の今日、石巻から自動車でここへ連れて来られたというわけである。


 この病院で優衣は二つの、衝撃的な事実を知らされることになった。

 神様の存在を信じられなくなるような、それはあまりに残酷な事実であった。


 一つは、優衣には幼少の頃より視神経に問題があり、いつ失明してもおかしくない状態だということ。現在の医学では治療は期待出来ないということ。


「サッカー、やっても問題ないの?」


 自身の病状を知った瞬間にはさすがに言葉を失ったが、二呼吸ほど置いた後、口から出てきたのはやはりサッカーのことであった。


「少なくとも良い影響などは、あるはずがない。おとなしくしていたって激しく動いていたって、失明するまでの時間はまったく変わらないかも知れないが、常識的に考えればやらないにこしたことはない。でもそもそも、あんたがいい出したことだろう、やらせて欲しいって」


 小二の頃から近所のサッカークラブに通うようになった優衣であるが、それはこの医師に話をして了承を勝ち取ったものであるらしい。

 半年に一回の定期検診と、なにかあればすぐにここへ来ることを条件に。


 吉川先生は診察の度に、まだサッカーを続けるつもりか意思の確認をしているのだが、優衣の返答は一貫して変わっていないとのことだ。


「でもさ、一生そうならないことも、あるんだろ?」

「可能性としては、それはあり得る。そして、発作の起こる間隔がどんどん開いていくのであれば、その確率はより上がると考えていいだろう」


 発作。昨日グラウンドでの練習中に起きた、目が見えなくなり、ぎりぎりと頭になにかを突き刺されるような激痛を感じた、あの症状だ。


 優衣は、これまで起きたその間隔を尋ねてみた。

 医師の説明が全て本当なのであれば、それは未来に絶望しか感じられないような残酷なものであった。


 この病院にかかるきっかけになった初めての発作が出たのが六歳。

 次が十歳。

 十三歳。

 十五歳。

 そしてこの一年の間に、昨日のを含めて二回。


「あんたの視神経をワイヤーロープに例えるなら、ワイヤーロープって知ってる? エレベーターなんかぶら下げている金属のロープ。で、そのワイヤーが完全に錆びている状態なんだよ。それがどうなるのかは神のみぞ知るだが、とにかく切れていない間は、しっかりと重たいエレベーターを支えることも出来る。でも、それがいつブッチリ切れるか分からない。発作は、錆という不純物への身体の拒絶反応だよ。まあ、家の中でじっとおとなしくしていたって、視力を失う可能性は充分にあるんだから、青空の気持ち良さを五感の全てで感じることの出来る今のうちに、その空の下で思い残すことなく存分にサッカーをやるのも悪くないのかも知れないな」


 遠くない未来、篠原優衣の視力が永遠に失われる。

 そう直接的断定的にいわれているわけではないが、しかし、そういわれているのも同然であろう。


 篠原優衣は、自分の身体がそこまで酷い状態であることを知った上で、サッカーをやっていたのだろうか。それとも、まさかここまでとは知らず、いつか治ると希望を持っていたのだろうか。


 この先生のことはよく知らないけれども、期待を持たせるようなことはいわず、なるべく正直に伝えようとする主義のようだ。

 だとすると、優衣は病状を正しく理解していたということか。


 いつ爆発するか分からない爆弾を抱え、爆発したならば、その後は永遠に終わることのない闇。


 それは、想像を絶する恐怖であっただろう。

 自分はまだ、この身体は借り物と思えばこそ、なんとか我慢出来るというものであるが、それでも充分過ぎるほどに闇への恐怖を感じているというのに。


 思わず身震いをせずにいられない事実であったが、しかし、呆然としている暇もなければ、なんの役にも立たない神様に怒っている暇もなかった。眼科を出た後、今度は内科で定期診断を受けたのであるが、ここでもやはり衝撃的な事実を聞かされることになったのである。


 この肉体には、腎臓が一つしかないということを。


 幼少の頃より片方がほとんど機能していないことは分かっていたらしいのだが、それがいつしか肥大化し、体内組織からほとんどぷっつり切り離されて壊死を起こしかけていた。

 小学四年生の頃に学校で、突然の激痛に倒れ、病院に搬送されてそれが判明。そのまま手術を行い、死んだ臓器を摘出したのだ。


 サッカー選手としては異常なほどに体力も筋力もない優衣であるが、もしかしたらこのことが最大の要因なのかも知れない。


 今回の検査の結果、残った腎臓には全く問題は見られないとのことで、とりあえずのところは安心したが、

 しかし……


 ぼろぼろじゃねえか……こいつ。

 なんだってこれで代表なんだよ。


 ……もしも健康な身体であったならば、どれだけの選手になっていたんだろうか。


     9

「MF 背番号七 あきやましげ!」


 DJの低い叫び声が、スタジアム中に轟いた。

 アウェーゴール裏に設置されている大型ビジョンの映像が爆発。そして爆音と共に選手の顔が映った。


「らーらーららららーらら、ららららーらら、ららら、突き破れららら、決めろらららっ、あきやま~しげと!」


 緑色のユニフォームを着たズンダマーレ宮城サポーターたちが大声で歌い、タオルマフラーを振り回している。

 その中には、しのはらの姿もあった。ホームゴール裏で、ほとんど男ばかりがひしめき合う中、やはり緑色のズンダマーレ宮城のユニフォームに身を包み、タオルマフラーを振り回している。


 観戦することが決まった途端、偶然にも自分の部屋からこのレプリカユニフォームが見つかり、早速着てきたというわけだ。

 優衣の所属する女子サッカークラブチームである石巻ベイスパロウは、年に数回、ズンダマーレ宮城のボールパーソンをつとめることがあるので、もしかしたらその際に貰ったものかも知れない。


姉! すんません、遅くなっちゃいました」


 トイレに行っていたしずが、ぎっちり人のひしめき合う中を、両の手それぞれに持っているなにかを守ろうと悪戦苦闘しながら戻ってきた。


「ついでにコーラ買ってきましたよ。どうじょ~」


 静子は右手のコップを差し出した。

 彼女も優衣と同様に、ズンダマーレ宮城のユニフォームを着ている。


「おう、サンキュ。ちょっとは気がきくじゃねえか。でも、お前がズンダを好きだったなんてなあ。驚いたよ」

「はあ? なにをいってんですか。優衣先輩があたしを引っ張り込んだんじゃないですかあ」

「え?」


 どくん。

 胸の中で、なにかが大きく跳ね上がった。

 心臓と、あと、得体の知れない胸の奥のなにかが。


「あたしのユニは貰い物ですけど、優衣先輩のは自前じゃないですか」


 おれが?

 というか、篠原優衣が、

 ズンダマーレを、好きだった……?

 いや別に、好きでおかしいってことはないけど。

 でも……


「ま、あたしもJFL昇格して騒がれていた頃からこのチーム好きでしたけど。兄貴の影響でね。そもそもそれがサッカー本格的に始めたきっかけだし。でもあたし、優衣姉に誘われてからですよ、個人的にこのスタジアムに観戦に来たのなんて」

「へえ」


 優衣はなんだか気のない返事をした。

 腑に落ちなかったのだ。

 優衣がズンダマーレ宮城を好きであるということを。

 それで、静子の言葉がすっかり上の空で耳に入ってきていなかったのだ。

 色々な思考がぐるぐると巡ってしまって。


 篠原優衣という人間は、自分がサッカーをやっていることすらも、自分探しだ、自己成長のためだ、とつべこべ屁理屈を並べないと継続が出来ない、そういう性格であったように思える。

 これまで篠原優衣として生活をし、篠原優衣の部屋に住み、サッカークラブや学校の仲間から過去の篠原優衣がどんなであったかを理解してきたが、度が過ぎるくらいに趣味の痕跡、人間味の痕跡が薄いのである。サッカーをやっていることすら信じられないくらいに。

 そんな篠原優衣が、他に趣味というか(語弊もあるかも知れないがスポーツ観戦はやはり趣味の領域であろう)関心事を持つというのが、なんとも奇妙に感じられたのだ。


 ただ、そうした点ももちろん腑に落ちないことに違いはないのだが、もっと別のなにか、どういう言葉で表せばいいのか分からないが、とにかくもっと別のなにかに、優衣は混乱し、不安を覚えていた。


 納得のいかない、釈然としないもの。

 確証こそはまるでないものの、それは自己の存在に関わる感覚や感情であるような気がした。

 自己といっても、篠原優衣の自己なのか松島裕司の自己なのかすらも分からなかったが。


 ここに、この身体の中に、自分の魂がいることと、そのこととは、なにか、関係があるのだろうか。


 それを知ることで、ごちゃごちゃとした頭の中がすっきりとし、魂が楽になれるような気がする。

 でもそれを知るのが怖い気もした。


「……でね、この前ね、彼氏と一緒に来たときにね、見ちゃいましたよ、あたし」


 隣で、小田静子がなにやら喋っているのに気付いた。

 ちょうど頭が痛くなってきていたところだったので、優衣は小難しいことを考えるのはやめた。


「なにを?」


 尋ねた。


「松島選手の最後のゴールシーン」

「ああ」


 あれか。

 今年の六月二十八日、対オミャンパス岡崎戦。

 同点ゴールを決めた松島裕司が、直後の落雷でころっと死んでしまった試合だ。


「あれはほんとショックだったなあ。あんなゴールシーン、もう未来永劫にないですよね、きっと。……ピッチ上に人がわらわら出てきて。なんだか凄い凄惨な感じになってるのに、あたしの周り、楽しそうに写メぱしゃぱしゃ撮ってて。思わずやめろって怒鳴っちゃいましたよ」

「そうなんだ。ありがとな」

「ん? なんで優衣姉が礼をいう」

「あ、いや、なんとなく。……つうかさあ、おめえ、彼氏いるの? そのサル顔で? いつからだよ? 相手もそんな顔? 人間?」


 自分の死の話題をいつまでも続けられるのも嫌なので、話題をそらした。

 いやいや、こっちも充分に興味のある話だ。


「いちゃ悪いですかあ? 今年に入ってからですよ。相手は、まあ普通の顔、ってあたしだって普通の顔ですよ!」


 鼻の下が長くて少しサルっぽくはあるものの、まあ確かに愛嬌があり可愛らしくもある。好みに思う者も少なくはないかも知れない。


「おお、そうかそうか。普通の顔な。普通のサルのな。それで、お前ら、もうどこまでいったんだ? Aか? Bか? それともCか? こらあ! おっまえらあ、こらあ!」


 他人の恋路を想像してニヤけながら、肘鉄の連打を脇腹に浴びせる優衣。


「いたたたっ! 鈍い音した、骨折れたかも! なんですかAだのBだのって? 意味の分かんないことを」

「お、サルの初Cの話を聞くのはまた今度だ。試合が始まるぞ」


 遥か眼下のピッチ上には、ズンダマーレ宮城とFC彦根の選手が各ポジションに散らばって、キックオフの笛を待っている。

 主審が時計を見、手を上げた。


 笛が鳴った。

 FC彦根ボールで試合開始だ。


 そして、優衣は見た。

 ズンダマーレ宮城の、相変わらずの姿を。


 なかなかボールを奪えない。

 奪ってもパスが繋がらない。

 前線の選手にボールがおさまらない。

 攻撃にも守備にも、連動性が感じられない。

 約束事の不徹底。コンビネーションも、チーム戦術も、成熟味のかけらどころか微かな可能性すらも感じられない。

 まだ松島裕司の穴が埋まっていない(代わって出ているなかけんの能力云々というよりも、全体的な戦術レベルで)。

 一言で片付けるならば、チームになっていない。


 頼りになるのが個人の頑張りだけ。

 でもズンダマーレは代表に選ばれるような優秀な選手のいないチームであり、頑張るということはイコール相手よりとにかく走るということで、当然、相手よりも先にばててくる。

 どんどん攻められ続け、疲れさせられ続けた挙げ句、前半三十分、

 ついに、カウンターから失点。


 焦りが出たのかその直後、綺麗に崩されて追加点を与え、

 そして、外国人選手のドリブル突破を止められずに、PKを与えてさらに失点。


 前半だけで三失点。

 優衣と静子の二人は、この九十分の間に何回ため息をついたことだろう。


     10

 二〇一四年 十月十二日 日曜日

 日本女子サッカーリーグ 第二十節

 やまぐちせい女子大学 対 石巻ベイスパロウ

 会場 山口慈誠寺女子大学キャンパス第二グラウンド(山口県下関市)


 山口慈誠寺女子大学は三年前に一部リーグ昇格を果たした、在学生やOGを中心としたチームだ。

 昇格初年度は得失点差でぎりぎり残留であったが、それ以降は外部からの補強にも積極的で、まだまだ中位以下の実力とはいえ着実に力をつけてきている。


 特徴としては非常に攻撃的であり、故に大勝か大敗が多い。


 ただ本日は現在のところ、内容は別にして実に引き締まったスコアになっていた。

 後半十六分。1‐0でホームの山口慈誠寺女子大学がリードしている状況だ。


 得点者はセンターFWのどうまさ。前半四十分に、SBサイドバツクほそゆうのアーリークロスに飛び込んで頭で合わせたものだ。


 その後、スコアこそ動いてはいないが、山口慈誠寺女子大学がずっとゲームを支配している状態である。


 支配する側の実力もさることながら、支配されている側にこそ問題があるといえた。

 石巻ベイスパロウはこの試合に負けると、他会場での結果によっては初の二部降格が決定してしまう。そのため、冷静にボールを回すことが出来ずにいたのだ。

 一点のビハインドを負ったともなれば、なおさらである。


 山口慈誠寺女子大学の十番、MFふゆもとみちはベイスパロウもとあかねのプレッシングに背後を向いた。だがそれは出しどころに困ってのことではなかった。その瞬間に、彼女はボールをちょんと浮かせると、オーバーヘッド気味に自身の背後、前線へと蹴り込んでいたのである。


 冬本満瑠は背中に目でもあるのか、受け手の感じる能力が素晴らしいのか、いずれにせよ普段の戦術練習のたまものであろう、まるで当たり前の連係であるかのように、走り込んだFWの工藤昌子が足を上げて受けていた。


 やまぐちせいの工藤昌子は、そのままベイスパロウDF間をすり抜けるようにPAペナルテイエリア内に入り込み、GKどうじまひでの動きをよく見ながら利き足と逆である左でシュートを打った。

 過去の偉人の名言である「シュートはゴールへのパス」を実践した、抑えのきいた、上手くコントロールされたボールが飛んだ。


 右足を警戒するあまり、すっかりタイミングをずらされて逆をつかれた堂島秀美であったが、踏ん張って強く地を蹴り横っ飛び、かろうじて指先でボールを弾いた。


 こぼれにづかきやが反応して素早く詰め寄るが、ベイスパロウのCBセンターバツクなかけいがなんとかクリアし、とりあえずの一難を逃れた。


 いまのように、ベイスパロウは冬本満瑠の個人技から再三のチャンスを作り出されてしまっていた。


 冬本満瑠、身長は百四十六センチとまるで小学生のような体格だが、筋肉が実にしなやかで敏捷性があり、そして確固とした足元の技術があり、なによりも視野の広さと即断力とで適確なところへパスを供給する能力に優れている。フィジカルは強くないものの、自分の得意とする能力を存分に発揮してピッチを躍動していた。


 田中圭子がせっかくクリアしたボールであるが、味方の誰も拾うことが出来ず、放り込まれてあっという間にベイスパロウの自陣深くへと戻って来てしまった。


 だがベイスパロウの選手たちは、今度は崩されることのないよう低く設定したラインで(先ほどは、それでも崩されて大ピンチを招いたのであるが)、ボールをしっかりと奪い取り、カウンターを仕掛けた。


 てらなえからの縦へのパスを、しのはらが走り出して受けると、そのままサイドを駆け上がった。


 ベイスパロウは、序盤こそ監督が本来やりたいところであるパスサッカーを展開しようとしていたのだが、想像以上に相手のパス回しが上手であり、何度も何度も掻き回され、崩され、決定機を作られたことによって、前半途中からは引いて守って速攻のカウンター主体の戦術に切り替えていた。

 それでも前半終了間際には失点してしまったのであるが、攻撃的なチーム相手に一失点ならば考えようによっては上等ともいえた。

 これから逆転すればいいのである。

 しかし……


 サイドを駆け上がる優衣に、山口慈誠寺女子大学の七番、木根塚伽羅が迫って来た。

 優衣は動きを止めると、右足の裏でボールを押さえた。

 二人の対峙は一瞬であった。すぐにすっとボールを転がして、抜きにかかった優衣であるが、なんだか気の抜けたような勢いのない動きで、木根塚伽羅に簡単に奪われてしまったのである。


「優衣! アホ!」


 もとあかねの怒声が飛んだ。


「さっきからやる気のないプレーばかりしやがって!」


 そう。後半開始から出場した優衣であるが、彼女は傍目にも迷いの感じられるこのような、酷いプレーばかりを繰り返してしまっていた。


 それは優衣本人も自覚していた。

 相手に激しく当たることに躊躇があるのだ。


 反対に、相手のほうが勢いよく迫ってくると、激しい接触プレーになることを避けようとするあまり、身を危険から守るような消極的な動きになり、結果あっさりとボールを奪われてしまっていた。


     11

 またである。

 なかけいがなんとかボールを奪取し、へと送ったというのに、ろくに抵抗することもなくミスから簡単に敵であるふゆもとみちへ渡してしまった。


「優衣! だからお前はさっきからもう。真面目にやれ! 別にフィジカル勝負を挑まなくてもいいけど、そんな弱腰でサッカーになるかよ!」


 またまたもとあかねの怒声が飛んだ。

 そんな茜の怒声もかわいいもの、と思えるような痛烈な罵声をいつも浴びせまくってくる西にしひさであるが、今日はどうしたことか珍しくおとなしい。


 一体なにがあったというのだろうか。

 おとなしいどころか、なんと怒りに切れる茜をなだめて、優衣へ近付くと、こう助言をしたのである。


「優衣、ちょっとだけ冷静になって以前までの自分のプレー、振り返ってみな。なにが優衣なのか、どんなサッカーが優衣なのか、考えてみて」

「はあ……」


 その態度に、優衣は驚いてしばしぽかんとしていた。


 なにに驚いたかというと、まず、ぶん殴られなかったことに対して。

 そして、それどころか精神面での助言をしてくれたことに対して。

 これまでいつも、ただ罵ってくるだけだったのに。


 おそらくは、優衣がなにかを躊躇いつつプレーしていることに、優衣がなにかデリケートな問題を抱えているであろうことに、気が付いているということなのだろう。

 でも久子のその助言に、優衣の表情はますます厳しいものになった。


 振り返ってみなといわれたって、そもそも以前の優衣の記憶や感覚なんて知らないわけだしなあ……


 久子の後姿を見ながら、ばりばりと髪の毛を掻き回した。

 まあ、ビデオは何回も見ているから、いまさらいわれなくたって篠原優衣がどんな選手であったのかのかなんて、よく分かっていることであるが……

 しかしそれが分かっていようがいまいが、優衣のこのプレーにいささかの変化もなかったであろう。

 そのようになる確固とした理由があるからだ。


 先日、病院で自身の視力がいつ失われてもおかしくないことを知った。そのために優衣は、視神経に悪影響の及ぶことを恐れ、相手に激しく当たることが出来ずにいたのである。


 そのような考えなのであれば、それはそれで、試合に出ることや、クラブに所属すること自体を放棄すれば良いだけなのだが、そうすることも決めかねている。


 とにかく試合に出さえすれば自分の中でなにかが分かるかも知れない、自身の気持ちがはっきりするかも知れない、と、あえて楽観的に構えて試合に臨んだものの、結局、なにも分かりはしなかった。


 しかし優衣が悩もうが悩むまいが、試合は続いている。

 相変わらずの山口慈誠寺女子大学ペースである。


 時の経過とともに、よりいっそう両者の優劣差が明確になってきていた。素人が見てもはっきりそうと分かるほどに、ベイスパロウは押されていた。たかだか一点差であることが神の奇跡といっても過言でないほどに。


 後半に優衣が入ったことと、この劣勢とは関係ないのかも知れないが、ただ、流れを変えるべく投入された彼女がその役割を微塵も果たしていないというのもまた間違いのない事実であった。

 当然だ。

 サッカーをやる上での最低限の接触プレーすらも出来ない、ボールを保持することも奪うことも出来ない、これでは話にならない。


 本人にその自覚はある。

 なにも出来ないでいることへの焦りや苛立ちが、優衣の胸の中でどんどん大きく膨れ上がってきていた。

 だからといって、動くことが出来なかった。

 つまり、全力で激しいプレーをすることが出来なかった。


 そうこうしているうちにまた優衣は、相手のSBサイドバツクであるなかの突破を許してしまった。突破されたというよりは、悠々ドリブルするのをただ見送っただけというほうが正しいかも知れない。


 完全フリーになった中尾夢芽は、前線にいる味方であるどうまさへ悠々とパスを送った。


 工藤昌子もまた、ボールを受けるなりすっとサイドに開いて駆け上がり、溜めを作ると、落ち着いてゴール前へとグラウンダーの速いクロスを入れた。

 決定機に繋がりそうな絶妙なクロスに、ゴール前へと山口慈誠寺女子大学の選手二人が飛び込んだが、しかしそこへボールは届かなかった。


 ベイスパロウのSBぬのようが、全力で軌道上に走り、辛うじてスライディングでカットしたのだ。

 素早く立ち上がるや、こぼれてゴールラインを割りそうなボールに追いついて、向き直って前方へ強く蹴飛ばした。


 山口慈誠寺女子大学は、好機にほとんどの選手が攻め上がり始めて自陣が手薄になっていた。それはそのまま、ベイスパロウの好機になった。


 いつ次回がやって来るか分からない絶好のカウンターチャンスに、ベイスパロウの選手たちは一斉に上がり始めた。


     12

 ぬのようのクリアボールを走り込んで敵陣で拾ったは、そのまま走り続け、右サイドを駆け上がる。


 自陣で相手の出方を見ていた山口慈誠寺女子大学のCBセンターバツクおおやまただが、ゴール前を固めるか否かの決断で否を選択、優衣のほうへと走り出した。


 この時点で、優衣には豊富な選択肢があるはずであった。

 全力で右サイドを上がり続け、えぐるようにしてクロスを上げるか、

 自ら大山忠美と勝負をし、かわして、中央に切り込んでゴール前へパスなり自分でシュートまで持っていくか、

 サイドチェンジをして、左を駆け上がっている西田久子へ任せるか、

 後方から上がってきているてらなえかもとあかねにパスを出すか。


 結局、優衣のとった行動はそのどれでもなく……サッカーにおいては行動と呼べるものですらなかった。「大山忠美と勝負」を選んだかに見えたが、それはただ単に躊躇して、蛇に睨まれたカエルのように動けなかったというだけだった。


 味方選手の駆け戻りやカバーを信じてリスク覚悟で篠原優衣へと走った大山忠美であるが、実に簡単に、そして最高のタイミングでボールを奪うことに成功した。つまり先ほどとは反対に、今度はベイスパロウの選手たちが全体的に攻め上がり過ぎていたのだ。この同点の好機を逃してなるかと。


 もちろんここで上がるのは当然であり、多少のリスク管理の甘さは別として選手たちを責められるものではない。責められるべきは、ぼけっとしていて奪われた優衣の個人的なプレーだけであろう。

 絶好のチャンスであろうとも個人の簡単なミスから絶体絶命のピンチになってしまう。それがサッカーなのである。


 ただ、個人のミスもチームワークで補い合える、それもまたサッカーであった。

 ベイスパロウの選手たちは、前半から走らされて相当に疲労しているというのに、この一走りだけで体力を完全に使い果たしてしまうのではないかというくらいに全力で駆け戻り、相手へと必死に食らいついた。優衣のミスをフォローするために。

 しかし人数が少な過ぎる。根性だけではどうしようもなく、ワンツーパスでどんどん突破されてしまう。


 ベイスパロウの選手たちはまだ一点差であるからこそそこまで頑張れるのかも知れないが、そうだとしても、小振りな胸の中が罪悪感で一杯になっている優衣にとってなんの慰めにもならないことだった。


 山口慈誠寺女子大学の選手たちは、手薄になっているベイスパロウ陣地を、人数をかけてもの凄い速度で突き進んでいく。


 づかきやがボールを受けた瞬間、ベイスパロウのボランチてらなえが、全力疾走からのド根性全開スライディングで身体を投げ出した。PAペナルテイエリア手前五メートル、ファールを取られたとしてもPKにせずに済む。


 しかし、木根塚伽羅には通じなかった。ひょいと跳躍してかわし、着地したかと思うとほとんどその瞬間にシュートを打っていた。

 着地ざまとは思えないほどに腰のしっかり入った、弾丸のようなシュートが打ち出された。


 だがボールは、ほとんどゴールへ飛ぶことなく、ばちんという鈍い音とともに跳ね上がった。

 放たれたその瞬間に、真横から野本茜が飛び込んでブロックをしたのだ。

 至近距離からのシュートが顔面に直撃して意識が遠のきかけたか、ふらり転倒しかける茜であったが、なんとか足を横へと突き出して踏ん張った。


 ボールが自分の真上に跳ね上がっているのに気付いた茜は、そのまま頭で受けようとするが、冬本満瑠に上手く身体を当てられて背中を押され、拾われてしまった。


 あたしよか二十センチ近くもチビに! とでもいいたげな、驚きと悔しさの混じったような表情の茜は、舌打ちすると冬本満瑠の小さな背中を追った。


 冬本満瑠へと、寺田なえが突進するが、冬本は冷静に、くるりと反転してボールキープ。と見せかけて、ヒールで後ろに転がしていた。


 ぴたり背後に密着する寺田なえの股下を、ボールが抜けて転がった。


 工藤昌子がそれを受けると、そのままPA内に切り込み、ベイスパロウCBぼうきぬのスライディングタックルをひらりとかわしてシュートを打った。


 意表を突いたタイミングのシュートは、ベイスパロウGKどうじまひでの咄嗟に伸ばした手をすり抜けた。

 ガン、という音が響いた。クロスバーを直撃したのだ。

 角度のない難しいシュートであるが、あわやゴールというところであった。


 跳ね返りを拾ったのは、ようやく守備に駆け戻ってきた優衣であった。しかし、クリアしようとしたところでキックミス、前へころころ転がしてしまった。

 自ら追い掛けて改めてクリアしようとしたが、その前に木根塚伽羅に肩をぶつけられて、よろめいた一瞬のうちに奪われてしまった。


 そのボールを野本茜がすかさずスライディングで奪い返した。素早く立ち上ると、大きくクリアした。

 茜の鼻からは、つうと血がたれていた。先ほどボールが顔面に直撃した時のものだろう。

 気付いた審判に、止血するよう促され、疲労に肩を大きく上下させながらピッチの外へと出ていった。


     13

 肩を上下させているのはあかねだけではない。ベイスパロウの選手たちは、誰もがすっかり息が上がってしまっていた。


 前半から攻め込まれ続け、ボールを回され続け、走らされて続けていたからだ。


 は、仲間たちのその苦しそうな顔を見ているうちに、自分の頭の中に罪悪感とは別に、なにか不思議な感情が生じてくるのを覚えていた。


 その感情というのがなんなのか自分でも分からないのであるが、はっきりといえるのは、悪い気持ちではないということ。

 その不思議な感情を、理解出来ないままに感覚として受け入れようとしていると、不意に、先ほどの西にしひさの台詞が脳裏に浮かんできた。


 以前のプレー、振り返ってみな。なにが、優衣なのかを。


 ビッ、と電流を浴びたような衝撃を感じていた。


 そうか……

 そういうことだったのか。

 篠原優衣としての細かな記憶があるだのないだの、そんなことはまったく関係ない、考えてみるまでもない、簡単なことだったんだ。

 久子がさっき自分に伝えようとしていたのは、自身の胸の奥にあるサッカーへの思いに気付け、ということだったんだ。


 優衣は、微笑を浮かべていた。

 おかしいからという以外、特に笑っている理由はない。心の底からおかしさが込み上げてきたから、顔の筋肉が勝手に緩んでしまっている。ただそれだけであった。


「ごめんな」


 ぼそ、と小さく口を動かし、謝った。視神経へのダメージを気にして、激しいプレーを躊躇していたことを、どこかにいる篠原優衣へ。


 考えてみるまでもなかったことだというのに。

 だって篠原優衣は、幼少の頃から自分の身体のことを知っていて、それでいて、いや、だからこそ、これまでずっとサッカーをやってきていたんだから。

 ここで手を抜いたプレーなどしていたら、それこそおれがあいつに呪われてしまう。


「うっしゃ! やってやるぜ、こん畜生!」


 優衣は両手を振り上げ、雄叫びを上げた。

 その顔からは、なにか負のものがすっかり抜け落ちていた。

 先ほどまでとは全く違う、すっきりとした笑顔であった。


 すっ、と足の回転を加速させると、ふゆもとみちからづかきやへのパスをインターセプトしていた。


 これまでと違う篠原優衣の動きに意表は突かれたようであるが、しかし山口慈誠寺女子大学の選手たちは落ち着いていた。

 前から冬本満瑠が、後ろからくりりようが、素早く連動して優衣をサイドへと追い込んだ。


 世代別代表だかなんだか知らないが、これまでのプレーを見ていればどう考えてもこの篠原優衣とかいうのは「穴」だ。少しばかり小賢しいプレーを見せようとも、こちらのやることは変わらない。というところであろうか。


 もしもそう思っていたのであれば、彼女たちは次の優衣のプレーに驚きを禁じ得なかったことだろう。

 二人に囲まれた優衣は、少しだけ腰を落として構えると、自ら仕掛けた。ただ仕掛けただけでなく、冬本満瑠を右から抜きにかかると見せて股の下を通して、いとも簡単に抜き去ったのである。


 もう一人の相手、栗田遼子がボールを奪おうとさっと足を突き出したが、その足の甲の上をするするとボールは転がって、気付けば優衣の足元におさまっていた。

 股抜きの際に、激しくスピンをかけていたのだ。


 後ろから冬本満瑠がファール覚悟としか思えない激しいスライディングで突っ込んだが、優衣はボールと自身とをちょんと軽く浮かせて楽々とかわしていた。


 一瞬にして二人を抜き去ったプレーに、観客席からどよめきと歓声が上がり、拍手が起きた。


 誰よりも驚いていたのは、優衣自身であった。

 この身体の中に、これほど素晴らしいセンスとそれを遂行する技術が秘められていたとは。


 だが、いまのプレーなどはまだまだ氷山の一角でしかなかった。

 意識的に「無意識に身を任せて」みると、見る者を魅了する、対戦相手の度胆を抜くようなボール捌きが、後から後から飛び出してきたのである。

 その都度、観客席から拍手が起き、歓声が上がった。


 精神的にふっ切れたことによって、自分のこの精神が、篠原優衣の肉体能力へと回路直結したのかも知れない。


 まつしまゆうはとにかくがむしゃらにスピードでチャレンジするタイプであったため、不意にこの身体から引き出されてきた技術に、戸惑いも大きかった。

 だが、


「すげーな女子代表」


 せっかくだしさ、利用しないとな。そう己の心にいい聞かせて、この素晴らしい技術力を試合の中で楽しもうとしていた。

 ボールを持つたび、果敢にチャレンジし続けた。


 それを実践しているうちに、いつしか試合の雰囲気全体ががらりと変化していることに気が付いた。

 そうさせたのは、優衣の存在、優衣のプレーであった。

 素晴らしい個人技を見せるものの、周囲との連係という面ではさらなる低下を招いているはずであったが、しかし優衣の見せる元気な挑戦心が仲間たちに力を与えていたのである。


 試合は、ベイスパロウのペースになろうとしていた。

 疲労困憊といった状態であるはずなのに、ベイスパロウの選手たちの動きが活性化していた。


 てらなえの見せる執拗なチェイスに、やまぐちせいの栗田遼子はボールを下げざるをえなかった。

 ここで相手のミスが出た。バツクパスが少し弱くなったのだ。


 やまぐちせいCBの大山忠美が前に走りながらボールを受けたが、そこへ優衣が突っ込んでいた。


 優衣は自分より一回り以上も大きい大山忠美に対して、肩をぶつけてボールを奪い取っていた。

 奪い返そうとする足がぬっと伸びてくるが、ちょこんとボールを横に蹴ってかわした。

 完全に、相手守備陣を突破した優衣。

 ゴールへの視界にはもう、GKしかいない。


 一気に行くぞ。

 決めてやる!


「ハイパー究極ゴールドモォーーード!」


 全速ぅ前進! と、すっかりハイになったところ、横からなかのスライディングを受け、ガッと蹴られ、ごろごろ転がった。


 ぐおおおおと叫びながら、優衣は痛そうにすねを押さえて転げ回っている。


 笛が吹かれ、中尾夢芽にイエローカードが出された。

 優衣はなおも苦痛の呻き声を上げて、ばったんばったんのたうちまわっている。


「ったく大袈裟な。すね当てしてんだろ」


 なにもそこまでのアピールをしなくても、と、野本茜が苦笑している。


「つけんの忘れてた……」

「お前なあ……」


 それからさらに三十秒ほども呻き転がり続け、ようやく優衣はゆっくり立ち上がった。

 まだすねがズキズキと痛んでいる。


 ゴール斜め三十メートルからの直接FK、蹴るのはファールを受けた優衣本人だ。

 軽く助走を付け、ゴール前の敵味方密集の中へと蹴り込んだ。

 思わず感覚に任せて蹴ってしまって、ミートの瞬間に果たしてこれで良かったのか疑問が浮かんだが、しかしその直後、これで良いのだという確信を感じていた。篠原優衣としての技術能力だけでなく、感覚までもがどんどん自分のものになってきているということだろう。


 見るからには、とてもそうは思えないようなボールであったが。ふわふわと速度のない、まるでキックミスかと思えるような、異様に山なりの、GKが楽々と落下位置に入って処理出来るような、そんな軌道であったのだから。


 やまぐちせいGKのさくらはるは二歩三歩とファーへ移動し、待ち構えた。百七十五センチと長身のGKである、低く速いボールならばともかく、このような滞空時間の長いボールをキャッチするなど雑作もないことだろう。

 しかしここで、桜井美春の予期せぬことが起きた。篠原優衣の「感覚」からすれば、その通りのボールが上がっただけなのだが。

 ボールが大きくぶれ始めたかと思うと、いきなり速度を失って落下したのである。

 ニアの、かなり手前で。

 結果として、桜井美春はまるで見当違いのところで待ち構えていたのである。


 ニア付近を守っていた大山忠美であるが、それでもやはり慌ててしまい、とにかくクリアをしようときっとボールを見据えたが、その瞬間にはすでに後ろからベイスパロウのFWさねあいつみが飛び込んできていた。そして、頭で合わせていた。

 地面へと叩きつけるような美摘のシュートは、タイミングは完璧で、しっかりと枠を捉えていたが、惜しくもゴールライン上にいた相手選手の足に当たって跳ね返り、別の選手にクリアされてしまった。


 だが、優衣の復調をきっかけとしてペースを掴んだベイスパロウの猛攻はまだまだ終らなかった。

 山口慈誠寺女子のカウンターとなるところを、果敢なスライディングでボールを奪って阻止した寺田なえは、すぐさま優衣へとパスを出した。


 優衣はそれを受けるとボールキープしながら瞬時に状況確認、木根塚伽羅のプレスをひらりとかわしざま、左サイドを駆け上がっていた西田久子へと、大きく蹴った。


 久子は、さらに足の回転を加速させて落下地点へと飛び込むと、トラップをせずにダイレクトにゴール前へと放り込んだ。


 FWのつじうちあきが自慢の俊足を飛ばし、相手DFを置き去りにし、ゴール前へ。


 GKの桜井美春が飛び出してきたが、先にボールに触れたのは秋菜であった。

 背後から頭上を飛び越えて落下してきたボールを、器用にちょんと爪先で蹴り上げた。

 ループシュートだ。

 ボールは桜井美春の頭を越え、伸ばした手をするりと抜けて、大きくバウンドしてゴールネットを揺らした。


 山口慈誠寺女子大学 1-1 石巻ベイスパロウ


 後半三十七分、ついに石巻ベイスパロウは同点に追い付いた。


     14

 あきは両腕でガッツポーズを作り、天へ吠えた。

 しかし感情の爆発もほんの一瞬、すぐに厳しい表情に戻ると、周囲のみんなが駆け寄って抱き着いてこようとするのをかわして、ゴールの中のボールを拾い、センターサークルへと放り投げた。


 そう、まだ逆転したわけではないのだ。

 勝たなければ、他会場の結果次第で降格が決定してしまう。

 点を取ろうにも、残された時間はあと十分もないのだ。


 普段おちゃらけてばかりいる秋菜が見せたその必死さに、仲間たちも気を引き締め厳しい表情に戻った。


 試合再開後も、ベイスパロウの押せ押せムード逆転ムードは続いた。

 山口慈誠寺女子大学の選手たちは、完全に自陣に引きこもって守りを固めていたが、それでも絶対にそれを突き崩してみせるという自信が、ベイスパロウの選手たちの表情には表れていた。


 事実、決定機を何度も作った。

 GKさくらはるのファインセーブに阻まれ、ゴールこそはならなかったが。


 しかし自信が結果に繋がらないのもまたサッカーというスポーツである。

 後半四十三分、ベイスパロウはもとあかねの不用意なパスをカットされて、カウンターから失点してしまった。


 さらに攻勢を続けるものの、そう出来るのは単に相手が前に出ずに引いて守っているからというだけ。

 ベイスパロウのどの選手からも意気消沈とした様子はもう隠しようがなく、長いような短いような時間が流れて二分のアディショナルタイムが過ぎ、そしてついに長い笛の音が鳴った。


     15

 試合終了。

 山口慈誠寺女子大学 2ー1 石巻ベイスパロウ


 地面に崩れるベイスパロウの選手たち。がっくり肩を落とすスタッフたち。

 後半だけを見れば、勝てた試合だったのに。

 残留へと大きな一歩を踏み出せる試合だったのに。

 と、みな悔しそうである。


 負けたため、他会場の結果次第では降格が決定する。

 残留を争うのはACおおかしわレニウスであるが、そこはどうだったのだろうか。試合開始時間が同じであるため、もうじき結果が分かるはずである。


 ベイスパロウの選手たちはキャプテンのもとあかねに叱咤され、よろよろ起き上がると、ピッチ中央で相手の選手たちと握手をかわした。

 そして、ゴール裏で待つサポーターたちのもとへ。

 たったの五人きりであったが、わざわざ山口県まで来てくれたサポーターから、選手たちは激励の言葉を受けた。

 選手たちは、彼らに深く頭を下げた。


 引き上げようとしたところ、やまよしのりフィジカルコーチが慌てた様子で走って来た。

 そして嬉しそうな大声で叫んだ。


「おい! 大津もレニウスも負けたぞ!」


 それを聞いた選手たちの表情に、若干の安堵が浮かんだ。

 しかし、やはりその顔は相変わらず暗く、落ち込んでいた。残留が決まっていないことに変わりはないし、なによりもこの試合に負けたことが悔しくて仕方がないのだろう。


 てらなえが、ずっと鼻をすすった。

 泣いていた。いつの間にか、声を押し殺して。

 すすり切れない分の鼻を、ユニフォームのシャツをたくし上げてごしごしと拭った。


「勝てたよな」


 なかけいも、顔の表情どころか、歩くその姿、その全身に、どうしようもない悔しさを滲ませていた。


「残留、決められたのに……」


 つじうちあきは決めるべきところを何度も外してしまった自分の情けなさに対してか、怒ったような表情で下を向いていた。なお、勝っていたとしてもまだ残留は決まってはいなかったが。


 優衣は歩きながら、仲間たちの顔に、一人一人ゆっくりと目を向けていった。

 負けて熱くなり涙を流す仲間たちに、じんわりと心の奥を刺激されていた。


 いい奴らじゃねえか、こいつら。

 最高の奴らじゃねえか。


「残留、しないとな」


 小さく口を開き、そう呟いていた。


 選手たちは腰を下ろして、思い思いにクールダウンを始めた。


 西にしひさも混じって、とりあえず座ったものの、がっくりと肩を落とし、下を向いて地面を見つめたままであった。クールダウンも大切な仕事だというのに、今日のあまりの悔しさにまるで身が入らないのだろう。


 どんより沈んだその様子を見かねた優衣が、隣にやってきて、座った。

 といっても特になにをするわけでもなく、足を大きく開き、上体を捻りながら前に倒してぐーっと伸ばし、と黙々とストレッチをしているだけであったが。


 久子はちらりと優衣に視線を向けたが、またすぐに下を向いてしまった。

 そのまま黙って芝を見つめていた久子であったが、やがて、


「優衣、ごめん」


 かすかに口を開いて、かろうじて聞こえるような声でそういった。


「なにが?」


 優衣は尋ねた。本当に、なにをいっているのか分からなかったから。


「……なんでもない」


     16

 なんでもなくはなかった。

 ひさは、ずっと以前からという選手の才能、将来性に期待をしていた。でも、せっかくもの凄い能力を持っているくせに、それを台なしにしてしまう気の弱さが腹立たしかった。

 誰より凄い才能をその内に秘めているくせに、自覚を持たないために中途半端な責任感のままサッカーをやっているのが腹立たしかった。


 でも最近、サッカーは少し下手になったけど、凄い気迫でチームの雰囲気も盛り上げてくれている。

 今日などは、かつてのキレも復活して(最初はてんでダメだったが)、試合に負けこそしたが物心両面での大活躍であった。


 優衣の、プラスアルファを得ての復調は嬉しい。

 しかしそうであればこそ久子は、それに応えることの出来なかった自分があまりにも情けなくて、優衣に対して申し訳ない気持ちで一杯になってしまっていたのだ。


 人のことばかり責めて、自分はなんだったんだ、と。


     17

「なんか分かんねえけどさあ、そんな謝られても困っちゃうな。……反対にさ、おれは、ありがとうっていいたいよ、ひさちゃんに」

「なにが?」


 今度は逆に、久子が尋ねた。


「なにが本当のか考えてみな、って。あれで、色々とふっ切れた」

「ああ、そのことか。……こいつサッカーが嫌いになったのかな、ってプレーしてたからね」


 久子のその言葉に、優衣は笑みを浮かべた。

 やっぱり、そういう意味だったんだ。と、一人にまにまとしていた優衣であったが、ふと気が付くと自分以外の全員が、久子に負けず劣らずのどんより顔であった。


「みんなさあ」


 優衣はぐるり首を動かした。


「くよくよしていたって、しょうがねえだろ。今日の試合はもう終わっちまったんだぞ。次、どうするかだろ。じゃ、対策と練習しかないって。やることはっきりしてんだから、いつまでもそんな顔しない! はい、暗い顔は終了!」

「次に負けたら降格なんだよ。勝ったとしたって、おおかしわも勝っちゃったらその時点で終わりだし」


 てらなえは、もう泣いてはいなかったが、すっかり目が腫れぼったく真っ赤になってしまっていた。


「勝ったとしてもなんていわないの! その試合に全力で勝つ。とりあえずさ、それでいいじゃんか」


 優衣は立ち上がり、改めてぐるりみんなの顔を見た。


「うちらは残り二試合を、二回とも勝たないとならない。今度勝っても、最終節の相手は神戸SCだよ。優衣、それを知ってていってんの?」


 ぬのようがちょっとトゲのある口調で、優衣の顔を見上げた。


 神戸SCとは、これまでわずか二敗の現在首位に立っているチームである。日本代表を大勢かかえており、実質なでしこジャパンそのものといっても過言ではなかった。

 まずジャイアントキリングの起こらない現在のなでしこリーグにおいて、どう勝てというのか。

 みなが絶望的な気持ちになること、無理はなかった。


「へえ。なに、その神戸ってとこ強いの? ……って、そんなんどうでもいいんだよ、おれはさ。ただ、おめえらと勝ちてえんだよ! いま、すっげえそう思ってんの! ごちゃごちゃしたことどうでもよくて、おめえらと思い切りサッカーをやって、勝ちたいの! 大津結構、神戸結構! 二戦二勝だ! 勝とうぜ! 絶対に! よーし、山口から宮城までみんなでジョギングだ!」


 優衣は右手を天へ突き上げ、元気よく叫んだ。


 この時、優衣はなんとなく自らの昇天を悟っていた。まつしまゆうの魂の、である。もうじき自分は、この世から消えてなくなるのだろう、と。


 そう思わせたのは、この試合、みんなの真剣な姿、悔しがる泣き顔、そして熱い思い。


 きっと、この肉体で、この人生に、心からの納得がいった時、なにも悔やむことがなくなった時、この魂は昇天するのだろう。


 消えてなくなる。それならそれでいい。

 以前は、そのことにどうしようもない恐怖を覚えたが、現在、心は安らかだった。

 他人の身体を借りたまま、だらだらとこの世にしがみつくよりは、思い残すことなく完全燃焼してやる。


 二勝、してやろうじゃねえか。

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