第五章 二度も殴った!

     1

「うおお……」


 一文字書いて、一マス埋めては、いちいち喉の奥から絞り出すような呻き声を発している。

 冷房が好きではないからというのもあるにせよ、おびただしい量の汗が額からどくどくと、拭ってはたれ拭ってはたれ。


 遠くに聞こえる蝉のしょわしょわ声が、感じる暑さにより拍車をかける。


 しのはらは現在、自宅の自室にて、学校の夏休み課題をやっているところである。


 その課題を最初に貰った時には、こんなややこしいものが出来るかと、ろくに開いてみもせずに破り捨てたくなったが、いざペンを手に取り頑張ってみれば、この脳の出来のおかげなのか意外にも問題が解けることが分かった。

 どうもこの脳には元々、相当量の知識が詰まっており、なおかつ回転速度も優れているようで、文武のうちの文に関しては、頑張ってみさえすればなにをやってもそこそこのことは出来るようであった。


 実は夏休みに入るよりも前から、この頭の優秀さには、気が付いていた。年上としてのプライドもあり見て見ぬふりをしていたのだが、たっぷり課題を出されてしまったからには、背に腹は変えられなかった。


 とはいうものの、こうして机に向かう行為そのものが、まつしまゆうの性格上、辛い……


 学校にいるのであるならば、もとから机に縛り付けられているため、まだ我慢も出来ようが、いつでも遊べる自由な状態にありながら自らを押さえ付けて黙々と勉強をするなどということは、松島裕司としてはもう限りなく拷問に近いものであった。


 暑さに、そうした精神疲労が加わって、だらだらと、どくどくと、全身の汗腺という汗腺から脂汗が吹き出てくる。

 額の汗はタオルで拭えばいいが、身体の汗はどうしようもなく、せっかくさっきシャワーを浴びたばかりだというのに、もう服もパンツもぐしょぐしょであった。


 十数年ぶりに経験することになった夏休み、どうせならプロ選手とはまた異なる高校生ならではのサッカー三昧生活を送りたかったが、それはもう諦めた。

 高校生ならではの有意義な夏休み体験、というだけならば工夫次第で可能だろうが、サッカー三昧なんぞは到底無理だ。

 落第しない程度には、勉強をしておいてあげないとならないからだ。


 この脳が優秀なことは分かったが、とはいえ勉強しなければ授業について行かれず、成績が下がってしまう。


 成績優秀になどならなくてもいいと思うが、せめて赤点はなかろうと安心出来るレベルにまでは達しておかないと、それこそ自分の首をしめることになって、サッカーどころではなくなってしまうから。


 だから最低限の勉強をしておきたいのに、そしてそれを楽々こなすだけの能力がこの頭にはあるはずであるというのに、机に向かうことや教科書を開くことへの拒絶感をどうにも自己処理出来ず、こうしてペンを握り締めては呻き声を発しているというわけであった。


「つうかよ、なんでおれが、こんな苦労をしなきゃあならないんだか。頑張ってるおれに、感謝しろよな、お前、篠原優衣。……しっかし今日も暑いな、畜生。拭いてもキリがねえ」


 また、額からつっとたれてきた汗をタオルで拭った。


「鼻水ってのはさあ、ずずずっと勢いよくすすって引っ込めたり出来るのに、どうして汗ってすすれないんだろうなあ」


 などと一人きりの部屋で、窓の向こう一面に広がる夏の青い稲穂を見ながら、実に下らないことを呟く松島裕司イン篠原優衣であった。


「でもあれだよな、だいたいお前、確かさあ、死んでも別に構わないなんて思っていたんだろ。じゃあ、別に勉強やんなくても問題ないよな? 少なくとも、おれがこうして夏休みにまで頑張る必要ないよな?」


 篠原優衣がここにいるのか分からないが、とにかくそう語り掛けてみた。


 わざわざ自殺などしようとは思わないが、今日死ぬ運命だというのなら、それはそれで構わない。……これは以前、優衣の記憶の断片が頭になだれ込んできた時に感じた思いである。


 篠原優衣への問い掛けが自問なのか、それとも他者への問いなのか、それは分からないが、どちらにせよ同じことであった。どこからも、答えなどなかったのだから。


 さわさわと稲穂の揺れる音に、青臭いにおいが風に溶けて部屋の中をくるくるとめぐっている。

 ゆで上がるような暑ささえなければ、風流であったかも知れない。


 と、そのような中で、優衣は、長いため息をついた。

 上唇と鼻の間に、シャープペンを挟み、背もたれに体重を預け、頭の後ろで手を組んだ。

 そのまま顔の上でシャープペンをくるりと回そうなどと、無謀極まりない挑戦をし、やはりお腹の上に落としてしまった。


「分かったよ分かったよ、やるよ勉強。畜生」


 改めて、課題の用紙に向き直った。


 しかし、シャープペンを握るのが辛い。

 早く、この机から離れたい。

 ボール、蹴りてえなあ、くそ。

 今日のノルマまで、あと十問か。

 根性だ根性。耐えろ。

 どんどんどどどん、まつしまっオレッ!


 優衣は、ノートや課題用紙をびりびりに破いてしまいたい衝動にかられるのをぐっとこらえ、ガマのごとき脂汗を体内からじわりじわり染み出させながら一問、また一問と解いていった。


 それにしても汚い字である。

 篠原優衣の身体には、綺麗な文字を書く技術というかなんというかがしっかり染み付いているはずなのに、一体どういう法則で松島裕司時代と同様の酷い字になってしまうのであろうか。

 書道家などからすれば、文字は魂ということで理にかなっていることなのかも知れないが。


 さて、それから約二時間が経過し、それに伴う量の脂汗を流し、ついに今日のノルマは達成されたのであった。

 汗だけで一キロくらい痩せたかも知れない。


「終ったああああ! うおお、やったぜベイビー!」


 優衣は昭和に流行った恐ろしく古い台詞を叫ぶなり、机をばあんと叩いて立ち上がった。

 ベッドの上に置いてあったタオルマフラーを取り、ぶんぶん激しく振り回す。


「イエエエエ! セクシャルバイオレーット!」


 狂喜乱舞。

 アイラブアイラブいいながら、ゴーゴーのような踊りを始めた。


 全開になっている部屋のドアの向こうに、父であるしのはらまさあきがぽつんと立っていた。


 いつからいたのか。

 我ながら恐ろしくアホなところを見られてしまい、さすがにこればかりは優衣も凍り付いてしまい言葉が出なかった。


「すまんな……優衣。父さんが、ふがいないばかりに」


 ぼそり、と正昭は小さく口を開いて、なんとも悲しげな重みのある言葉を吐き出した。

 感情を押さえ付けるような育て方をしてしまったがために、このような二面性を持たせてしまって。と、そんな自責の念に、彼はかられたのであろうか、

 申し訳なさそうな顔で滲む涙がこぼれるのをぐっとこらえ、夕陽に向かって走り出した、ではなく単に階段を下りていった。


「あ、あの、お父様、ちょっと、違うんですのよ。……おいこら待てや!」


 なにが違うのか分からないけど、とりあえずそう手を伸ばす優衣の虚しい姿であった。


     2

「ジャコビニ流星キック!」


 は走り込みながら、ジャンピングボレー。

 飛び込むタイミングは完璧であったが、ミートに失敗、思い切り打ち上げてしまった。


 ボールはクロスバーを遥か越え、ゴールの後ろにある高さ十メートルのフェンスすらも飛び越えて川に落ち、桃太郎入りの桃よろしくどんぶらどんぶら流れていった。


「優衣、お前これで何個目だ!」


 ささもと監督が両手を振り上げて怒鳴っている。


「だってここ、フェンスが低いんだもおん」

「うっせえ。いいわけすんな! 元気のあるプレーなのはいいけど、もうちょっと考えろやバカ。次から弁償させっぞ」


 ここは石巻いしのまきランド。女子のサッカークラブチーム、石巻ベイスパロウの練習場である。


 コート半分を使ってのミニゲーム中、CKコーナーキツクてらなえの上げたボールを、つじうちあきぼうきぬが競り合い、こぼれ球に反応した優衣が飛び込んでボレーシュートを打ち上げて川に落としてしまった、というわけだ。


 みな、ぞろぞろとゴール前から自分のポジションへと戻る。


 優衣と、さねあいつみとが、なにか話をしている。

 なにを話しているのだろうか、ちょっとその声にマイクを寄せてみよう。


「……んでさあ、さっきみたいな球が来たら、おれが飛び込む振りして囮になるからさあ、ミッちゃん、そっちから尻突き出して、こう叫んでさ、にんにん、ふんどしカッパ君だおならぷううう~って、風で押し戻してギネス認定おならゴールだ!」


 ……マイクを向けるのも労力の無駄と思えるような、どうしようもないことを話していた。


 優衣は自分のアイディアに受けたか、ガニ股でのっしのっし歩きながらガハハと下品に笑った。


 ふんどしカッパ君は最近この石巻に生まれた、俗にいうゆるキャラである。何故なのかは不明だが漁業組合がこのキャラを売り出したいと考えているようで、ベイスパロウも先日、依頼を受けてタイアップ企画をおこなったばかりだ。ふんどしカッパ君とPK対決など。


「やだよそんなの、みっともない」


 美摘は、ぼそりとした口調ながらも、きっぱり拒絶の意思を主張すると、ちょっと歩幅を大きくして先に行ってしまった。


「なんだよ、暗いやっちゃなあ。大ウケ間違いないのに。上手くいけば、相手の自殺点だって誘えるのに」

「お前のほうが、遥かに暗かっただろが」


 いつの間にか真横を歩いていたつじうちあきが、優衣の脇腹を人差し指でつんつんとつついた。


「やめろやこら、そこ弱いんだよこの身体! ……こいつ、じゃなくておれって、そんなに暗かったの? まあ、決して明るくはないんだろうな、とは思っていたけど」

「うん。笑ったところなんて一度も見たことない。それがこうも下品な笑い方をする奴だったとは思いもしなかった」

「でもさあ、そういうところが、可愛いかったなあ。アッキーさんがなんかエッチなネタいうと、すぐに顔を真っ赤にしてうつむいちゃったり」


 すぐ前を歩いていたてらなえが振り返って、話に加わってきた。


「更衣室で、アッキーが裸で追っ掛けようとしたら、大慌てで必死な顔で逃げちゃったしね。……アッキー、追い掛けるのに夢中になって、裸で外に出ているのにしばらく気が付かないんだもん、ほんとアッホだよねえ」


 と、次いでせんチカが参戦。


「アッキーさんが罰ゲームでギャグ百連発やれって脅したら、無理ですって涙目になってたし。可哀想だったよな。優衣の泣き出しそうなのを見て、アッキーさん手を叩いて大喜び。鬼だよ。ほんとアッキーさんて人の心がないよね」


 もとハルが回想する。優衣に同情しながらも、ちょっと楽しそうでもある。


「うん、あったねえ、そんなこと。って、優衣の話から、あたしの話になってる! なんだよ、なんでもかんでもあたしのせいかよ! 優衣をいじってんのって、あたしだけじゃないだろ!」


 納得いかずむくれ顔の秋菜。なら優衣をいじめなければ良いだけの話なのだが。


「いやあ、あそこまで優衣をいじるのは、アッキーしかいないよお」


 と、脇で聞いていたぬまたえが横槍。


「んなこたない。キューの奴がいるじゃんかよ。あたしの比じゃないぞ、あれは」


 キューとは、西にしひさのあだ名である。久子の久でキューだ。といっても、そう呼ぶのは秋菜とどうじまひでくらいであるが。


「久子のは、いじるというのとは、ちょっと違うかなあ」

「なに可愛いらしく首を傾げてんだよ、主婦のくせに」


 秋菜はぶすっとした口調で、妙子の首をしめるように両手を回すと、突然こちょこちょくすぐり始めた。

 なにかとボディタッチの好きな秋菜。もう不満などどこ吹く風で、もだえる妙子を見てもう不満などどこへやら、満面の笑顔になっていた。


「ほらみんな、続けるよ! 練習時間限られてんだから!」


 噂をすれば、西田久子の登場だ。

 彼女に追い払われるように、みんなきびきびと自分のポジションに戻って行った。

 ミニゲーム再開である。


 だが、それから間もなく、

 優衣は早速にしてというべきか、先ほど秋菜たちが話をしていた通り久子にいじられ、いや、怒りの電撃を落とされていた。


「だからボケッとするな! その位置でボール受けたら、後ろに敵がいるの当たり前だろ。なんで同じミスを何度もするんだよ。ミスがとうこうというより、サッカーの基本だろ!」


 通産、何度目の落雷であろうか。


「はいはいはいはい、以後気をつけまーす」


 優衣は、自分の腕を見て、足を見て、ユニフォームをたくしあげてお腹を見た。そして、頭をなでた。

 自分の身体のどこを見ても、避雷針などついていない。


 なのに、なんでこっちにばかり落ちてくるんだよ。

 ほんとうるっせえや、クソ女が。

 いつもイライラしてばかりいやがって。なにが楽しくて生きてるんだ。更年期障害か、てめえは。


 優衣は飄々とした態度を保ってはいたものの、切れかかる気持ちを押さえるのに精一杯であった。もしかしたら顔の筋肉がピクリピクリと痙攣くらいはしているかも知れない。


 まつしまゆうは前方だけを、ゴールだけを見ていたから、そんな周囲ばかり注意する習慣なんかねえんだよ。

 二十九になって、そう簡単に変えられるかっての。って、この身体は十六らしいけど、そんなん知るかよ。


 久子が後ろを向いた途端、優衣は顔面筋肉制御装置を解除し、憤怒の形相で、その背中を睨み付けると、続いてた子供の喧嘩のような、イーーーーッだやベロベロバアをした。

 などとやっていると突然、気付いた久子に振り返られ、ぎろり睨まれて、走って逃げてしまった。


「うわー、こっわー、久子こっわー」


 ピッチの外ではささもと監督が、熊のようなごっつい手を口の中に突っ込んでガタガタブルブル震えている。


「いやあほんとに、優衣に関しては、監督もコーチも必要ないかもね」


 えのきコーチ。彼女もユースの子たちからは鬼軍曹などと呼ばれる存在であるが、


「あの子らがいまの久子を見たら、きっとあたしのあだ名も変わるね。布袋様とか、エビス様とか」


 さて、ミニゲームである。

 野本茜がぬのようから強引にボールを奪って駆け上がり、沼尾妙子へと長いパスを送った。

 通ればゴールへと一気に迫る絶好のチャンスであったが、しかし野本ハルの伸ばした足に引っ掛けてしまった。


 足元におさめた野本ハルが出しどころを探す一瞬のうちに、すかさずなかけいがプレッシャーをかけていた。


 ハルはかわそうとして、かわしそこない、二人の身体はぶつかり合った。揉まれたボールは軽く跳ね返って、地へ落ちた。


 圭子のフォローに近寄ってきていた優衣が、そのボールを拾い、まだよろけている二人の脇を抜けた。


 だが、ハーフコートの狭いピッチのゲームだけに、すぐ別の選手が迫ってきた。仙田チカである。ばたばたと、わざとらしいほどに大きな足音を立てながら、華奢に見える身体を優衣へと突っ込ませた。


 優衣はその場に静止すると、ボールを足の裏で踏み付ける。チカも止まり、二人はボール二個ほどの距離を置いて向かい合った。

 ここを突破すれば得点を奪うチャンスだ。優衣は、チカの動きを読もうと意識を集中し感覚を研ぎ澄ませた。

 だが、そうして読み取ったその表情の、わずかな変化から分かったことは……


 チカに、してやられた、

 ということだけあった。


 チカの大袈裟な動きに気を取られるあまり、後ろからぼうきぬが迫っていることに気が付かなかった。つまりは、チカの陽動作戦に引っ掛かってしまったのだ。


 気が付いた時には既に遅かった。

 後ろから身体を入れられて、なんの抵抗も出来ないままに簡単にボールを奪われてしまっていた。


 ミスを取り戻そうと優衣は、つい反射的に腕を伸ばしていた。谷保絹江の腕を掴んで、引っ張っていた。

 踏ん張る絹江に、反対に優衣のほうが引き寄せられて、二人はもつれ合うように倒れた。


 その際、右足首を捻ってしまったようで、びきっと走る電撃に優衣は悲鳴を上げた。

 転げながら足首を押さえていると、


「優衣! 優衣! 大丈夫か?」


 向こうサイドにいた西田久子が、叫びながら大慌てで駆け寄ってきた。


「大丈夫。なんとも、ない」


 優衣はゆっくり立ち上がると、とんとん、と軽く地面を蹴って見せた。


 無事そうなのを確認すると、久子は俯きがちに小さくため息をついた。

 そして改めて優衣の顔を見ると、その表情を変化させた。いつも見慣れている、あの睨み付けるような表情に。

 優衣の胸を、どんと激しく押した。


「集中力が足りないんだよ、お前は! だからそうやって危ないプレーになる。どうしてもっと真剣にやらない? 怪我したらどうすんだよ! チームに所属してるってことは、自分だけの身体じゃないんだ。もし怪我をしたら、どれだけチームに迷惑かけることになるか分かっているのか? 仕方のない怪我と、そうじゃないのがあるんだよ。そうじゃない怪我ってのは、下手をすると自分自身いつまでもずっと悔やむことになるんだよ! トップの選手だったら、最低限それくらいの自覚持って、しっかりやれ!」

「やってんだろが!」


 優衣は、怒鳴り返していた。


「いちいちうるせえんだよ、てめえ! 毎度飽きずに小言ばっかりぐちぐちぐちぐち、鬱憤でもたまってんのか。おおかた彼氏にでも振られたんだろ、そりゃあそんな性格してりゃあどんな男だって逃げるよな」


 ついに忍耐の緒が切れて、爆発してしまったようであった。


 その勢いに反比例するように、久子は急速に大人しくなってしまっていた。

 先ほどまでとは明らかに違う表情、明らかな動揺が見えた。

 口をわずかに開け閉めして、必死に言葉を探しているが、何もでてこないようであった。


「一度だっていたことない。優衣、知ってんでしょ」


 普段の彼女を知る者からすれば、この台詞によって、彼女がいかに狼狽しているか分かるであろう。

 恋愛話などくだらない、と一蹴するのが西田久子なのだから。


「はあ、そら賢明だね、誰とも付き合わないってのは。相手が可哀相だもんなあ。奇跡が起きて付き合うことが出来たとしても、即座に振られて、ギネスブック更新するだけじゃねえの? 二秒、とかさあ」


 なおも優衣の追撃は止まらない。


「優衣!」


 怒気をたっぷり含んだ声を背中に受けた優衣は、


「なんだよ!」


 面倒臭そうに振り向いた。

 その瞬間、左の頬を張られていた。

 びつっ、と肉より骨に響きそうな、低く鈍い、かなり痛そうな音が上がった。


 野本茜であった。

 優衣は睨み付ける。 


「なにすんだよ、こんなイビリ大好き根暗くそ女、ガツンといってやんなきゃ性格直んねえんだよ。だいたいこいつ、いっつもさ……」


 最後までいい終わらないうち、また鈍い音。今度は、茜の正拳突きが、優衣の顔面をぶち抜いたのだ。

 優衣は後ろへ吹っ飛ばされて、丸まったダンゴ虫のようにごろんごろんと地面を転がった。


「二度も殴った!」


 優衣は痛そうに、見事にころりん転がったことを恥ずかしそうに、殴られた頬を押さえながら立ち上がった。


「殴られるようなこというからだ。それ以上続けるなら、何度だって殴ってやるよ。優衣、お前さ、自分がなにをいったのか分かってんのか? 久子がお前を可愛いと思っていること、知らないはずないだろ!」

「知らねえよ。だいたい、あの態度、どこをどう考えたって可愛いだなんて思ってるわけねえだろ。もし本当にそう思われてるってんなら、それこそ気持ちが悪いっつーの」


 そう吐き捨てると、優衣は地面を激しく踏みつけた。


 黙ってその言葉を聞いていた久子の表情に、また、変化が起きていた。といっても、ほんのわずか目を見開いて、ほんのわずか口元を引きつらせた程度ではあるが、それでもそれは、以前から久子を知っている者たちに緊迫感をもたらすに充分なものであった。


 よく見ると、久子の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


 優衣もそれに気が付いたが、弱いものいじめばかりしてるくせにちょっと反撃されただけで泣き出しそうだよ、という程度にしか思わなかった。


「どうでもいいから、はやく練習を続けるよ!」


 くるりと背中を向けた久子は、歩き出すと同時にお腹の空気を絞り出すような大きな叫び声を上げた。


「なんだよあいつ。彼氏いたことないのばらされて、恥ずかしかったのかな?」


 ぼそり呟く優衣。


「お前は、まだそういうこというか」


 茜は、優衣に向けて右拳を振り上げた。


「そんな優衣だったら、いますぐ元に戻れ。この優衣も悪くないかな、って思ってきてたけど、全然よくない」

「うるせえな。おれだって、好きでこんなんやってんじゃねえんだよ」


 優衣はそういうと、小さく舌打ちをしていた。

 イライラしながら、久子の背中を目で追った。

 その背中が小さく見えるのは、距離が遠くなっているのだから当然のことではあるが、果たしてそれだけだろうか。


 って、なんでそんなこと思っちゃってんだよ。

 どうでもいいだろ、あんな女。


 優衣は、なんだか分からない名状しがたきモヤモヤを自分の中に感じて、無意識のうちにそっと胸に手を当てていた。

 指で全部ほじくり出してしまいたいくらいに不快な気分がぎっちり詰まっているのは感じるのだけど、胸の奥のことなので、どうしようもなかった。


 感じていたモヤモヤの正体は、すぐに分かった。

 それは一般に、罪悪感と呼ばれているものであった。

 何故だかは分からないが優衣は、いつの間にか自分の胸中に、理屈で説明しようのない罪悪感を胸一杯に抱えていたのだ。


 でも、何故。

 クソ女をいい負かしてやって、便秘ウンコがぜーんぶ出ターみたいなスカッと晴れやか爽快な気分になってなきゃならないはずのに、なんだって、こんなどうしようもない嫌な気持ちにならなきゃいけねえんだよ。

 面白くねえ……

 ほんと、面白くねえ。


「ああもう、畜生!」


 優衣は地面を蹴りつけた。

 爪先に激痛が走っただけであった。


     3

「おっそいねえ」


 ふもとは、時計台の大時計を見上げ、視線を落とし自分の腕時計にも目を向けた。二千円の安腕時計だけど、時間は狂っていない。それも当然、さっき出掛ける前に家で合わせたばかりだ。


「そうだね。って、いままでが早過ぎたんだよ」


 隣に立っているのはすげよう


 二人は石巻いしのまきせい女学院高等部に通う二年生。同じクラスの友達同士である。


 去年完成したばかりの、地元の若い子のランドマークである天使の時計台の前に立って、もう一人の友人であるしのはらが来るのを待っているところだ。


 絵美は遅いといったが、待ち合わせ時間はまだ過ぎていない。五分前である。

 ただし、いつもの優衣ならば十五分前には到着している。


 優衣を待つ二人であるが、こうして並んでいると、実に見た目が対極的である。


 小菅洋子は身長が高く、服の上からでも分かるくらいにガリガリに痩せており、顔もちょっぴり面長、まさに「ひょろっ」という修飾語が相応しい、そんな体型をしている。落ち着いた、大人びた印象を見る者に与える。


 対して麓絵美は、ずんぐりむっくり。顔は丸くて、鼻もだんごのよう。押し潰したかのように、背が低くて横に広い。顔の作りの九十パーセントが愛嬌で出来ているような感じであり、これはこれで魅力的でもあった。


 この二人が友人関係になったのは、高校生になってから。篠原優衣という共通の友人がいたことがきっかけだ。


 洋子は、優衣とは中二からの仲。


 絵美は、小二からの仲だ。

 最初に絵美と優衣とが知り合ったのは、地元の少年サッカークラブ。お互い、同い年というくらいしか相手を知らなかったが、打ち解けていくうちに同じ小学校に通っていることが分かり、一緒に通学する仲に発展したのだ。


 優衣が小五の夏に石巻ベイスパロウユースのセレクションを受けて合格したことは既に説明済みだが、そのセレクション、絵美も一緒に受けている。結果は見事落選。彼女はそれきり、すっぱりとサッカーをやめた。

 もともとが太りやすい体質であったため、あれよあれよという間にふくよかというか、肥満一歩手前といった体型にまで膨れてしまい、そのまま現在に至る。


 まだ揃ってはいないが、とにかく今日こうして三人で集まることになったのは、洋子の提案である。

 これといった理由はない。強いて名目をあげるのならば、彼氏絶対出来なさそう同盟(命名者 麓絵美)が、最近あまりみんなで揃ってお出かけすることがなかったので、だからたまには、というくらいのものか。


「今日は、服でも見てやっかな」


 絵美は腕を組み、楽しそうな表情を浮かべた。頭の中で優衣を色々とコーディネートしているのだ。


「あ、ダメだわあたし、センスない」


 絵美は恥ずかしそうに、空中に浮かんだ映像を、手の消しゴムをさっさっと動かして消し去った。


「優衣のこと? そういえば、なんだか最近ジャージばかりだよねえ」


 洋子は、のんびりした口調で応えた。


「そうそう、そうなんだよ。まあさすがに、こういう場所へ来るのにそれはないだろうけれ……」


 前方を見つめる絵美の目が、というかもう全身が、氷点下の突風を受けてカチコチに凍り付いていた。


「うおっす! ごめんな! 遅れた!」


 てとてとと、手を振り走ってくるのは篠原優衣であった。


「いや、二分前だから、いいんだけど。それより優衣、そのかっこ」


 絵美は、優衣を指さした。

 学校のジャージのズボンと、白いTシャツという姿。しかもジャージは、裾を膝までまくり上げている。


「いやあ、なんかシャレたもん着ようとは思ったんだけどねえ、なあにを着ていいのかさっぱり分からなくってよ。それでちょっと遅くなっちまった」


 優衣は頭をかいた。

 はは、と引きつった笑顔を作る絵美。


 そうだよなあ、当然予期すべきことだったよなあ。

 いまの優衣ならさあ。


 絵美は表情をリセットし、改めて自然な笑顔を作り直すと、


「そんじゃあさあ、どんなの着りゃあいいのか選んでやるよ。……洋子が」


 絵美は悪戯っぽい表情を浮かべた。


「えー!」


 洋子と優衣が、同時に不満そうな声を上げた。


「いいよ、おれ別にジャージでも。面倒臭え。ジャージ最高!」

「あたしのセンスなんか、当てになんないよ。絵美が選びなよ」

「これより当てになんないセンスなんかないだろ」


 絵美は自分の服を、両手で軽く引っ張ってみせた。

 ぶかぶかデニムのズボンは裾まくり、チェックのシャツも袖まくり。首にはベージュのスカーフをまいており、まるで中年主婦の夏場の登山といった格好だ。

 絵美の場合はセンス云々というより、自分の体型を考えると自然とこのようになってしまうという話なのだが、センスに自信がないのもまた事実であった。


「だから、洋子、お願い!」

「しょうがないなあ」

「やった!」


 絵美と洋子の二人は、優衣へと視線を向けた。

 特に洋子は、上から下までじっくりその全身を。もう頭の中では、優衣に似合う服装を考えているようである。


「なんだか、嫌な予感が……」


 さっと踵を返す優衣であるが、


「逃さないよお」


 絵美に、がっしと腕を掴まれていた。


 離せ嫌だ離せと暴れる優衣を絵美は怪力でぐいぐい引っ張って、三人はショッピングモールのファッションコーナーへゴー!


     4

「ねえ、もう着たあ? 開けちゃうよお? それでは、オープーーン! ジャカジャーン!」


 ふもとは、なんとも浮き浮き楽しそうな声でカーテンを開いた。


 試着室の中に立つ、しのはらの全身があらわになった。

 赤白横縞のノースリーブのシャツに、ところどころメッシュになっている薄地のジャケット。白のミニスカートが、白く細い優衣の脚によく似合っている。


「おおー」


 絵美は、優衣のルックスとすげようのセンスとどちらに向けてのものかは分からないがとにかく感嘆の声を上げて拍手をした。


 優衣はちょっと顔を赤らめながら、唇を尖んがらせた不満顔で自分の服装を見下ろしている。


「ったく、なんだよ、これは。恥っずかしいなあ」


 柄もそうだが、特にスカートの短さが。あまりにも短すぎて、なんにも履いてないみたいだ。

 鏡を見たところ、下着が出てしまっていることもないようだが、肌に受ける感覚としては下着姿でいるのとまったく変わらない。


 学校や、アルバイト先の制服で、少しはスカートという女子特有のヘンテコな服装に慣れたつもりであったが、まだまだ甘かったようだ。


「ほうら、自然と脚が閉じるでしょ」


 自分の見立てがまんざら悪くないことか、そうした相乗効果を発見したことにか、洋子は満足げに目を細めた。


「あ、あ、ほんとだ。こんな短いのに、普段の制服のスカートなんかよりも、かえって上品に見える。優衣はガバッと開いているからな、最近いつも」


 絵美はうんうんと、感慨深げに頷いている。

 閉じてる閉じてる、などと二人の楽しげな様子に、自分が確かに無意識のうちにぴたりと足を閉じていることに気が付いた優衣であるが、


「いいや! 全然閉じないね!」


 意地になって、ばっかりと膝を開いて見せた。中が見えてしまいそうなくらいに。

 向こうにいる女性客がびっくりして息を飲み、顔を背けた。


「またまたあ、優衣ったらムキになっちゃってえ。実はまんざらでもないんじゃないのお? とても上品に見えるよお。ね、洋子、もっとミニの、すっごいすっっごいミニの探そうよ。もっともっとお上品になるかなあ」


 一体なにを想像しているのか、絵美は実に楽しげな笑みを浮かべていた。


「なるわけねえだろ! 変態だろうがそりゃあ! 冗談じゃねえぞこら!」


 優衣は振り返り、改めて鏡に映る自分の服装を確認した。


「これだって、相当だぞ。逮捕されるかどうかってくらいの。お縄くらったら、一生出らんねえぞ、きっと。網走行きだぞ。黄色いハンカチじゃねえんだぞ」


 などといっているうちに、なんだかこんな服装の自分が気持ち悪くて手足にぶつぶつと鳥肌が立ってきた。


「ズボンはねえのかよズボンは! つうかもういいよ、服なんか買わなくても。ジャージだよ、やっぱり男は、うん。っておい、やめろよ、絵美ちゃんやめろや、絵美てめえ!」


 絵美が、洋子が選んだばかりの、もっともっと短い丈のスカートを手に、優衣のいる更衣室の中に入り込んできたのだ。

 優衣は必死に侵入者を撃退しようとするが、腕力が小学生並みなのに加えて対する絵美が非常な怪力で、防御網はコンマ五秒も保たなかった。


 完全に入り込んだ絵美はむふふうと鼻息荒く笑うと、勢いよくカーテンを閉めた。

 数秒後、優衣の絶叫がフロア全体に響き渡った。


     5

「もう二度と来ねえや、こんなとこ」


 モールの角にあるファーストフード店セカンドキッチン、その中の一番通路寄りの席で、は頬杖と悪態とをついている。


 ガラス一枚向こうにいる、通路を歩いている客たちが、睨みつけられていると思ってか優衣の視線を避けるように通り過ぎていく。


 自分でそう仕向けておきながら、そんな人たちの反応も腹立たしいのか、優衣は舌打ちした。


 ほとんど水のような粘度のない鼻水が、片方の鼻からたれそうになり、ずずっ、とすすった。

 手のひらで鼻をぐちゅぐちゅ掻き回すようにこすったかと思うと、テーブルの上に設置されている紙ナプキンを一枚取って、ごわごわがさがさしているのも構わず鼻に当ててチーンと一発。


 洋服売り場での人体実験も終了して元のジャージ姿に戻った優衣は、椅子の上で思う存分に大股を広げてあぐらをかいて座っている。

 しかしのびのびした服装には戻れたものの、心は相変わらず雨が降り出しそうなほどにどんよりとしていた。


「ごめんごめん。でもあんな大声で泣きわめいて暴れるほどのことじゃないでしょ。あたしたちのほうが、よっぽど恥ずかしかったよ。ねえ」


 は、笑顔のまま両手を合わせて謝ると、ようへと顔を向け同意を求めた。


「ほんとだよ、もう」


 洋子も、軽い笑みを浮かべつつ頷いた。


「じゃあ、これに懲りて妙な真似はやめとくこった」


 優衣は、また鼻をすすった。ばーろーめてやんでえ、などとぶつぶつ文句をいいながら。


 ごわごわ紙ナプキンをまた一枚引き抜いて、思い切り鼻をかんだ。

 優衣のまぶたは腫れぼったく、真っ赤である。つい先ほど、大泣きをしたからだ。


 それと同じくらいに真っ赤になっているのが、絵美の顔である。こちらは恥ずかしさと、走り回ったことによる。


 事の発端は、先ほど入ったお店で、絵美が面白がって優衣に無理矢理に超ミニスカートを履かせようとしたことに始まる。


 だったら素っ裸のほうがよっぽどマシだ! と、優衣はわめきながら半裸のまま試着室を飛び出して、それどころか下着を脱ごうとしたのである。


 当然ながら、他の客から悲鳴が上がるわ、店長室で次は警察だよとガミガミ叱られるわ、絵美と洋子は散々な目にあったのである。


 優衣がちょっとおかしい子だとでも思ったのか、店長さんの怒りの矛先は洋子と絵美の二人にのみ向けられてくるし。


 しかも、問題を起こした一番の原因である優衣本人には、店を離れた後もこうして何度も何度も謝らされることになるし。


「ま、確かに嫌がる服を着せようとしたのは悪かったけさあ」


 ごめん、という言葉を、優衣がようやく落ち着いてくるまでの間に二人は何回発したことか。

 テーブルの上のフライドポテト超メガ盛りを、優衣にほとんど摘まれてしまったし。


 優衣からすれば、余計なことしたお前らが悪いだろということなのだが。


「そういえば、優衣、具合はどんな感じなの?」


 いつまでも試着の話題を引っ張っていても仕方がないし、と思ったか、洋子は話題を変えた。


「具合? どんなとは?」


 優衣は頬杖をついていた顔を、まだ重たそう不機嫌そうではあったがようやく上げた。


「ほら、事故にあってから、優衣、ちょっと変わっちゃったじゃない。あたしたちとの記憶も、ほとんどなくなっちゃってるみたいだし」

「相変わらず、かな」


 つまらなそうに答えた。

 自分自身が篠原優衣を知る努力をしていれば、もう少し違った答えになっていたのであろうが。


 最初は、その努力をしていた。篠原優衣として生活していく以上は、とにかく篠原優衣の情報をかき集めようと頑張っていた。途中で開き直って、サッカー関連以外、私生活に関わる一切の情報収集をやめた。


 本棚に、篠原優衣の日記帳を見つけてからである。

 そうした物の存在を知っている以上は、篠原優衣を追求したいと思ったならば読まないわけにはいかないからだ。


 そうであるなら、それはそれでいっそのこと、中途半端に過去の知識を持つよりは何事も記憶にございませんとしているほうが、あれこれ考える必要もなくすっきりしていていい。


 いずれにせよ、事実として篠原優衣の記憶などなにもないのだから。あの、少し前にどどっと強制的に流れ込んできた記憶以外は。


「この前、優衣ん家にテレビの取材、来てたでしょう?」


 絵美はスパイスとハーブの若鶏フライを頬張りながら、優衣へと視線を向けた。いっぱいいっぱい頬張りながらだったため、ほろらえへれびぼふざいひへはへほ、とでもいうほうが実際に発した音に近い。なんとか聞き取ることは出来たが。


「うん。来たけど。なんで知ってんの?」


 そっと、絵美のナゲットへと手を伸ばす優衣。パチッ、と手の甲を叩かれた。


 絵美は口の中のものを急いで咀嚼し、飲み込んでしまうと、今度ははっきり聞き取れる声を出した。


「あたし、またジョギング始めようかなーと思って、で、ちょっと外を走ってたらさあ」やはり太っていることを気にしてはいるようである「優衣の家の前に、車が停まってるのを見たんだよ。またサッカーの取材?」

「さっき話してた、その、事故のことでだよ」


 居眠り運転で赤信号を突っ込んでくるトラックから幼い女の子を救い、名も告げずに立ち去った少女、その正体は現役女子高校生なでしこリーガーであった。事実を聞き付けた二つのテレビ局から、取材の申し込みを受けたのだ。


 片方は先日、まつしまゆう死亡報道の扱いについて、爆弾テロを起こしたくなるくらいに腹を立てた局だったのですぐに断り、特に嫌悪感情のない一局のみを承諾して取材を受けたのだ。


 そのスタッフとの雑談の中で聞いたところでは、どうやら調べ上げたのは新聞社で、そこからその系列のテレビ局が声をかけてきたとのことである。


 ちょっと順序がちぐはぐな気もするが、そこからの流れで後日、自宅に警察が調書をとりに来て、さらに後日、助けた幼女の両親がお礼に来た。


 さらには明日、学校の朝礼で公表され、表彰されるらしい。昨日の昼に校長室に呼ばれ、校長から嬉々とした顔でそう伝えられた。


 そういう扱いを受けるのは、当人としては複雑な気持ちであったが。

 だって必死に勇気を振り絞って幼女を助けたのは、松島裕司ではなく、本当の篠原優衣なのだから。


 自分は、その事故のことなど、後から聞いた話にしか知らない。事の起きた真っ最中だか直後だかに、この身体に魂が入り込んだのだから当然だ。


 だから、この件は別にとぼけて隠し通してもよかった。

 でもそれでは、自分の生命の危機をかえりみずに幼女を助けた篠原優衣があまりに可哀相ではないか。


 だから、取材や表彰を受けた。

 それだけの価値のあることを、彼女はしたのだから。


「いつオンエアだっけ」


 洋子が尋ねた。


「来月の頭かな。やらないかも知れないけどね」


 松島裕司の時も、何度もあった、そういうの。

 ちなみに今回のインタビューの受け答えに関しては、かなり適当だ。前述の通り、自分の行動ではないし、その瞬間を自分が見たわけではないからだ。


「そういや、サッカーに関してはどうなの? また代表の話なんか来てないの?」


 絵美はそういうと、烏龍茶をストローで吸った。


「こいつ、つうかおれが、代表だってのは、ほんと実感なくて、よく分かんねえんだけど、まあ、あるわけねえかな。だってリーグ戦だって、身体が全然動かなくて困ってるんだ。なんかおれ、すっごい足を引っ張っちゃってるみたいで」

「そういやあ、この前も、熱中症で倒れちゃったしね。あ、あたし傷つくようなこといっちゃった?」


 絵美が慌てたように両手をばたばたさせた。


「いや別に。本当にその通り、この身体、軟弱すぎて困るよ。あとFKフリーキツクだな。ぜんっぜんダメだ。自分で蹴っておきながら、どこへ飛ぶのか分かんねえんだもん。なのにおれに蹴らせるんだぜ。冗談じゃねえよ」


 優衣は、絵美のビスケットにそーっと手を伸ばした。ペチッ。


「へえ、小学生の頃からFKは無茶苦茶上手だったのにね。代表でも蹴ってたんでしょ」


 絵美は小五まで、優衣と一緒のチームでボールを蹴っていたため、優衣のことならばそれなりに詳しいのだ。


「その台詞の方が、よっぽど傷つくなあ」


 どうせ松島裕司なんか、技術のまるでない、単に走るのが速いだけのFWだよ。


「えー、グサッとくるツボが全然分かんないんだけど」

「いいよ、分かんなくて。そんなにこいつ、じゃなくておれ、FK上手だったんだ?」

「うん。……あ、そうか、その頃の記憶もないのか」

「ない。FK、アンダーなんたら代表の試合でも、任されてたんかな?」

「うん。試合はテレビなんかでやんないから観たことないけど、優衣からそう聞いてたよ」

「そうか」


 優衣はがっくり肩を落とし、ため息をついた。


 篠原優衣の過去は追求しないようにしているがサッカーは別であること、先ほど説明した。自分がどんなプレーヤーであるのかを知らないことには、今後の試合に生かせないからだ。


 スランプと呼ぶのか分からないが、とにかく自分の肉体を上手く使いこなせない現在のような状態がいつまでも続けば、試合で迷惑をかけてしまうことになるし、そもそも試合にも出られなくなってしまう。そう思って、ベイスパロウの事務所で色々な記録を見せて貰ったり、DVDを借りたりして自分のサッカーを勉強しているのだが、代表のことはすっかり失念していた。以前、インターネットの動画で見たっきりだ。


 いま絵美から聞いたところでは、篠原優衣は代表でもFKを任されるような人材のようだ。

 ところが現在、国際規模の試合どころか単なる国内のリーグ戦でさえ、あのていたらくである。

 魂が別人なのだから仕方がないともいえるのだが、しかしそう考えると、ますます情けなくなる。肉体という条件は同じなのに、中身が自分であるというだけで、女子高生に遥か及ばないのだから。

 と、これが長いため息の理由である。


「まったく、あったま痛えことばっかりだよ。……あ、そうそう、サッカーの試合そのものも充分に頭が痛いんだけど、それとは別にちょっとゴタゴタがあってさあ。気になるというか、腑に落ちないというか、面白くないというか、正直ムカつくというか、ブッ飛ばしてやりたいというか。まあこの身体じゃあ、掴みかかってもボコボコにやり返されるだけだろうけど」


 と力無く背もたれに寄り掛かりながら前置きたらたら二人に話したのは、石巻ベイスパロウのチームメイトである西にしひさと思わずやり合ってしまった件についてだ。


「……そんでよ、宮城県ナンバーワンかツーくらいに温厚なおれも、ちょっとカチンときちゃってさ、いい返してやったんだよ。そんなの分かってんだよ、彼氏に振られたんか知らねえがうるせえ、みたいなさ。そしたらそいつじゃなくてキャプテンにぶん殴られてさ、振り返り様に顔面に二発も。彼女がどんだけ優衣を可愛いと思ってたか知らないはずないだろ、なんていってきやがんのさ」

「キャプテンさんがそういう態度とるくらいだったら、その人、優衣のことを本当に可愛がっていたんだよ」


 と、洋子は優衣に真剣そうなまなざしを向けた。


「いやあ絶対そんなことねえって」

「あーあ、可愛い後輩からそんなことをいわれたんじゃ、その久子さんって人、凄いショックだったろうなあ」


 絵美は両手を後ろ頭で組み、椅子の背に体重を預けた。ぎぎい、と激しく軋んだ。


「いや、だからおれのほうが酷いこといわれてんだぜ、いつもいつもさあ」


 優衣は不満顔で、テーブルを手のひらで軽く叩いた。

 半ば冗談ではあるのだろうが久子の肩ばかりを持つ二人に、


「くそ、いわなきゃよかったよ」


 後悔の言葉を吐いた。

 元はといえば、同情して欲しいわけではなくその時の久子の気持ちを知りたくて、それで切り出した話だというのに。

 しっかりと二人から、客観的な感想を得られたというのに。


 久子が篠原優衣を可愛がっているということが、どうしても信じられなかったのだ。優衣に変態的な趣味でもあれば、あれはあれで成り立っている関係なのかも知れないが。


 という冗談はさておき、実際のところ篠原優衣と西田久子というのは、どのような感じの二人だったのだろう。

 二人はどのようにお互いを思い、他人から思われていたのだろう。


 久子があんなであるのは前々からだとして、優衣はどのように、そんな久子のことを思っていたのだろうか。


     6

 果たして、充実した夏休みであっただろうか。

 そもそも、なにをもって充実というのか、定義など知らないが。


 単にやってきたことを思い返すのであれば、ちょこっと勉強とアルバイトなどをして、あとはひたすらサッカーの練習。それと、なでしこリーグの試合にも出た。

 それだけ、といってしまえばそれだけだ。


 せっかく十数年振りに高校生活をやり直すことになったというのに、ちょっと勿体ない気もするが、さりとてやりたいことが他にないのに無意味にあれやこれやとチャレンジしても仕方がない。高校生でなでしこリーグの試合に出たというだけで、充分過ぎるほどの青春の一ページではないか。


 ただ、サッカーの試合は別に夏休みとは関係なくやっているものなので、やはり夏休み特有の充実感を味わうことが出来なかったのは残念であった。


 しかしながら、充実というものとは違うのだが、変化はあった。

 しのはらという存在を認め、その人生を応援してあげたくなったこと。夏休み前は、なんだこいつは、なんだこの身体は、と文句ばかりだったのだから。


 自分はいつか、この篠原優衣の肉体から出ていかなければならない存在だと思っている。

 その日が来るまでは、これまで優衣のやってきたことを継続して頑張って、成長していこうと思っている。


 以前からそれと同じような思いはあったのだが、それはどこか意地や同情などからであり、しかも完全に上からの視点で見ていた。現在は、篠原優衣への尊敬の念という、まったくの別角度からそう思えるようになっていた。


 思考がそのように変化する大きなきっかけになったのは、思い返すにテレビ局のインタビューを受けた時だろうか。


 そこで改めて、篠原優衣って奴すげーな、勉強出来るだけじゃないもんな、と思ったのである。体力がないのは、サッカー選手としてやはり痛いところだが。


 いつか出ていかなければと思っている、とはいっても、どのようにすればそうなれるのかなどはさっぱり分からない。

 つまりは、この肉体がヨボヨボのババアになってこの世から滅び去るまで、ずっとこのままかも知れない可能性だってある、ということだ。でもそれならそれで、やはり篠原優衣という存在、人格を認めつつ、尊敬しつつ、現在を精一杯生きるしかない。やることはなにも変わらない。


 という前置きも終わりにして、

 現在は九月である。

 二学期の始業式から数日が過ぎて、授業も平常通り。


 静かな教室の中で、ほし先生の板書の音が響いている。

 古文の授業中である。


 自席の篠原優衣は、黒板に書かれた文字を見て、ちらりと教科書を見て、シャープペンでノートに書き込んでいる。


 一学期の終わりまでは「分っかんねええ!」と頭をガリガリかいたり、消しゴムをカッターできざみ始めたり、他の女生徒の頭を定規でペシペシ叩き始めたり、歌い出したり、まあ幼児並みに落ち着きがなかったのだが、その頃と比較するとまるで別人である。


 先ほど説明した、篠原優衣に対しての思いのためだ。

 いつか自分の魂がこの身体から消えてなくなる時のために、せめて授業でやっている内容くらいは、頑張ってこの脳味噌に詰め込んでおいてあげないと。せっかく本当の優衣が戻って来ても授業について行かれず、それこそバカ扱いされていじめられてしまう。と、そういった心境から。


 なお、勉強態度の変わった理由としては、もう一つある。

 篠原優衣の元々の脳構造が非常に優秀であるためか、少しずつ授業が理解出来るようになり、勉強への拒絶反応がなくなってきたのである。


 まだまだ成績は酷いものだし、まだまだ性格的にも机に向かうのは苦痛。

 でも、授業を黙って聞けるようになったし、難問に頭からぶつぶつ汗がふき出ることも奇声を張り上げることもなくなったし、先生が説明していることの一応の理解は出来るようになったし、頑張った分だけ成績が伸びることも実感出来た。机や教科書を想像するだけで鳥肌を立てていた頃と比べれば、素晴らしい進歩を遂げているといえた。


 しかし、それはそれとして……眠い。

 眠すぎる……


 優衣は、ごしごしとまぶたをこすった。

 昨夜、無理して遅くまで勉強をしていたせいだ。


 眠くて死ぬ。

 ただでさえ、午後の授業って眠くなるのに。

 参ったな、畜生。

 午後って、みんな絶対に眠くなるの分かっているのに、なんでやるんだろうな。やめちまうか、六時限一気にやってから昼飯にすればいいのに。


 絶対に採用されることのなさそうなアイディアを心にぼやく。


「お、そうだ」


 なにをひらめいたのか指をパチンと鳴らすと、世界史など分厚い教科書や参考書を何冊か取り出して積み上げたり並べたりし、隙間に鉛筆を二本、挟んで立てた。


 眠ったりしてガクッと落ちたらグッサリいくから、これで眠気も吹っ飛ぶだろう。

 まさに背水の陣。完璧ぃ!


 と、笑みを浮かべたその瞬間、ガクッと落ちて、おでこにグッサリ。

 うがっと叫び、ばったり床へと倒れると、意味不明な悲鳴を上げてごろごろごろごろと転がった。


「篠原、うるさいよお前は」


 星恵美子先生は板書する手を下ろし、振り返った。


「そうだよ、うるさいよ」

「二学期になってもバカは直んなかったね」

「まあ頭打っておかしくなってんだからしょうがないか。許してやろうよ」


 一部の者が、優衣をからかい始めた。

 一学期にも、勉強の出来ない優衣を散々とからかっていた者たちである。


 かつての成績優秀であった優衣に対して抱いていた劣等感が、ここ最近の授業態度の良い優衣を見たことで再び掘り起こされて、焦りを覚えていたのだろう。優衣の相変わらずのアホっぽい姿を見たことにより得た安心を、もっと得ようと次々と罵倒の言葉を投げかけているのだ。


「うっせえんだよ、てめえら! 死ね!」


 優衣は、机の上に積み上げていた教科書を手に取っては投げ、次々と彼女らにぶつけていく。


「はい、それじゃあ篠原、廊下へゴー」


 星恵美子先生は、怒っているのかいないのか抑揚のない喋り方で、廊下のほうを指さした。


「はあ? もとはといえば、こいつらが悪いんだろうが。ったく、立ってりゃいいんだろ。どうせ勉強なんか嫌いなんだ。丁度いいや」


 優衣は面白くなさそうな表情で、教室の後ろのドアへと歩き出した。


「あ、篠原、バケツを忘れるな」


 こうして優衣は、まだ二学期が始まって日も浅いというのに、早速にして廊下に立たされることになったのである。しかも両手に水一杯のバケツを持って。

 結局のところ、机や数式へと向かう耐性は出来ても、その他の耐性はなんら向上していない優衣なのであった。


 それから十五分が経過し、授業終了のチャイムが鳴った。

 早速と教室から飛び出して来て、優衣をからかい始めたのがよしおかきみだ。優衣にぶつけられた教科書の、角の硬い部分が耳元に当たったらしく、頭に来ていたのだろう。


 ここはお嬢様学校だというのに、一人コギャルのような外見の君子は、優衣の前に立つとその顔へ自らの顔をぐーっと近付けた。


「バケツ持って立たされるなんて、漫画かよお前」

「うるせえな、あっち行ってろ」

「バーカ」


 君子は、優衣の両手が塞がっているのをいいことに、右手をさっと伸ばしてスカートの裾を掴み、めくり上げようとする。


「なにすんだてめえ!」


 通常は、腰を屈めるなど防御するところであろうが、優衣は攻撃は最大の防御で足を伸ばして爪先でめくり返そうとした。


「バカ篠原!」


 君子は優衣の足を払いのけて再接近、密着すると、またもや優衣のスカートをめくり上げて、今度は中に手を突っ込んで下着に両手をかけて引きずり下ろそうとした。


「死ねえ!」


 下着をずり下げたところで死ぬことはないと思うが、とにかく君子はそう叫んだ。


「てめえが死ね!」


 優衣はバケツを持ったまま、君子に容赦のない頭突きを食らわせた。

 まるでプロレスのワンシーンのように、君子はぐらりよろめいた。


「ああ、邪魔だこれ!」


 優衣は、左手に持ったバケツを手放して床に落とすと、もう一つの右手のバケツを両手で持って横に払い、たっぷりあった中身をすべて君子の顔面へとぶちまけた。


 ぶしゃ、と音が響いて君子の全身は一瞬にしてびしょ濡れになっていた。

 ずぶ濡れの君子は、唖然とした表情でゆっくりと視線を落とした。自らになにが起きたのか、一瞬では理解出来なかったのだろう。


 池のように水が広がる中、優衣がすっきりした表情を浮かべていると、


「お前ら、なにやっとんだ!」


 生活指導のきぬがさげんぞう先生の怒鳴り声。


 優衣だけ職員室に呼ばれ、正座をさせられ、小一時間ほどの説教を受けることになったのであった。

 豪華なことに、明日までに反省文十枚提出の特典付きで。


     7

 西にしひさは、古びた木の扉を引いた。それは見た目から誰もが想像しそうな、ぎいという音を立て、開いた。


 ここは久子が個人的に通っている整骨院だ。

 吹けば飛ぶような貧乏院であること、中に入るまでもなく建物の外観からもはっきり伝わってくる。入ってみればやはり、だ。


 院長が名医と聞いて、数年前から通い始めたのだが、他の整骨院をあまり知らないのもあるし名医なのかどうかは分からない。

 ただ、居心地の悪くなさに何度か診療を受けているうちに通院が癖になってしまっただけかも知れない。


 受付を済ませると、奥の薄暗いところにある長椅子の端に座った。


 彼女の服装は、白いTシャツに青のショートパンツ。安物のサンダル。靴下は履いていない。

 両膝と、右の足首には、少し厚めのマジックテープ式のサポーターをしている。


 いくら暑いからとはいえ、普段はこんな露出の多い服装はしない。今日は診療の日だから、足を診て貰いやすい格好をしているだけだ。


 長椅子で順番を待っている久子は、サンダルを脱いだ片足を膝の上に乗せると、土踏まずの辺りを指の先でなでた。そしてそのまま、ぐっぐっと、押してみた。


 ちょっと、やり過ぎてしまったかな。

 仕事中に、爪先立ちをである。

 この診療が終ったら、サッカーの練習があるというのに。


 久子は、海産物の加工工場で働いている。

 石巻いしのまきベイスパロウのスポンサーの一つである、ながむら食品の工場だ。チームメイトでは、他にせんチカとなかけいがそこにお世話になっている。


 最近、久子は缶詰の不良チェック係にまわされた。

 これまでは現場ではなく裏方、経理であったため、つまりは座り仕事から立ち仕事になった。


 一日中、同じところに立ちっぱなしなので、仕事が終わる頃には相当な疲労が足腰にくるが、泣き言をいっても仕方がない、と始めてみたのが爪先立ちトレーニングだ。同じ疲れるのなら、受け身になって文句だけいっているより、自ら進んで行なったほうがいい。

 どのみち自分には人一倍の筋トレが必要なのであり、これまでだって爪先立ちはやっていたのだから、その分だけ他のトレーニングが出来るというものだ。


 そう思って続けていたのだが、しかし今日はちょっとやり過ぎてしまった。両足首に、それぞれ一キログラムもあるウエイトなどを巻いてしまったのだ。筋肉に違和感を覚えて昼前には取り外したが。


 今日この整骨院に来たのは、なにか特別な用事があったからではない。爪先立ちをやりすぎたから来たわけでもない。

 ずっと前から慢性的な足の痛みを抱えており、定期的に通っている、ただそれだけのことだ。


 今日はすでに何人か患者がいるので、いつもより待つことになりそうだ。それでも練習時間までには、余裕で間に合うとは思うが。


 久子は保険証を財布に入れると、ハンドバッグを開いて、その財布をしまった。


 と、その時である。バッグの内側に、写真らしき物の角がちょろと見えているのに気が付き、指先で摘んで引っ張り出してみた。


 それは懐かしい写真であった。

 バッグに入れっ放しにしていたこと、すっかり忘れていた。


 その写真には、オレンジ色のユニフォームを着た二人が写っている。

 一人は久子本人。まだ高校生くらいであろうか。顔立ちにはどことなくあどけなさが残っており、中学生のようにも見える。

 その隣にいるのは、顔立ちといい、背丈といい、久子よりもっともっと幼い。小学五年生のしのはらである。


 二人は肩を密着させて、カメラに向かってブイサインをしている。

 写真の久子は屈託のない実に無邪気な表情、文字通り、とろけるような笑顔だ。

 十七歳の時の写真だが、それが中学生のようにも見えるのは、笑顔があまりに純粋だからであろう。


 それに対して、優衣の表情はガチガチもいいところ。ポーズも、無理矢理にとらされているため、なおさら硬い表情になってしまっている。


 優衣がベイスパロウユースのセレクションに合格し、その直後に行なった練習の際に撮った写真だ。


 懐かしい。

 確かあの時、周囲に溶け込めないで一人でぽつんとしている優衣に、自分から声をかけたのだ。


 そうしたら、なにも心構えをしていない二人に、もとあかねがいきなりカメラを向けてきて、はいイチニイサンで覚悟もなにもないまま撮られてしまったのだ。


 「うわあ、茜さんいまの酷いよお。もおお。あたしぜえーったい変な顔になっちゃってるよお。ねえ、もう一枚、ちゃんと撮ってよお」

 と、おねだりして撮って貰ったのが、この写真。


 笑顔の久子が写っている、最後の写真だ。

 もう、六年も前のことである。


 あの頃、久子と優衣は、誰の目にも実に仲良く見えたことだろう。

 とはいっても、優衣はこの頃も現在も変わっていない。他の人に対するのと同様に、久子に対しても常にもじもじと下を向いているだけ。久子のほうが、勝手に優衣にべったりだったのだ。


 いじりやすい後輩が出来たというだけでなく、優衣のサッカーの才能に惚れのだ。


 「あたしの後を継ぐのは、こいつしかいない」

 と、優衣を勝手に子分扱いにして、いつも引っ張り回していた。どこどこに美味しいお店があるレッツゴー! などサッカーとまったく関係のないことにまで。


 とにかく、そういう後継者発言が冗談にせよ口をついて出るほどに優衣の才能を高く買い、また、自分の才能にも自信を持っていたのだ。


 実際に、久子は十六の頃からフル代表として活躍していたし、優衣にしてもこの後に世代別代表の常連になるわけで、特に大袈裟なことをいっているわけではなかった。


 将来に希望の二文字しか見えない、充実した毎日であった。


 しかし、それからほどなくして、久子は翼を失った。

 肉体と精神の両翼を、神様は無残にももぎ取った。


 どのようにであったか、それを語ろう。

 久子は神戸のクラブチームに、充実した練習環境と高卒後のプロ契約を条件に話を持ち掛けられ、移籍を決めた。

 ベイスパロウのみんなは、気持ち良く送り出してくれた。


 移籍先でも久子は攻守両面において大車輪の活躍をした。

 まだ十代ながら、クラブだけでなくフル代表でも欠かせない存在になっていた。


 移籍からもうじき半年という頃、クラブでの練習試合中に右足を負傷した。

 靭帯断裂の、選手生命に関わる大怪我であった。


 大手術、そしてリハビリの末、数ヶ月後にはなんとか歩けるまでには回復したが、サッカーを続けることは無理との診断が下された。


 諦め切れない久子は、医師の指導のもとで必死にリハビリを続け、そして徹底的に足腰に筋肉をつけることで、サッカーを出来る身体を取り戻した。


 だが、そうなればこその絶望が、悲劇が、そこには待っていた。


 久子は元々、技術やセンスに加え、足も非常に速い選手であった。初めてフル代表に選出された時から、攻守に渡る大活躍を見せてパーフェクトプレイヤーとメディアで騒がれたこともある。神は三物も四物も与えた、と。


 しかし負傷後は、どう頑張ってもサッカー選手としては底辺クラスの速度でしか走ることが出来なくなっていた。

 どんなに頑張ろうと、あの俊足は、もう二度と戻ってこないのだ。


 確かな技術やセンスはあるわけだから、せめて上背でもあればFWとして生き残る術はあったのかも知れないが。


 怪我をしたことを悔やんでも仕方がない。

 悪いのは自分なのだから。

 色々な面での、自覚が足りなかったということだ。

 サッカーが出来るというだけで奇跡なのだ。それ以上の贅沢などいえない。


 悔やむ度に自分にそういい聞かせたが、それでも悔やみ、落ち込まずにはいられなかった。


 それでも自分になにが出来るのかを懸命に模索し、死に物狂いの練習を続ける久子であったが、しかし、かつての輝きを失った彼女にクラブはあっさりと戦力外通告を出し、追い出した。


 ほとんど放心状態のまま地元である石巻市に戻ることになった久子は、帰郷の噂を聞いたベイスパロウスタッフから声をかけられ、復帰することになった。


 かつての仲間たちとサッカーをすることは、とても悔しく、恥ずかしかった。

 仲間たちはみな、送り出した時と同様に、心から自分を受け入れてくれている。それはとても心地好い雰囲気、空間であるはずなのに、その心地好さが反対に辛かった。


 自分にこのオレンジ色のユニフォームを着る資格があるのだろうか。そう、常に自問しながら、サッカーを続けた。


 これほど生きているのが辛いと思ったことは、初めてであった。


 その頃からだ。

 いつも笑みを絶やすことのなかった久子の顔から、笑みが消えたのは。


 笑みだけではない。

 喜怒哀楽を感じる心の器が、砕けてしまったのか、穴があいてしまったのか、傍目から見て無表情無感覚な人間になってしまっていた。


 おもいきり笑ったり、泣いたり、楽しんだり、そういうことにまるで興味がなくなっていた。


 それでも死に物狂いでサッカーを続けていたのは何故だろう。

 あんな情けない気分を味わいながらも続けていたのは何故だろう。

 全力で走るたびに足が、全身が、ばらばらになるくらいに痛むのに、それでも走ろうとしてしまうのは何故だろう。

 こんなことしていても、辛いだけなのに。


 何故なのか、自分でも分からなかった。

 もしかしたら、優衣がいてくれたからかも知れない。

 ふと、そう思った。


 それは、妹のように可愛がっていたから?


 自問した。


 違う。

 きっと、未来を失ってしまった自分が、優衣に、未来を見ているんだ。


 そう思った。

 だから、より優衣に厳しく接するようになった。コーチでもなんでもないくせに。


 わたしの未来、希望なんだから。

 それは優衣にとっては、迷惑なだけかも知れないけれど。


 優衣はどんどん成長していった。

 代表に選ばれるくらいに。

 でも、気弱なところは全然直らなかった。


 ならばわたしが心を鍛えてやろうと、いつからか随分と辛く当たってばかりいるようになってしまった。


 本当に、優衣は泣いてばかりだった。

 二人の涙の出所は、どこか異次元で共有されているのだろうか。優衣が涙を流せば流すほど、反対に自分からはどんどん涙が失われていった。なにが起ころうとも泣かなくなっていた。


 わたしが最後に泣いたのって、いつだっけ。


 そうだ、

 優衣が練習で怪我をしてしまった時だ。


 幸いにして軽い捻挫であったが、しかしあの時、それを見ていたわたしの目からは何故だかとめどなく涙が溢れてきた。そして、泣きながら優衣に謝ったのだ。


 「ごめんね。ごめんね」

 嗚咽の声をもらしながら、優衣に何度も何度も頭を下げたのだ。

 あれだけ自分が怪我に苦しんで、惨めな思いをし、だから優衣には絶対にそんな目にあって欲しくないと思っていたのに。


 実際には、優衣の怪我は自分になんの責任もない。

 そんなこと分かっていたが、痛がり転がっている優衣を見ているうちに、自然と涙が溢れ出てきて止まらなかったのだ。

 怪我をさせないようにもっと厳しく注意をしておくべきだったのだ。と、理由を探して自分を責めた。


 いくら嫌われようとも構わないから、優衣には強く育って貰いたい。優衣のその怪我は、久子のそういった思いをより強くさせた。


 久子は、ふーっとため息に似た長い息を吐くと、バッグの中に写真を戻した。

 自分の診療順番は、まだまだのようだ。でも、いま一人入っていったから、次の次くらいだろうか。


 とりあえず膝のサポーターを外した。マジックテープのベリベリという音が、しんとした院内に響いた。

 次いで右足首のサポーターを外した。


 また、膝の上に足を乗せて、右足の色々なところを親指でぐっぐっと押してみた。


 梅雨などもう何ヶ月も前に過ぎてているというのに、相変わらず関節なのか筋なのかが、じくじくと痛む。


 足を下ろし、サンダルを履いた。

 両腕を組み、背もたれに重心を預けると、また長いため息をついた。


     8

 それは、まったくの偶然であった。

 石巻いしのまき駅前でまつしまゆうの、つまり「おれの母親」と遭遇したのだ。


 両親の姿は、告別式の時にちらと見たきり。あれからほんの数ヶ月しか経っていないというのに母はより背が小さくなり、白髪も増えたように思えた。


 声をかけたい。声をかけて呼び止めて、おれはここにいるということを伝えたい。


 そういう衝動にかられたが、しかし常識的に考えれば、そうしたところで自分が裕司であることを信じてくれるはずがない。肉体はまったくの他人なのだから当然だ。


 二人はすれ違った。


 その時である。

 向こうは、軽く会釈をしてきた。


 無意識に少女の中に裕司を感じたから、などということではなく、ただ単に優衣が思わずじーっと見つめてしまっていたからであろうか。

 だがその会釈が、優衣の、裕司の、次の行動の引き金になった。


「あのっ!」


 優衣は、振り返ると大きな声で呼び止めていた。

 松島裕司の母親も、足を止め、ゆっくりと振り向いた。


「あの……おれっ、松島選手の、ファンでした!」


 なんで自分がこんなことをいっているのか、自分でも分からなかった。たぶん、ただなにか言葉をかわしたかったのだろう。母の元気な声を聞きたかったのだろう。


「あらそうなの? こんな可愛らしいお嬢さんのファンがいて、裕司も幸せだったでしょうね」


 彼女は目を細め、ニコリと笑った。


「それじゃあ」


 また会釈をすると、ゆっくりと通りの向こうへと去っていった。


 優衣はぴくりとも動かず仁王立ちで、松島裕司の母親の背中が小さくなっていくのを見つめていた。

 やがて姿が完全に見えなくなったが、それでも優衣は口をきゅっと結んだまま、そこに立ち尽くしていた。


 それから、どれくらいの時間が経過したであろうか。

 ようやく、小さく、口を開いた。

 絞り出すような、声を出した。


「優衣、お前さあ、今日から、おれのファンになれよな。もう死んじゃった選手だけど。でも、そうならないと、お前さあ、嘘つきに、なっちまうぞ。だからさ」


 優衣の目から、涙がこぼれ落ちた。

 鼻をすすった。


 空を、見上げた。

 結局、込み上げてくるものを抑えることが出来ず、声を上げて泣き出してしまった。


 上を向いたまま、まるで幼子のように。

 通行人が見ているというのに、どうしてもその涙を、嗚咽の声が洩れ出るのを、止めることが出来なかった。

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